第9話『夜の足音』【2】
「天導さん……」
「どうしたんだい?」
「映画のことで、お願いがあります」
天導は眉を上げる。
「言ってごらん」
「アクションの練習をしたいんです」
「アクション?」
「はい」
美夏は頷き、まっすぐ天導を見た。
「映画では、かなり動く役ですよね。普通のダンスレッスンだけじゃなくて、ちゃんと殺陣を習っておきたいんです。その方が、今後の仕事の幅も広がると思うんです」
「なるほど……」
天導は美夏から視線を外し、鏡越しに彼女を見ながら、思考を巡らせる。
悪くない提案だった。むしろ、映画の完成度を考えれば当然の要求とも言える。問題は費用だ。有名なアクションコーチを呼べば、それなりの金がかかる。美夏にそこまで投資する価値があるか。天導の頭の中で、即座に損益計算が始まった。
そのとき、美夏が続けた。
「天導さんなら、そういう人をご存じじゃないですか?」
天導の目が細くなる。
「そういう人、というのは?」
「本格的なアクションを教えられる人です」
美夏は少し考えてから、言葉を選ぶように続けた。
「映画用の殺陣だけじゃなくて……実際に動ける人」
なるほど。天導は理解した。この娘は、映画のために本物を知りたいらしい。悪くない。むしろ、そのくらいの意欲があるほうが扱いやすい。
「そうだね」
天導は視線を鏡へと戻し、頭の中で候補を探す。もちろん、正式なアクション指導者ならいる。しかし金がかかる。美夏のためだけに、そこまでの費用を出す必要はない。それなら──
無料で使える人間を使えばいい。
天導には、そういう知り合いが何人かいた。表向きは運送業や警備会社などを営んでいる。しかし実際は、まともな仕事だけで食べている連中ではない。いわゆる反社、ヤクザ者だ。それでも彼らには『本物の殺陣』を教えるだけの腕があるし、口も堅い。何より、天導からの頼みなら話が早い。美夏に殺陣を教える程度なら、金を払う必要すらない。金を使うのは、売れる見込みのあるタレントを売るための経費、投資だ。その原則からすれば、これほど合理的な方法はなかった。
「……一人、心当たりがあるよ」
「本当ですか?」
「ああ」
美夏の顔がわずかに明るくなった。
その表情を見て、天導は内心で頷く。
(映画に対する意欲はある、か……)
使える商品だ。少なくとも、現時点では。
「……ただ、少し変わった男でね」
「どんな方ですか?」
「本職のアクションコーチではない」
天導はそこで一拍置いた。
「だけど、腕は確かだよ」
美夏がじっと天導を見る。
彼女はにこりともしなかった。真顔のまま、黒目がちの大きな目に天導の顔を映している。その表情に天導は言葉にならない違和感を覚えた。しかし深く考えなかった。自分を見上げる美夏の顔は、小動物のように愛らしかったからだ。まさかその表情が、獲物を狙う狩人のものだと誰が想像できるだろう。俺に気があるのかな、と勘違いして浮かれる方がよほど現実的だった。
美夏の視線がかすかに揺れる。
「教えていただけるなら、本職の方でなくても構いません。お願いできますか?」
「ああ。紹介してあげよう」
天導は穏やかに微笑んだ。
窓の外では、夕日がビルの向こうに沈みかけていた。
鏡に映った二人の姿が、薄暗くなったスタジオの中に浮かんでいる。
美夏の口元にふっと笑みが浮かんだ。天導の背筋がぞくりと震えた。美夏の見せた微笑みは、新人アイドルとは思えないほど冷たく妖艶だった。
もしもこのとき天導が己の勘に従っていれば、彼は破滅を回避することができただろう。しかし彼が選んだのは、危険を告げる直感ではなく、経営者としての打算だった。
こうして天導隆一は、星凪美夏の仕掛けた罠にはまった。




