その百十一:幕間 冒険家達の食卓
マルセノ夫人がすぐれた魔法使いなのは、冒険家一同、二週間あまりの航海ですっかり理解した。
島影すら見えない大海原のただなかにあって、マルセノ夫人が食事のたびに提供してくれる積み荷リストには無い新鮮な野菜や果物は驚嘆の一言に尽きたし、なにより風だ。
つねに順風に恵まれるなんて、普通だったらありえない。
「魔法使いが乗っているってのは、こういうことか」
ボルティ船長は海岸の様子を見守った。
マルセノ夫人が魔法を使ったようだ。遠目では巨大な竜巻が天空にのぼって弾け、大量の鳥の群れとなって、島の内陸へ向かったとしか見分けられなかった。
事前に聞いた説明では、すごい魔法使いはマルセノ夫人で、マルセノ親方は魔法玩具師だ。マルセノ夫人の実力なら、海賊どもなど小指でひねりつぶせるという。
マルセノ親方が熱いコーヒーのマグカップを片手に、甲板へ出てきた。
「ボルティ船長、ほかのみんなも、いまのうちに休んでおきたまえよ。うちのかみさんのキッシュパイは絶品だぞ」
「喜んでご相伴にあずかります。しかし、マルセノ親方。海岸まで夫人を迎えに行かなくていいのですか?」
返事をしながら、ボルティ船長はヨダレが出そうで困った。
冒険家チームはみんな美味しい物が好きだ。毎日の食事は持ち回りで食事当番を決め、それなりに栄養バランスや献立を考えて作っていた。
マルセノ夫妻にもそれを提供するつもりだったが、マルセノ夫人自ら調理担当を申し出てくれた。
ボルティ船長は、毎日日替わりの食事当番を決めて、マルセノ夫人と二人で食事準備をしてもらおうと考えたが、マルセノ夫人は一人で任せて欲しいと言う。
雇用主でお客さまに働いてもらうのは心苦しかったが、マルセノ夫妻は何もしないで緩慢と過ごすよりは働いている方が気が紛れるという。
航海中の食事は、基本的に朝と夕方の二食だ。航海が順調だと自由時間が増えるが、狭い船内では操帆作業以外にはあまり運動もしないので体力の消耗は少ない。朝昼夜と三食では食べ過ぎになるため、操帆などで疲れた者を除けば、昼はたいてい軽食で済ませる。
食事当番は持ち回りなので、まれに料理が不得手な者が失敗すると悲惨なことになるのだが、この航海が始まってから今日まで、マルセノ夫人の手になる料理で、残されたものはなかった。
海の男どもの胃袋を考慮してたっぷり用意された前菜のサラダから肉料理のメインディッシュまで、人数分に取り分けた後のおかわりは、早いもの勝ちの争奪戦となる。
食卓にはみずみずしいオレンジや新鮮な甘いイチゴが果物皿に山と積まれ、もぎたてとしか思えない白い粉をふいた黒ブドウに艶やかな大粒のサクランボ、熟したメロンは氷のように冷えていた。
マルセノ夫人の作る家庭料理や菓子類は、素朴だが絶品だ。さらに夜食までこまめに用意してくれる。「家でも仕事が忙しいときは簡単につまめるものをよく作ったわ」と、いろんな種類の焼きたてパンや肉や魚などのパイを提供してくれた。
ただし、マルセノ夫人が船の厨房設備を使っているところを見た者は、ほとんどいない。――お茶を入れたり、シチューやスープの鍋を温めていたのは見たが、それくらいである。
いつ料理をしているのか――大型ヨットとは言え、この狭い船内で姿が見えなくなるなんて、海に落ちる以外あり得ないのだが……。
マルセノ夫人については、ときどき姿が見えなくなるが、魔法使いだから気にしなくて良いと事前に説明されていた。
マルセノ親方は、夫妻に割り当てられた船室でくつろいでいた。マルセノ夫人は昼も夜も、食事時以外、見つからなかった。どうしても用があるときは、マルセノ親方に言付ければ、その数分後に船室から出てきてくれたが。
まさか、魔法で一足先に〈赤い冠島〉へ行っているのでは? と危惧したが、マルセノ親方は笑ってそうではないという。
「さすがにうちのかみさんでも、魔法で境海は渡れんよ」
たしかに、それが出来れば船は雇わないだろう。
「ボルティ船長、気を使わせてすまないね。うちのかみさんは心配無用だ。ここは狭いんで、ちょっと魔法で自分の部屋に隠れているだけさ。きみたちもこんな狭い場所に四六時中女性がいたら、リラックスできんだろう」
「魔法の部屋でもお持ちなのですか?」
「もちろんさ。見せることはできないがね」
けっきょく魔法の部屋とやらの種明かしはしてもらえなかったが、ボルティ船長は、マルセノ親方ご夫妻の気遣いには頭が下がるばかりであった。
マルセノ親方は航海中、暇があると細工物をしていた。
揺れる船の中であれほど繊細な作業に集中できるとは、魔法玩具師とは器用なものだと感心した。
マルセノ親方が熱心に細工していたのは、真鍮色したクルミの殻だった。この珍しいクルミの殻をマルセノ親方はいくつも持っていた。
「変わった色のクルミですね。それも作り物ですか?」
「これはクラカトウクのクルミだよ。世界で最も硬いクルミの殻だ。魔法の細工物に向いているんだ」
クルミの殻には蝶番が取り付けられ、開閉できる入れ物に仕立てられていた。
「この中に贈り物の魔法玩具を入れるのだよ。クリスマスの贈り物だ」
マルセノ親方が作業している小さな机には同じようなクルミがいくつも転がっていた。
「クリスマス? ああ、あの冬の休暇の特別な祝日ですね」
「そういえば、こちらの世界にはクリスマスの文化は無かったかな?」
「いいえ、ありますよ。でも、いまどきクリスマスと言っているのは、修道院の人たちだけですね。僕たちは昔に伝承された冬の特別な祝日として、贈り物をもらってご馳走を食べる日だと思ってます」
「なるほど、もともと異界の文化だものな。楽しいところだけ残ってるのは良いことだ」
マルセノ親方は作りかけの作品を見せてくれた。
「きみたちが気に入ったので、贈り物をつくっているんだよ」
クルミの殻の一方には、小さな帆船が入っていた。この〈疾風の海星号〉にそっくりなミニチュアのヨットだ。
「これはすごい!」
特徴的な舳先や、帆の一枚一枚まで、みごとに再現されている。マルセノ親方はそれの使い方を説明してくれた。
「いいかね、これは魔法の船だ。ただし、魔法が発現するのは一度きりだ。きみが本当に必要になったとき、船はおのずとクルミの殻の船渠から出てくるだろう。そして割れたクルミは二度と元には戻らない」
マルセノ親方が作業する机の奥側には、いつも精巧な人形の家が飾られていた。小さな家は船が揺れても倒れないよう、机に金具で固定されていた。
ボルティ船長はチラッと見ただけだったが、人形の家の前面は観音開きで開くようになっており、家の中が見えていた。四階の屋根裏部屋は物置で、三階は寝室、二階は書斎だった。一階は広い台所で、食器棚には銀食器が飾られ、壁にはたくさんの鍋やフライパンがぶら下がっていた。大きな食料棚には色とりどりの果物や缶詰やら食品がぎっしり詰まり、レストランの厨房みたいに立派な冷蔵庫やオーブンもあった。
人形の家のキッチンで、何かがサッと動いたように見えた。
きっと机のクルミでも転がったのだろうと、ボルティ船長は気に留めなかった。




