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私が売れたのは、殺されたからでした──回帰したアイドルは二度と愛を求めない  作者: 白波 灯


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第15話『迷い込んだ蝶』

 夜のレッスンルームは、昼間とは別の場所のように静まり返っていた。

 窓の向こうには、ビルの谷間に無数の明かりが浮かんでいる。遠くを走る車のヘッドライトが流星のように通り過ぎ、ガラスに映った照明が鏡張りの壁へ淡く重なっていた。

 レッスンを終えても美夏はまだ室内に残っていた。

 広いレッスンルームには、もう美夏ひとりしかいない。


 鏡張りの壁に映る自分の姿を見ながら、美夏は何度目になるかも分からない振りを繰り返していた。

 腕を上げる。ターン。踏み込む。止まる。呼吸を整える──柊木(ひいらぎ)に教わっていた殺陣ではなく、デビュー曲のダンスの練習。あの日感じた壁を美夏は今も越えることができずにいる。壁とは何なのか、自分には何が足りないのか、考えれば考えるほど答えは見えなくなる。だから今は、できることをする。いつか視界が開けると信じて。それに、身体を動かしていると、余計なことを考えずに済んだ。

 そうして最後の振りを終え、大きく息を吐いたそのとき、レッスンルームのドアが開いた。


「……あ」


 聞き覚えのある声がして、美夏はそちらを振り返った。

 立っていたのは、舞白(ましろ)だった。


「美夏……?」

「舞白、どうしたの?」

「うん。ちょっと……忘れ物しちゃって」


 舞白はそう言って、部屋の隅へと歩いていく。

 美夏は鏡へ向き直った。しかし、身体を動かす気にはなれなかった。

 舞白と二人きり。考えてみれば、こうして二人だけになるのは初めてのことだった。

 それなのに、やけに気まずい。理由は分かっている。舞白の視線が気になるからだ。美夏は気づいていた。最近、舞白が自分をよく見ていることに。廊下でも、楽屋でも、レッスン中でさえも、ふとした瞬間に視線を感じる。

 回帰前には、そんなことはなかった。

 舞白は美夏に対して、特別な関心など示していなかったはずだ。

 なのに何故、こんなことになったのか──美夏には心当たりがなかった。


「ねえ、美夏……」


 舞白の声がした。


「ん?」

「私たち、デビューする前に、どこかで会ったことってある?」

「……え?」


 美夏は固まった。心臓が早鐘を打つ。

 もちろん、会っている。回帰前の世界で、何度も。しかし、それは舞白には知り得ないはずのことだった。

 美夏は舞白の顔を見つめた。

 そして、自分でも気づかないうちに口を開いていた。


「……舞白って、初めて会ったときにもそう言ってたよね」

「うん。美夏のこと、ずっと前から知っているような気がしたから」


 舞白は困ったように笑う。

 しかし美夏は自分の言葉に驚いて立ち尽くしていた。


(……今、私……何を言ったの?)


 初めて会ったときにも、そう言ってたよね──確かにそう言った。

 何も間違ってはいない。まるで昨日のことのようにはっきりと思い出せる。デビュー前の顔合わせの日、舞白と初めて会ったとき、舞白は確かに同じことを言った。


 ──私たち、どこかで会ったことありませんか?


 そんな記憶が、美夏にはある。

 けれど、回帰前の自分には、そのような記憶はなかった。

 美夏は眉を寄せた。記憶そのものは確かだった。捏造された感覚ではない。自分自身の体験として、頭の中に存在している。それなのに、回帰前の記憶と照らし合わせると、その部分だけが噛み合わない。


(どういうこと……?)


 美夏の背筋に冷たいものが走った。

 自分が回帰したのは、死んだ日からちょうど二年前。そしてデビュー前の顔合わせは、その時点より前の出来事だ。つまり、出会ってすぐの舞白の言葉は、今の身体に、今の脳に、記憶されたもの。パラレルワールドとの接続によって保持されている『回帰前の記憶』ではなく。これら二つの記憶のズレが意味することは──回帰前と回帰後の舞白の言動の違いは、美夏の回帰の影響によるものではない、ということだ。

 美夏が黙っていると、舞白が小さく首を傾げた。


「……美夏は何か、覚えてる?」

「ううん。どうしても心当たりがなくて……」


 美夏は慎重に答えた。


「舞白も覚えてないんでしょ?」

「うん……」

「どうしてそんなことを聞くの?」

「実はね……」


 舞白は少し迷ってから、ゆっくりと口を開いた。


「デビュー前の顔合わせの日よりも前に、美夏が夢に出てきたの。変だよね。会ったこともない人が夢に出てくるなんて……。だから、もしかしたら本当にどこかで会ったことがあるのかなって……」


 美夏は黙って聞いていた。

 舞白は少しだけ視線を落として、言葉を続けた。


「でも、私も夢のことはよく覚えてなくて。美夏がいたことだけは覚えてるんだけど」


 その言葉を聞いた瞬間、美夏の中で、いくつもの違和感が一本の糸に繋がった。

 夢。自分に向けられた舞白の視線。デビュー前から抱いていたという既視感。そして──回帰前にはなかったはずの、自分の記憶。この世界の舞白には、パラレルワールドの記憶がある。ならば彼女も回帰者なのか。それにしては様子がおかしい。もしも高次元生命体と契約して回帰したならば、回帰前の記憶についてこうして人に話すだろうか。目の前にいる舞白は、本気で困っているように見える。そのように見えるように演技しているようには見えない。

 美夏はしばらく考えてから、舞白に答えた。


「……私は、そういう夢は見たことがないの。デビュー前の顔合わせよりも前に舞白と会ったことがあるかどうかも、覚えてない」


 嘘ではなかった。

 舞白は少し寂しそうに笑った。


「そっか……」

「ごめんね」

「ううん。変なこと聞いてごめん」


 舞白はバッグを手に取った。


「じゃあ、私はもう帰るね」

「うん」


 ドアに向かう舞白の背中を、美夏は無言で見つめていた。

 何か言わなければと思った。だけど、何を言えばいいのだろう。

 舞白はドアノブに手を掛けて、美夏を振り返った。


「美夏、また話そうね」

「……うん」


 舞白が去り、ドアが閉じるとレッスンルームに静寂が戻った。鏡の中には、美夏の姿しかない。美夏は、さっきまで舞白のいた場所を見つめながら、考え続けた。

 回帰前も今も、舞白は同じ顔のまま、同じ声のまま。それなのに、中身はまるで、別人になったかのようだ。回帰前の舞白の方が、冷静だった。回帰前の舞白の方が、しっかり者だった。回帰前の舞白は、美夏に頼ってこなかった。回帰前の舞白は、美夏に答えを求めなかった。今の舞白はまるで、何かが抜け落ちたかのようだ。まるで記憶の一部を回帰前の世界に奪われたかのよう──


 ──違う!


 美夏の背筋が凍り付く。

 違う。今の舞白が回帰者なのではない。

 回帰者だったのは、前の世界の舞白の方だ。



 彼女は、別の世界の未来を知っていた。



 その知識を利用して、舞白は美夏を破滅に追い込んだ。

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