第13話『壁』【1】
西日の色が、Dream Gateのレッスンスタジオを暗く染めていた。
美夏は、鏡張りの壁に映る自分をじっと見つめていた。
その隣に立つ男は、柊木。事前に写真を見せられたたわけではない。まして天導から説明を受けたわけでもない。それでも美夏は柊木を一目見て思った。
──この人、カタギじゃない。
整った顔立ちの男だった。黒い髪を短く整え、細身の黒いシャツを着ている。鍛えられた身体は無駄がなく、立っているだけで言葉にならない威圧感を放っていた。
いわゆる『怖い男』のような分かりやすい雰囲気ではない。むしろ、笑えば人当たりのいい青年に見えるだろう。だけど、その目が違った。相手の動きを見る目。相手との距離を測る目。何かが起きたとき、どう動けば相手を制圧できるかを無意識に計算しているような目をしている。
彼は、芸能界にいる人種とは明らかに違っていた。
美夏の脳裏に、回帰前の記憶が蘇った。廃遊園地で自分を取り囲んでいた男たち。彼らにも、この男と同じ種類の気配があった。ただし、目の前の柊木は、彼らよりずっと洗練されている。
「そんなに見られると、照れるな」
柊木が笑った。
「すみません」
「いや。よく見ておいたほうがいい」
柊木は木刀を一本、美夏へ差し出した。
「俺の動きを真似するだけでは、映画では使えない」
「はい」
「相手を倒すつもりで動いて」
美夏は木刀を握った。
その瞬間、胸の奥に火が灯った。
倒す。誰を? 目の前の柊木ではない。脳裏に浮かんだのは、寿志清純の顔だった。回帰前、テレビ局の控え室で性的暴行に及ぼうとした男。抵抗し、逃げた美夏にストーカー行為を働いた男。寿志は人前では美夏に対する好意を口にしながら、一途な思いを拒絶された被害者のような顔をして、White Noiseをテレビから締め出した人格異常者だ。脳裏で寿志が笑っている。大きな歯を剥き出しにして、贅肉を揺らしながら、子供のように笑っている。なんて醜悪な笑顔だろう。
──ブッ殺す。
美夏は木刀を構え、腰を落とした。
柊木が指示を出す。
「もっと力を抜いて」
「はい」
「肩が上がってる」
美夏は言われたとおりに姿勢を修正する。
「じゃあ、来て」
一瞬の沈黙のあと、美夏は一気に踏み込んだ。
木刀を振り下ろす。柊木が受ける。乾いた音がスタジオに響いた。
美夏はすぐに二撃目を繰り出す。続けて、三撃目。柊木は軽く受け流す。
「遅い」
美夏は歯を食いしばり、さらに踏み込んだ。
木刀を斜めから振る。柊木は易々と受ける。美夏は足を払う。柊木は避ける。美夏は身体を捻り、逆方向から斬り込んだ。柊木が木刀を合わせた。再び、乾いた音が響く。
「悪くない」
柊木が言った。美夏は息を整える。
「本当ですか?」
「筋は悪くない。だが、まだ足りない」
「……何がですか?」
「それは自分で考えたほうがいいな」
柊木は木刀を下ろした。
「動きは間違ってない。足も悪くない。身体の使い方も、素人にしてはかなりいい。だが──」
柊木は美夏を見た。その目がすっと細くなる。
「フィクションを手本にするな。映画のように動こうと思うな。人間はあんなに綺麗に人を殴らない。観客を意識するのは、本物を知ってからでいい。……今は、殺すつもりで来い」
美夏の心臓が跳ねた。
期待していたわけではないのに、この言葉を待っていたような気がした。
「はい!」
威勢良く応えながら、美夏は木刀を握り直した。
頭の中に寿志の顔を思い浮かべる。
あの男を殺す。今度こそ、自分の手で。
「……行きます」
美夏は踏み込む。さきほどよりも速く。柊木の木刀を弾き、そのまま首を狙う。柊木が避ける。追撃を撃ち込む。さらに一歩、踏み込んで、木刀を叩き込む。
美夏は必死だった。絶対に逃がさない。絶対に、復讐してやる──
「そこ!」
柊木の声がして、次の瞬間、美夏の手から木刀が弾き飛ばされた。
乾いた音を立てて、木刀が床を転がった。
美夏は呆然と自分の手を見る。
柊木は淡々と言った。
「今のじゃ、死なないな」
「……」
「相手を殺したいという気持ちは伝わった。だが、それだけだ」
美夏は唇を噛んだ。悔しくて仕方がない。
回帰前なら、こんなことを言われても意味が分からなかっただろう。
一生懸命やっている。メンバーの誰よりも努力している。だから、いつか認めてもらえる。ずっと、そう思っていた。けれど、実を結ばない努力に手をさしのべる者はいなかった。自分に何が足りないのか、美夏には分からない。どこをどう改善すればいいのかすら、分からない。ただ、壁があるのを感じる。高さも厚さも分からない。それでもこの、見えない壁を越えなければならないことだけは分かる。
美夏は床に落ちた木刀を拾った。
「もう一度、お願いします」
柊木が眉を上げる。
「休まないのか?」
「まだできます」
「……そうか」
美夏は木刀を構えた。
寿志を殺す。今度こそ。あの醜悪な笑顔を叩き潰す。そのためなら、何度でも立つ。
「来い」
柊木が笑った。美夏は勢いよく踏み込んだ。
西日が沈みかけた窓の向こうで、街の明かりが一つ、また一つと灯っていく。
その光を背に、美夏は何度でも木刀を振るう。
しかしその太刀筋が壁の向こうに届くことはなかった。




