その百十三:番外編 僕が海の奇跡号に乗ったこと、料理番のゆくすえ
「やあ、ニザくん。すまないがまた協力をお願いするよ」
慌ててジェノバンの海軍基地へ戻ったはずのトニオさんは、五日後に急いで帰ってきた。
「あの島で、料理番と呼ばれていた老人が、見つからないんだ」
〈赤い冠島〉がヴェネチアーナ共和国海軍に制圧されてからおよそ二ヶ月。ヴェネチアーナ共和国海軍は、島民全員から調書を取り終えた。
そのうち海賊行為を行っていた者は、全員逮捕された。すでに裁判で判決が下され、刑務所へ入った者もいる。裁判待ちの者たちはヴェネチアーナ共和国の拘置所だ。あの海賊の統領は、罪状が多すぎるので取り調べが長引いており、おそらく拘置所から出るのはいちばん最後になるということだ。
だが、海賊船で〈料理番〉と呼ばれていたあの意地悪な老人〈ジェイバ・ガレッティ〉がいない。彼の行方は、仲間の海賊や街の島民も、誰ひとりとして知らない。
外界とは隔絶されたあの孤島で、島に三カ所しかない港から船に乗った形跡も見つからず、ある日突然消えたのだ。
深い森の奥に入ったか、崖から海に落ちたのか?――そう、この僕があの島からいなくなったのと、まるで同じように……。
「そういえば、あいつのことはすっかり忘れていました!」
そうだった。この世界であいつの行方を知っているのは、僕だけなんだ。
トニオさんは、屈託なく笑う僕のことが不思議らしかった。
「あれ? きみが一番気にしていると思っていたんだが……。きみに暴力を振るった海賊がどこへ行ったのかわからないのに、不安には思わないのかい?」
「え? いえ、忘れたなんて言ってすみません。でも、本当に、僕にとってはもう、どうでもいいことだったんで、思い出す必要がなかったんです。じつは、あいつは僕といっしょに〈海の奇跡号〉に乗って、あの島を出たんです」
僕の告白に、トニオさんは目を丸くした。
「そんなの聞いてなかったぞ。ということは、この前の聞き取り調査では、ニザくんが〈海の奇跡号〉へ乗ったときの事情がまるごと抜け落ちているってことじゃないか!?」
トニオさんは「ニザくんの調書の取り直しだ」と顔をしかめた。
「はあ、すいません。あの料理番は、僕にとってはもうどうでもいい人間なんです。だから、すっかり忘れていました」
僕が〈海の奇跡号〉に乗って脱出したことは、翌日には海賊どもに気づかれたらしい。……が、さしもの海賊も、海賊の中でさえ疎まれる小悪党の料理番が、暴力を振るっていた被害者の僕といっしょに伝説の魔法船に乗るなんて、夢にも思わなかっただろう。
トニオさんはキノヤ親方にことわって応接室を借りた。
この前は僕の体調が悪かったから、回復するまでは部屋で聞き取り調査をしてくれていたが、今日のトニオさんは逃亡した海賊の捜査で来たのだ。
僕にしたら秘密にすることではないが、ノエミお嬢さんや奥さま、この家に出入りする通いの従業員の人はべつに聞かなくてもいい内容だ。事情を知らない人が聞いたって面白くもなんともないし。
トニオさんは黒い革カバンから新しいノートを出した。
「ということは、海岸から海の奇跡号へ乗るまでのことは、ずいぶん端折って話したんだな。きみが〈海の奇跡号〉に乗りこむまでに、なにがあったんだい?」
「ええ、まあ、いろいろと……」
急に歯切れが悪くなった僕に、トニオさんはふと、心配そうに言った。
「もしかして、ノエミには聞かせたくないような暴力的な事件が起こったのか?」
「いえ、そうじゃありません」
僕が海賊に暴力を振るわれたのは、料理番からだけだった。皮肉にも、料理番以外の海賊は、僕に対して親切ですらあった。
