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不倫して失踪した母。そんな母と、お父さんにナイショで家族ごっこをしていた私の末路。  作者: けーきまる


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3/3

お父さんの家族

お父さんは会社を辞め、実家を売った。


銀行口座も電話番号も変えていた。


お父さんの釣り仲間を訪ね、役所で取れる書類を集め、ここかもと思える住所に何度も手紙を出した。それでも、行き先は分からなかった。


誰かと逃げた母とは違う。


お父さんは、ひとりで、私がいない場所を選んだ。


その違いが苦しかった。


母は毎日電話をかけてきた。


『お父さんには時間が必要なのよ』


『私たち、家族でしょう?』


着信を拒否しても、番号を変えてかけてきた。手紙も届いた。便箋には、母がいかに後悔しているか、私や娘に会えない日々がいかにつらいか、びっしり書かれていた。


お父さんの苦しみは一行もなかった。


私がどんな思いで嘘を重ねたかも、お父さんが何を失ったかも、母には見えていない。母の世界には、いつも母しかいなかった。


母の手紙を台所のコンロで燃やした。


紙の端から黒く縮み、母の字が読めなくなるまで見ていた。煙で警報器が鳴った。ほとんど真っ黒になった紙を水に浸し、慌てて停止スイッチを押しに走った。


――私は、初めて母を憎んだ。


七歳の私を玄関へ置き去りにしたこと。


勝手に出ていって、お父さんを泣かせたこと。


私の中にあった隙間に、母親の顔で入り込み、金と涙で口を塞いだこと。


憎しみは、長年飲み込んだ小骨が喉の中で急に太くなったようだった。


そして、母を憎めば憎むほど、自分の姿が母に似て見えた。


私はお父さんを捨てていない。そう思おうとした。お父さんが作った夕飯を食べ、お父さんの金で大学へ行き、お父さんに花嫁の手紙を読んだ。その間も裏切り者の母へ会い、平気な顔で帰宅した。


母は七歳の私を一度捨てた。


私はお父さんを、会うたび、嘘をつくたび、何百回も捨てた。


※※※


夫には全部話した。


母と会い続けていたこと。娘を会わせたこと。誕生日前日のこと。


夫は夜が明けるまで黙っていた。何度か口を開き、結局何も言わず、冷めたお茶を飲んだ。


「確認したいんだけど、俺と知り合う前から会っていて、付き合っている間も、結婚してからも会ってたんだよな?娘が生まれたときも、あの二人に抱かせた。俺には一度も相談しなかった。それで合ってる?」


何も間違っていない。


「合ってる。本当にごめんなさい。言おうとは何度も——」


「言おうとした話は、もういい。お義父さんにだって、言おうとはしたんだろ?何年も言おうとして、一度も言わなかった。その『言おうとした』って言葉に何の意味がある?」


意味なんて……ない。


「言い訳でもいいから、聞かせてくれよ。どうして娘を会わせた?君とあの人たちの問題なら、まだ俺は外にいられた。どうして俺の知らないところで、娘にあの人たちを家族だと思わせたんだ?」


「お母さんがいなくて寂しかった自分と、娘を重ねてしまったのかも……。あの子には、おばあちゃんがいたほうがいいと思ってしまった。お父さんにバレなければ、家族が増えるだけだって……そんなふうに考えてしまって……」


夫は両手で顔をこすった。


「キミは、お義父さんを傷つけないために、あの人たちのことを隠した。俺を困らせないために黙った。娘へ家族を増やすために会わせた。全部、誰かのためみたいに話してるな。でも、本当はキミが責められたくなかっただけなんじゃないか?」


「あなたの言うとおりだと思う。ごめんなさい……」


「『ごめんなさい』なんて軽い言葉は使うな。その言葉を聞くと、これで話を終わらせてくれと言われてるように感じる。俺が欲しいのは謝罪じゃない。何を壊したのか、自分で分かってほしい。……それが分からないままのキミなら……もう何も話せない」


