第19話『終わりの始まり(後編)』【2】
会見が終わると、張り詰めていた空気が一気に緩んだ。記者たちが退出し、スタッフが機材を片付け始める。さっきまで無数のフラッシュを浴びていたステージも、ただの撮影場所に戻りつつあった。
美夏が控室に戻ろうとしたとき、背後から声がした。
「星凪さん。ちょっといいかな?」
振り返ると、寿志が立っていた。
「……はい」
「映画の内容について、個人的に打ち合わせしたいことがあるんだよね。このあと二人で会えないかなぁ?」
寿志はにやにや笑いながら、美夏の全身を眺めている。その目を見ただけで、彼が何を考えているのか、嫌というほど伝わってくる。
美夏は僅かに身構えた。回帰前の記憶が脳裏をよぎる。
この男と二人きりになってはいけない。美夏はきっぱりと答えた。
「それでしたら、スタッフの方を交えて──」
「……ちょっと! 星凪さん!」
突然、横から声が飛んできた。
黒瀬聖子が二人の話に割り込んできたのだった。
聖子は敵意も露わに言った。
「寿志先生に色目を使わないでくれる?」
「……え?」
美夏は思わず目を瞬いた。まったく心当たりがない。
寿志まで呆気に取られている。
「おいおい。何を言ってるんだ、聖子ちゃん」
「何って、見れば分かるでしょう?」
聖子は美夏を睨みつけた。
「寿志先生を見つけたのは私なんだから。横取りしないでよ!」
美夏は言葉を失った。聖子が何を言っているのか、なぜここまで怒るのか、まったく理解できなかった。だが、美夏以上に驚いていたのは寿志だった。
「彼女は主演女優だよ? 打ち合わせをして何が悪いんだ!」
「そんなの必要ないでしょう?」
聖子の声が一段と大きくなる。
「内容なんて、どうでもいいの。どんな駄作でも、私が宣伝すれば必ずヒットするんだから!」
聖子の声が、楽屋に響いた。
美夏は息を呑んだ。その言葉を、ここで口にするのか。周囲にはスタッフが何人もいるし、壁一枚を隔てた場所には、今も会見関係者が残っているかもしれないのに。
しかし聖子は、自身の失言に気づいていないようだった。
「聖子ちゃん……」
寿志が呆れたように額を押さえる。
常識人を装っているが、自分の態度のおかしさに無自覚な点は彼も同じだった。彼が本当に映画を撮影していたならば、聖子の失言を自作に対する侮辱と受け取っていただろう。しかし寿志は怒らなかった。彼が怒ったのは、美夏に対する下心に水を差されたことだけだった。
美夏は内心で頭を抱えた。こんな場所に突っ立っていれば、どんなトラブルに巻き込まれるか、分かったものではない。かといって下手に逃げ出せば、寿志や聖子にどんな言いがかりをつけられるか──
そのとき、穏やかな声が聞こえた。
「美夏さん、スタッフさんが呼んでますよ」
「え?」
振り返ると、月城律がいた。
律は美夏の手を取ると、自然な動作で歩き出す。美夏は彼に続いた。背中に寿志と聖子の視線を感じる。角を曲がり、二人の姿が見えなくなったところで、美夏は小さく息を吐いた。廊下の先には、誰もいなかった。
律は不思議そうに首を傾げた。
「あれ? おかしいな……聞き間違いだったみたいですね」
そう言って、困ったように笑う。
美夏はすぐにその意図を理解した。
「助けてくれて、ありがとうございます」
「助けた……? 僕はただ、聞き間違えただけですよ」
律は笑ってそう言った。美夏も微笑んだ。
けれど、胸の奥は落ち着かなかった。自分のせいで、律まで寿志や聖子に目をつけられるかもしれないと思うと、浮かれるわけにはいかなかった。
◇
自宅マンションのドアを閉め、靴を脱ぎ、鞄を置く。寮として貸与されたワンルームの部屋には、必要最低限の家具しかない。華やかな芸能界の舞台裏としては、いささか味気のない場所だった。
疲れた。美夏はソファに座るようにベッドに腰を下ろした。
その直後、スマートフォンが鳴った。画面に表示された名前を見て、美夏の眉が僅かに寄る。母からの着信だった。
「……もしもし」
『美夏!』
聞こえてきたのは、聞き慣れた声。いつも通りの怒鳴り声だった。
『なんで黙ってたの!』
「何が?」
『映画よ! 今日の記者会見! あんな映画に主演するなんて、お母さん、一言も聞いてないじゃない! なんで言わなかったの!』
母の声がさらに大きくなる。
『あんたがちゃんと言わないから、親戚のおばさんたちに教えてあげられなかったじゃない! せっかくテレビに出るんだったら、前もって言ってくれればよかったのに!』
美夏は何も言わなかった。
おめでとう。すごいじゃない。頑張ったわね──そんな言葉は、一つもない。母が気にしているのは、自分が親戚に娘の成功を自慢できたかどうかだけだ。回帰前も、そうだった。どれだけ頑張っても、テレビに出ても、仕事を取っても、母は決して美夏自身を見なかった。『娘を持つ母親として、自分がどれだけ他人より上に立てるか』。母が木にしているのは、ただ、それだけだった。
美夏は深呼吸をしてから、言った。
「……お母さん」
『何?』
「私に成功してほしいなら、お母さんは口を出さないで」
電話の向こうが静かになった。
どれほどの時間が流れただろう。長い沈黙のあと、スマホから低い声が聞こえてきた。
『……それが親に対して言うことか。今まで誰が養成所に通わせてやったと思ってるの! 小さい頃から、どれだけお金をかけてあげたと思ってるのよ!』
堰を切ったように、母の声が荒くなる。
『口答えするなら、今までにかかったお金を全額返せ!』
美夏はスマートフォンを耳から離した。
昔なら、この言葉だけで胸が潰れそうになっただろう。
自分は役立たずなのかもしれない。母が黙ってくれるまで頑張らなければならない。そうやって、無駄に努力した。だけど今は、どうでも良かった。
「……アイドルになりたいなんて、私は一度も言ってない」
それだけ言うと、美夏は通話終了のボタンを押した。続いて電源を切る。
不思議だった。悲しくないわけではない。腹は立つ。悔しい。だけど、以前ほど苦しくはなかった。もう知っているからだ。自分が何をしても、この人は決して満足しない。だから──言いなりになる必要など、最初からなかったのだ。
美夏はスマートフォンをテーブルに置いた。
静まり返った暗い部屋に、時計の音だけが響いていた。