そう思うたび、苦い笑いがこみ上げる。
海賊どもは虚偽と欺瞞のかたまりだった。暴力とそれにともなう恐怖は、表立っては見えなかったが、たしかに存在していたのだ。
「話したことに嘘はありません。でも、こうしてみると、かなり省略していました。やっぱり僕は海賊どものことが嫌なんです。特にあいつについては喋りたくなかったんだと思います」
「それはわかる気がするな。話せば嫌な気分になる思い出だろうし……」
「ええ。それもあります。そもそも僕の体験は、ふつうなら信じてもらえないような、突拍子もないことばかりです。でも、だからこそ、正直に話しました。ロミーナ王女やディアルト卿と会ったことや、島の伝説も魔法も、へたに繕って話せば、どこかで話のつじつまが合わなくなります。そうしたらよけいに怪しまれるだけですから。……僕が魔法玩具師なのはとうにバレてましたけどね」
ほんとうにすっかり忘れていた。
あの日、ロンディ船長とどんな会話をしたか、料理番が正確にはなんと言ったのか。思い出すのに、こんなに時間がかかるなんて、自分でも驚いている。
きっと僕は海賊のことなんか、その周辺の関係事項もまとめて、忘れてしまいたいのかもしれない。
自分で自分の気持ちがよくわからないなんて、おかしなことだけど……。
「トニオさんは海軍の調査官として僕のことを調べに来ました。もしも僕が、いいかげんな嘘を言ったりすれば、その場で犯罪者の疑いが強いとして、逮捕されたんじゃないでしょうか?」
「そうだね。おおむね正解だ。でも、私自身はニザくんのことを疑ってここへ訪れたわけではないよ」
トニオさんはキノヤ親方からの手紙で僕のことを知っていた。僕の話を聞きに来たのは、逮捕された海賊の裁判に必要な証拠を集めるためもあったからだ。
「僕の話を聞くまでは、もしかしたら、僕も海賊の仲間だと疑われていた可能性もあったのでは?」
キノヤ親方は何も聞かずに、会ったばかりの僕を、木工細工職人として助けてくれた。けれど、他の人には、僕は小汚くて怪しい旅の風来坊にしか見えなかっただろう。
「まあ、そうだね」
トニオさんはあっっさり認めた。
ただ、トニオさんはロミさんとヨルナさんからも話を聞いてきたので、僕のことは、脱出後も海賊に脅迫されている恐れのある被害者として、保護する方で考えていたそうだ。
「キノヤ親方は信頼できる立派な親方だからです。それはいっしょに働いていると自然とわかることです。そのキノヤ親方がトニオさんのことを信頼されているのは雰囲気でわかりましたから、僕はトニオさんを信用していい人だと思ったんです」
「はは、父の威光とはいえ、魔法使いに信用してもらえて光栄だよ」
トニオさんは照れくさそうに笑った。
「では、聞かせてもらおうかな。ニザくんが〈赤い冠島〉の海岸で、〈海の奇跡号〉に乗り込むまでの短い時間に、一体何があったのかを……」
トニオさんの質問に、僕は軽く息を吸い込んで、吐いてから、喋った。
「海賊が一人、僕を追ってきたんです」
トニオさんがギョッと目を見張った。
「ロンディ船長たちは……!?」
「その場にいましたよ、もちろん」
僕らは海岸で、砂浜に置いてあったボートに乗ろうとしていた。〈海の奇跡号〉へ乗るために。
「でも、僕を追いかけてきた海賊は、ずうずうしい要求をしてきたんです。僕の保護者になってやるから、僕といっしょに海の奇跡号に乗せろと」
「そいつ、頭がおかしいんじゃないか?……あ! もしかして、そいつが海賊船できみを虐待したという……?」
「大当たり! その海賊は〈料理番〉だったんです!」




