第13話『壁』【2】
いつの間に夜になっていたのだろう。レッスンスタジオの窓には、街の明かりしか映っていない。長時間の練習で身体は重かった。美夏は汗を拭いながら、床に置いた荷物をまとめていく。
「遅くなったな」
柊木が、壁の時計を見ながら言う。
「送っていくよ」
「え……?」
美夏の手が止まった。
「この時間に一人で帰るのも面倒だろ?」
「いえ、大丈夫です。タクシーを──」
「そう言うと思ったよ」
柊木は苦笑しながら続けた。
「初対面の男の車なんて、乗りたくないよな」
「……」
「ましてアイドルともなれば、一度のスキャンダルが命取りになりかねない」
何も言えない。図星だった。
柊木は整った顔立ちをしている。普通に街を歩いていれば、女性から声をかけられても不思議ではない。けれど、美夏には分かっていた。この男は、裏社会で生きている。理由を説明しろと言われても困る。ただ、纏っている空気が違う。笑顔の下に、刃物のようなものを隠している。彼にはそんな気配があった。
言葉を失う美夏に、柊木が言った。
「心配しなくていい。天導さんの商品を傷物にするような真似はしない」
「……商品?」
思わず美夏は、柊木の言葉を繰り返した。
柊木は何でもないことのように頷いた。
「ああ。天導さんにとって、アイドルなんて商品だろ?」
美夏は黙った。
柊木の、その認識に驚いたわけではない。
この男が、天導のことをよく知っていることに驚いた。
美夏は、天導が自分を『商品』として扱っていることを知っている。しかしそれは回帰前の廃遊園地の一件があったからだ。あのようなことがなければ、天導の腹のうちを知ることはなかっただろう。彼は、穏やかな人柄で知られている。
しかし柊木は、まるで当然の事実のように『商品』と口にした。いったい、この男と天導はどんな関係なのだろう。美夏は柊木を見た。柊木は笑っている。その笑顔からは、何も読み取れない。
美夏はバッグを肩に掛け、柊木に軽く微笑んだ。
「……分かりました。お願いします」
「よし。ついてきてくれ」
それだけ言うと、柊木は先に歩き出した。
廊下を抜け、エレベーターホールに向かう。
美夏は数歩遅れる形で、その背中を追った。
──罠かもしれない。
そう思いながら。それでもいい、と美夏は思う。むしろ、危険な人物との接点を望んでいた。彼は、天導が自分に差し出した人物だ。その繋がりを辿れば、回帰前には知らなかった何かに行き着くかもしれない。
エレベーターで地下駐車場に降りる。
蛍光灯の白い光が、コンクリートの床を照らしている。
車はほとんど停まっていない。皆、帰宅したあとなのだろう。
柊木は静かな駐車場を横切り、一台の黒い車の前で足を止めた。
「乗って」
「はい」
美夏は後部座席に入った。
ドアが閉まる。車内には、ほのかな革の匂いが漂っていた。
柊木が運転席に乗り込む。エンジンがかかり、低い駆動音が地下駐車場の静寂を乱した。




