第7話『小さな蝶の羽ばたき』【1】
歌番組の生放送を終え、美夏がマンションに戻った頃には、時計は夜の十時を回っていた。彼女の住まいの外観は、ごく普通の単身者向けの賃貸マンションだが、実際のところは芸能事務所Dream Gateの所有するタレント寮。ワンルームの部屋は必要最低限の家具しかなく、生活感もほとんどない。売れっ子になれば豪華なタワマンに引っ越すことができるというが、回帰前の記憶にはこの部屋の光景しか残っていない。
美夏は玄関で靴を脱ぎ、バッグを床に置く。それだけで全身の力が抜けた。疲れた。しかしベストを尽くした実感はある。
美夏は冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを取り出そうとした。
そのときスマートフォンが震えた。画面には『母』の文字。
──またか。
胸の奥が重くなる。回帰前も、同じタイミングで母が電話をかけてきた。
うんざりする。しかし出ないわけにもいかない。美夏は一度だけ目を閉じてから、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『美夏? 見たわよ、今日の歌番組』
開口一番、母は言った。
喜びの声ではない。何かを期待している様子もない。上から何かを叩きつけるような口調だった。
『あんた。全然目立ってないじゃないの。せっかく親戚中に「うちの娘がテレビに出るの」って連絡したのに、どこにいるのか全然分からないって言われたわよ』
「……そう」
『そう、じゃないでしょう? もっとカメラに映らなきゃ、アイドルになった意味ないじゃない』
母の声は次第に苛立ちを帯びていく。
『美夏、あんた、やる気あるの? あの真ん中にいた子ばっかり映ってたじゃない』
真ん中にいた子。朝霧舞白のことだ。彼女はセンターなのだから、目立つのは当然だ。しかしそれを説明する気力など、美夏にはなかった。
『親戚のおばさんなんて、「本当に出演してたの?」なんて言うのよ。あんたのせいでお母さん、恥かいたわ』
恥をかいた。その一言が胸に刺さる。
母にとって、美夏は娘ではない。周囲にマウントを取るための道具だ。
回帰前のこの日、母は電話でこう言った。──『センターになれるように、もっと頑張ってもらわないと』──あの頃の自分は、本気で信じていた。センターになれば、もっと目立てば、母は自分に苛立ちをぶつけてこなくなるのだと。
だから必死になった。不機嫌な母から逃れたくて、誰よりも前に出ようとした。誰かに自分を見つけてほしくて、誰よりも人気を集めようとした。そしてついに新曲のセンターに選ばれた。その結果、寿志清純に目を付けられ、あのようなことになった。しかし母は何一つ変わらなかった。目立てば目立ったで、もっと上を求められる。仕事が減れば、努力不足だと罵られる。どこまで行っても終わりはない。母が満足する日は、永遠に来ないのだろう。
『……ちょっと、美夏。聞いてるの?』
「聞いてる」
『だったら次はもっと頑張りなさい。美夏が売れないと、お母さん、困るのよ』
その一言で、何かがぷつりと切れた。
「……疲れた」
『え?』
「もう疲れたから」
それだけ言って、美夏は通話を切った。
すぐに着信音が鳴る。美夏は電話に出なかった。しばらくすると電話は切れ、そしてまた鳴り始める。美夏は無視した。何度かかってきても、無視し続けた。やがて電話は静かになった。部屋に残ったのは、冷蔵庫の低い駆動音だけ。美夏はその場に座り込む。
惨めな気分だった。今回は、回帰前とは違う。自分のためではなく、White Noiseというグループのために歌った。目立つことより、支えることを選んだ。その選択に後悔はない。それなのに、帰ってきて最初に浴びせられた言葉は『全然目立ってない』──
視界が滲む。涙が一粒、床に落ちた。止めようとしても止まらない。誰もいない部屋で美夏は声を殺して泣いた。悔しくて仕方がない。回帰前のあの世界で、自分が無惨に殺されたあとも、母は娘の死を悲しむことはなかっただろう。嘆くことがあるならば、それは世間体が傷つき、マウントを取れなくなることに対して。『こんな事件の被害者になるなんて、みっともない。お母さん、恥ずかしくて外を歩けないじゃないの』『今までかけてきたお金がみんな無駄になった。産んで損した』──平気でそんなことを言う。母はそういう人だ。娘が被害を受けると罵り、加害者に頭を下げる。
そんな人の理想のために、自分はアイドルになった。そして廃遊園地のバックヤードで殺された。そんなことも知らずに母は、同じことを繰り返そうとする。いったいいつまでこんなことが続くのだろう。母に認められたいと思う段階はとうに終わった。それでもこうして涙が出るのは、いつか分かってくれるのではないかと心のどこかで期待していたからだろう。




