その百十二:マルセノ親方の道具袋の秘密
この屋敷の中庭にいた僕とトニオさんがいっしょに〈赤い冠島〉へ行くという、とても不思議な体験から戻ったのち、僕は何の不思議も起こらない、平穏無事な毎日を過ごしている。
僕はしばらく寝込んでいたから、てっきりキノヤ親方の家具工房との契約は切れたと思っていたが、また元通り働かせてもらえることになった。
いや、元通りどころか、キノヤ親方は親切にも、作業場を貸してあげるから魔法玩具の仕事をしてみたらどうだろう、とまで言ってくださったのだ。……が、改めて考えると、今の僕は魔法玩具をなにひとつ作れない。
その理由はまず魔法を帯びた材料がまったく無い。このベネアの町で、それらを手に入れるすべを、僕は知らない。
自分で探しに行くにしろ、非常に稀少なそれらがこの世界のどこにあるのか――地球ではなく、この境海世界のどこかにあるはずなんだ――の、どこで産出されるのか、まるで知らない。
僕は自分の持ち物を調べてみた。
着替えのシャツが二着、下着が二枚、タオルに石鹸、歯ブラシに櫛……海賊船で支給された大人用シャツはまだまだ背が伸びても着られそうだ。でも、キノヤ親方の工房でいただいた初めてのお給料で新しいシャツを買い直した。古いのは、見るたびに海賊船でのイヤな記憶がよみがえるから、思い切って処分しよう。
「これだけだ……。魔法玩具の材料なんて、なにもないや。それに道具も……」
それでふと思い出した。
あれは自分の道具袋ではなかったことを。
「そうだ、マルセノ親方の道具袋だ!」
あの中に作業道具のほかになにか、魔法玩具の部品に使えるような魔法を帯びた素材が入っていないだろうか。
道具袋は工夫されたデザインになっていて、端についている七本のヒモを結べば、袋状になる。でもヒモをぜんぶほどけば、広げてシート状にできる。
そうして、端っこにある五つの革紐の結び目をほどいて一枚革をめくれば、そこには細工用の小さなノミや何種類ものネジ回しやら、先端の細いペンチなどが、留めつけられた革製の輪に差し込まれている。
マルセノ親方が大切にしていた細工道具。精霊界の名人という鍛冶職人の手になる一級品だ。精霊界で産出する特別な鋼で作られたと聞く。
普通の道具は使ううちに精度がわずかずつ狂ってくる。手入れを怠ればすぐにさび付く。
でもこれらの道具は耐久性が段違いに強いうえ、さび付きもしない。
「やっぱり、道具だけだよな」
僕はがっくり肩を落とした。
なにか魔法玩具を作るための、魔法を帯びた材料が――飾りになる小さな石や、魔法を帯びた鳥の羽の軸でも良いからあればと思ったのだけど――あの幸運を司る青い小鳥の羽でもいいや。あのとき砂浜に落ちていないか、探してみればよかったなあ……。
いまの僕に作れるのは、ふつうのオモチャや細工物だけ。
マルセノ親方の魔法玩具工房にいた頃みたいに、月光を集めて天井に星と星座の物語を映し出すオルゴールも、サファイヤのネジを巻けば空中を飛び回るペガサスの人形も、明かりを灯せばランプシェードに幻影の花々が咲き乱れる卓上ランプも作れないんだ。
僕は道具を一つ一つ、手に取ってみた。
小さな道具が、なぜかひどく懐かしいものに感じられた。
僕もほぼ同じ道具と道具袋を持っていたんだ。去年のクリスマスの、おかみさんとマルセノ親方からの贈り物だった。
その道具で、僕はマルセノ親方と、すてきな魔法玩具を作るはずだった。なのに、ろくに使わないうちに手元から失って、しかも僕はひとりぼっちでここにいるんだ……。
ふと、手の下で、革のシートがフワッと僕の手を軽く押し返した。
「あれ?」
シートのその部分は、ほかの場所よりふくらみがあった。
そこを押せば、僕の手を軽く押し返してくる弾力がある。空気が入っているみたいだ。この道具袋の革が厚めなのは、持ち運んでも道具を傷つけないよう保護するため、革を二枚重ねて縫い合わせてあるのだと思っていたけど、まだここに隠しポケットでもあるのか……?
道具袋のどこかに開け口がないか、探してみた。
真ん中の道具を留めてある長めの輪っかの横に飾りみたいにしてヒモが結ばれている。それはちょうど十センチくらいの長めの輪っかで、横のヒモをほどけば、その部分が開けられるみたいだ。
何が入っているんだろう。
僕はちょっとワクワクした。もしかして、マルセノ親方のへそくりだったりして。
隠しポケットが開いた。
僕は右手の指で中を探った。指先に、カサコソ乾いた薄い紙の感触が当たった。
「紙?……」
人差し指と中指でつまんで引っ張り出した。
折りたたまれた紙だ。かなり古い物らしく、縁の方は薄茶色に変色してるし、ところどころ大きなシミもできている。
脆いかもしれないので丁寧に広げた。四つに折りたたまれていた紙は二枚。広げると縦横三十センチくらいあった。
「これは――……地図と、魔法玩具の設計図かな?」
地図は手書きの簡単な地図。設計図の方は、僕がよく知るマルセノ親方の手になる、オモチャの図面だ。
地図に描かれている地形は、僕が知るイタリー王国のどこでもない。いくつかの山と山脈、渓谷につづく平原。それらをまっすぐ突っ切っていく細い街道の終点には、街らしい建物の図が記されている。
どこにある街だろう。
マルセノ親方とはどんな関係があるのだろう。
地図ならどうして、地名が書いていないのだろう……?
僕は地図を裏返した。
マルセノ親方の書いた文字があった。
「太陽と月と、街……?」
どこの街だろう。少なくともイタリー王国と違うのは確かだ。
「horologium sabularum?――――そうか、これ、ラテン語なんだ。ずいぶん古い言い回しだな。ホロロギウムは……時計って意味だっけ?」
まえにマルセノ親方が星座の話をしてくれたとき、ラテン語でとけい座はホロロギウムと言うんだと教えてもらった。
僕はラテン語の響きが面白かったので、地球の十二星座の名称を、ラテン語名でも覚えてしまったんだ。
「つづけて読むと、太陽と月の刻計り?……太陽と月の時計?」
図面の方は、ところどころにマルセノ親方の手になる書き込みがあった。「月光石」「星くず」「氷クジラのヒゲ」だの、魔法を帯びた素材の名称だ。
どうやら魔法玩具の設計図らしい。
こんなのは初めて見た。
いったい、マルセノ親方は何を作ろうとしていたんだろう?
なにより、この地図の街は、境海世界のどこにあるんだろう?
ここが、この地図に示された街が、マルセノ親方の行き先なんだろうか。
マルセノ親方はなぜ、この地図と設計図を入れてある自分の道具袋を、僕へ渡したのだろう……?
それにはどんな意味があるんだろう?
この日の昼食後に始めたこの作業を、僕は、日が暮れて夕食に呼ばれるまで、地図と設計図をあきることなく眺めていたのだった。




