第17話『粉砕』【1】
レッスンルームを出ていった舞白の足音が、廊下の向こうへと消えていく。
美夏は、その場から動けなかった。鏡に映った自分の顔を見つめる。
回帰前の舞白のほうが、今の舞白よりも、ずっと冷静だった。
美夏は知っている。White Noiseがテレビを干され、グループ全体が地下アイドルのような活動に追い込まれたあとも、舞白だけはブロードバンドTVのVoid Channelでレギュラー番組を持っていた。広告を入れず、スポンサーへの忖度を必要としない配信会社。その経営者、鷺坂至には、舞白に救われた恩があると言われていた。舞白のアドバイス通りに投資して、経営難を逃れたという。
当時はただ、舞白の知性と人柄ゆえだと思っていた。
しかし、回帰前のあの世界の舞白こそ、別の世界の未来を知る回帰者だったのだとしたら、話は違ってくる。舞白は、別の世界の未来の記憶を利用して仕事を獲った。そして──
「気づいたかい?」
どこからともなく声がした。
美夏は振り向いた。そこには誰もいなかった。なのに鏡の中にだけ、男が立っている。長い黒髪に、人間離れした美貌。そして、こちらを見つめる赤い瞳。
「アザゼル……」
美夏は鏡に近づいた。
「どうしてここに?」
「君が私を呼んだからさ」
「呼んでない」
「そういう意味ではないよ」
アザゼルは微笑んだ。
「君が疑問を抱いた。だから私は現れた」
相変わらず、ふざけているのか本気なのか分からない男だった。
美夏は苛立ちを抑えながら尋ねた。
「舞白は……回帰者だったの?」
「そうだ」
あまりにも簡単な答えだった。
美夏の胸の奥がざわつく。
「でも、あの子は何も覚えてない」
「正確には、このワールドの彼女は、自身の回帰前の記憶を完全には覚えていない」
アザゼルは鏡の中で腕を組んだ。
「回帰者は、一つのワールドに一人しか存在できない。君が存在していたワールドを、別のワールドとして複製した場合、複製先には他のワールドの記憶を保持する回帰者は存在しない」
「どうして?」
「接続が切れるからだ」
アザゼルは淡々と説明する。
「回帰者の記憶は、通常の人間の脳に保存された経験とは少し違う。元のワールドとの接続によって維持されている」
美夏は眉を寄せた。
「だから、複製された世界の舞白は……」
「回帰前の世界との接続を失った。しかし、完全に、ではない」
アザゼルの声が静かに響く。
「接続が弱くなったことで、記憶は断片化する。言葉にならない感覚。説明できない既視感。そして──夢の中に繰り返し現れる」
美夏は、舞白の言葉を思い出した。
デビュー前。まだ会ったこともない美夏が、夢に出てきたと舞白は言った。
美夏は呟いた。
「……だから舞白は、知らないはずの私を夢で見ていたのね」
「そういうことだ」
「だったら……」
美夏の指先が震えた。
回帰前の自分に起きたことを思い出す。
仕事を奪われ、居場所を奪われ、最後には、殺された。そしてその破滅に至る道筋には、舞白がいた。彼女はいつも笑っていた。捏造記事で週刊誌に叩かれたときも、彼女は美夏に笑顔を向けていた。
美夏は、ゆっくりと顔を上げた。
「私を殺したのは……舞白なの?」
「直接、という意味ではないが」
「同じことでしょ!」
美夏の声がレッスンルームに響いた。
「私を破滅させたのは、舞白だったんでしょ?」
アザゼルは答えなかった。その沈黙が、肯定に思えた。
胸の奥が熱くなる。怒りだった。悔しさだった。そして、裏切られたような感覚だった。回帰前の世界で、舞白はいつも自分の隣で笑っていた。そしてこちらの世界では、自分のほうを見ていた。夢にまで見たと話していた。ドアノブに手をかけて、こちらを振り返り、「美夏、また話そうね」と言っていた。
なのに──あの日、廃遊園地で天導から見せられた写真を思い出す。夜景を背に笑っている舞白と律のツーショット。今なら分かる。舞白はあの写真を自分に見せたかったのだ。
「……許さない」
美夏はバッグを掴んだ。
「待て」
「嫌」
「どこへ行く?」
「舞白のところ。復讐してやる」
美夏はドアへと向かった。足が止まらない。
今ならまだ、舞白は何も知らない。彼女が思い出す前に、自分が受けたものを、同じように返してやる。
「美夏。それは、この世界の舞白への復讐だ」
「だから何?」
美夏は振り返り、鏡の中のアザゼルに抗議する。
「舞白は舞白でしょ?」
「違う」
「何が違うの? 同じ顔、同じ身体、同じ名前よ」
「だが、同じ人生を生きてはいない」
アザゼルは鏡の中から静かに美夏を見つめている。
「このワールドの朝霧舞白は、まだ何もしていない。回帰者として生きた記憶もないし、君を破滅させた経験もない。それでも彼女を裁くのなら、それは復讐ではない」
アザゼルの声は穏やかだった。
「無実の人間を、別の世界の罪で裁くことになる」
「……悪魔に説教されたくない」
美夏は吐き捨てるように言った。
「復讐の機会を与えると言ったのはあなたでしょ。やめさせようとするなんて、契約違反じゃない!」
「君らしいね」
アザゼルは微笑んだ。
美夏にはその態度が余計に腹立たしかった。
「笑わないで」
「笑っていないよ」
「……もういい」
美夏はドアを開け、廊下に出る。
背後の鏡には、まだアザゼルがいるのが分かる。
美夏は一度だけ振り返った。
「私は、舞白を許せるほど出来た人間じゃない」
「知っているよ」
アザゼルの声は、やはり穏やかなままだった。
美夏は不意に、回帰前のあの日の月城律を思い出した。USBメモリを手渡して、信じていると言った律。この世界の舞白が別の人間だというのなら、この世界の律だって別の人間だ。自分を信じてくれた律は、この世界にはまだいない。そして未来にも、いるかどうか定かではない。でも──そんなこと、回帰後の自分と二年前の自分が別人だと思った時点で、分かり切っていたはずのことだった。
レッスンルームの扉が閉じる。
鏡の中に残されたアザゼルは、ただ静かに美夏の背中を見送っていた。




