その百十:現実へ帰る方法
マルセノ親方とおかみさんが乗ったボートは見えなくなった。
「マルセノ夫人はヨットへもどったね」
「ええ、もどりましたね」
これで、おかみさんの用はすべて済んだはず……。
「でも、私たちはここにいるね」
「ええ、そうですね」
なにかが起こりそうな気配もなく、僕とトニオさんはここにいる。この〈赤い冠島〉の北の海岸に。
「この状況をナントカできるのは、ニザくんだと思うんだが」
「僕はただの魔法玩具師なんです」
「でも、マルセノ夫人もきみのことを若い魔法使いだと言っていた。やっぱり君は〈魔法使い〉なんだ」
「……そう言われても、僕はおかみさんみたいな魔法は知らないんです」
ヴェネチアーナ共和国のベネアの町にいた僕らが、なぜ、どうやって、海賊の島に来たのだろう。
どんな魔法の働きが、僕らをこの島へ繋いでいるのだろう?
どうして僕とトニオさんは、この海岸にいるのだろう……。
ふと、青い色彩が、視界の端に入り込んだ。
僕らの周囲の砂地に小さな青い花がポツポツ咲いている。
見覚えがあった。
「妖精鳥の青い花だ」
幸運を司る妖精鳥が食べる花だ。マルセノ親方が青い染料の材料にする魔法草。
こんな砂地に生える花だったろうか?
マルセノ親方には、夏の夕立の後の水溜まりにしか生えない草だと教わった。……何かが変に思えるが僕だって、この魔法の花の性質をよく知っているわけじゃない。
そういえばこの花は、僕の上着の刺繍に似ている。花や葉の形の特徴が似ているから、同じ種属の魔法草なんだろう。もしかしたら、おかみさんが魔法で使った花蔓は、この青い花なのか。だからあの青い妖精鳥が出てきて、砂浜にもこの花が咲いたのかな?
「……とすると、僕とこの島を繋いでいるのは、満月の魔法と、この上着の刺繍の花の魔法……?」
前に僕は、ロミーナ王女と〈海の奇跡号〉の魔法使いから『若い魔法使い』と呼ばれた。
おかみさんも『この島へ連れてこられた若い魔法使い』の行方を捜している。おかみさんが捜しているのは僕だから、これは僕のことだ。
僕は魔法玩具師だ。それは魔法を帯びた玩具を作れる職人で、おかみさんみたいに鳥や植物や風を操ったりする魔法は使えない――と、これまでは思っていたけれど……。
こんな僕がどうしたら、元の場所へ戻れるのか――?
あのりっぱなぶどう棚のある中庭へ。
はじめに思い出したのは、満月輝くぶどう棚の下、マルセノ親方とおかみさんが笑っているところだった。
そこはマルセノ親方の家の庭で、明るい月は真昼の太陽と見紛うほど。
そう思ったとたん、記憶の中の月は太陽に変じ、マルセノ親方はキノヤ親方になって、おかみさんはキノヤ親方の奥さまになった。
ぶどう棚のある風景は、キノヤ親方の屋敷の中庭に変わった。
それは僕の記憶に保管されていた画のはずが、まるで今この僕の眼前にその光景があるかのごとく、ありありと、生々しい現実感をともなって蘇ったのだ。
中庭にはぶどうの甘い匂いがただよい、食事会の料理の匂いが混ざり、キノヤ親方と奥さまが会話して、ノエミお嬢さんの、光が弾けるような笑い声がした。
次の瞬間、記憶の中の太陽がまばゆいほどに明るく輝き、視界を白く焼いた。
だが、それは記憶の中だけではなかった。
僕らはまぶしい光に包まれていた。
「うわッ!?」と、とっさに目を閉じた僕は、近くでトニオさんが「なんだ!?」と叫ぶのを聞いた。
世界がグラッと揺れた。
一瞬の浮遊感――……そして、世界は静止した。
「るっぷりい! おかえりなさいませ、ご主人さま、トニオさん!」
シャーキスが僕の頭の上にポスンと乗っかった。
僕とトニオさんは、ぶどう棚の下に立っていた。
「ニザくん……!?」
「トニオさん、無事ですか!?」
「ああ、お互い無事でなによりだ」
トニオさんは上着の裾を払った。白い砂がパラパラと落ちた。
「あれは、ほんとうに現実だったのか……?」
トニオさんは手についた白い砂を手の平に集め、しげしげと観察した。
僕は地面を見た。
ぶどう棚の下の地面は、黒い土だ。白い砂なんてどこにも無い。
「シャーキス、僕らはあの島へ、本当に、行っていたのか?」
僕の靴紐には、青い花がついた茎が数本、絡んでいた。
「妖精鳥の青い花だ……」
僕はかがみ、右足の靴のヒモから青い花の茎を摘まみ取った。
「はい、そうなのです! ただし、かぎりなく現実に近い夢のなかの旅だったのです!」
僕の頭上から飛び立ったシャーキスは、ぶどう棚の下をブーンと飛び回った。
「でも、境海は、夢でも魔法でも渡れないんじゃなかったか?」
「ボクには難しい魔法の理屈はわからないのです。ボクにわかるのは、ご主人さまが月と花の魔法を使って〈刻〉と〈夢幻〉の〈世界〉を移動してきたことだけなのです、ぷう!」
「おかみさんはその魔法を使えないのかな?」
「るっぷ! それは知らないのです。ボクにわかるのはご主人さまのことだけですもの!」
「シャーキスくん、あれが夢なら、この砂はどこから来たんだい?」
トニオさんは右手の平に集めたひとつまみの白い砂を見せた。
「るっぷりい? それはただの夢の世界のおみやげなのです!」
「いや、夢の中から物を持ち帰るなんて、普通はありえないだろう。これもニザくんの魔法なのか?」
「るるっぷりい! いいえ、これは普通のこと! 夢をよく見るご主人さまにはよくあることなのです! ボクらには珍しくもありません!」
トニオさんは僕の方へ顔を向けたが、僕は困って肩をすくめるしかなかった。
「そうか、珍しくもない現象なのか……。あの海賊の霊廟も、現実にあるなら、調査が必要だ」
トニオさんは右手の砂をギュッと握った。
「すまんがニザくん、これで失礼するよ。明日の朝一番の高速船で海軍基地へ戻り、あの霊廟のことを報告しなければ……」
記録作業は高速船の中でするといいながら、トニオさんは走って屋敷の中へ入っていった。