「…………」


夫のその言葉に、私は何も言えなかった。


「俺は、お義父さんは素晴らしい人だと思っている。身を削る苦労をして、一人で頑張って……キミを大学まで通わせた。娘にも優しくしてくれている」


「同じ男として、お義父さんを尊敬しているよ」


そう言うと、夫は黙ってソファから立ち上がり、リビングを出ていった。


夫は娘の部屋へ行き、その晩はそこで眠ったようだ。


…………。


その後も、私たちは同じ家で暮らし続けた。


娘の前では、いままでどおりの夫婦でいられたと思う。だが、二人きりになると、必要なことしか話さなくなった。


私は、お父さんだけでなく、夫からも信用をも無くしてしまっていた。


※※※


娘の病気が分かったのは、その翌年だった。


風邪にしては熱が長引いた。腕や脚に見覚えのない青あざが増えた。検査の日、医師に別室へ呼ばれた。


机の上の組織図と、医師の口から出る言葉が結びつかなかった。


娘は隣で、病院の売店にアイスはあるかと聞いた。


難しいタイプの小児性白血病だった。


骨髄の移植が必要だとのことだった。


近親者を順に調べた。夫も私も適合しなかった。登録者も当たった。医師が持ってきた資料に、お父さんの検査結果があった。以前、別の治療で採取したデータが残っていた。


お父さんの型が合う可能性が高い。


私は、お父さんを探し始めた。


娘を助けたい気持ちに嘘はなかった。でも、お父さんへ会う理由ができたことに、どこかで安堵した。その安堵に気づき、病院の洗面所で吐いた。


私はまた娘を使ってお父さんへ近づこうとしている。


※※※


探偵がお父さんを見つけるまで三か月かかった。


海から遠い町の、小さな借家だった。


玄関に現れたお父さんは痩せていた。髪に白いものが増え、右手の中指に絆創膏が巻かれていた。


地面に額をつけた。


「娘を助けてください」


お父さんは答えなかった。


「私を許さなくていい。二度と会わなくていい。終わったら、私も消える。あの子だけ助けて」


砂利に額が擦れた。痛みがあることに安心した。


顔を上げると、扉は閉まっていた。


一通目の手紙には検査結果を入れた。


二通目には、娘が幼稚園で描いた家族の絵を入れた。夫は大きく、私は端に小さく描かれていた。


三通目には何も入れなかった。『お願いします』とだけ書いた。


返事は毎回届いた。


白い便箋が一枚、きちんと三つ折りにされていた。


そこには、何も書かれていなかった。


無視されたわけではない。お父さんは白紙を選び、封筒へ入れ、宛名を書き、切手を貼って投函した。


言葉がないことを、わざわざ私へ届けた。


三枚目を病院の廊下で開いた夜、母から電話が来た。


『病気平癒で有名なお寺があるの。少し山を登るらしいけど、一緒に行かない?』


何も答えずにいると、母は声を甘くした。


『私たちも、あの子のために何かしたいのよ』


私たち。


お父さんへ骨髄の提供を頼みこんでいるあいだ、母たちは、ただ祈るつもりだった。


自分たちは傷つかず、血も流さず、御利益だけを娘へ与える。祈ったという事実を持ち帰り、祖父母の顔をする。


「行く」


私は答えた。


※※※


週末、夫に娘をまかせ、三人で山へ向かった。


母は道中ずっと喋っていた。きっと大丈夫。みんなで祈れば届く。あなたも少しは休みなさい。


母の夫は運転席から何度も私を見た。


「君が倒れたら、娘ちゃんが悲しむよ」


お父さんから母を奪った男が、家族を気遣う声を出していた。


寺で線香を買い、母は一番長く手を合わせた。賽銭箱へ千円札を入れ、やれることはやったという顔をした。


母の夫は祠の前で私の肩を抱いた。


「娘ちゃんは絶対に助かるよ。僕らも本当の祖父母のつもりでいる。血がつながっていないとか、そんなことは関係ない。できることなら何でもするから、遠慮せず頼ってくれ」


その手を振り払わなかった。


私は、『何でも』すると言った男の横顔を見た。


お父さんから母を奪い、七歳の私から母を奪い、いまは娘の祖父を名乗る男の横顔。お父さんからの骨髄提供が必要なときに、この男は線香の煙を浴びただけで同じ家族の列へ並ぼうとしている。


では……『何でも』してもらおう……。少しでもお父さんの溜飲を下げてもらうために。


祠の先に、古い山道が続いていた。


前日の雨で土が緩んでいた。母の夫が先を歩き、そのあとを母、私が最後についた。


道幅が狭くなり、右側が深く切れ落ちた場所へ出た。


母の夫は崖を覗き込み、振り返った。


「ここは危ないな。足元を見て、ゆっくり来るんだよ」


そして、また家族を守る声を出した。


男が前へ向き直った。


私は二歩で間を詰めた。


右足を上げ、肩甲骨のあいだを靴底で蹴った。


力の限り蹴った。


男の上体が前へ折れた。両腕が空をかき、靴が泥の上を滑った。振り向いた顔に、驚きだけがあった。


もう一度踏み込んだ。


背中を押し出すように蹴りつけた。


男は声にならない息を漏らし、崖の縁から消えた。枝が折れる音が二度続いた。鈍い音が下から返り、その後は風の音だけになった。


母は口を開けたまま私を見ていた。


「い、いま……、何をしたの?」


「……見てたでしょう?」


「押したの?あの人を、あなたが蹴ったの?」


「うん、二回蹴った。だって、『何でも』するって言ったもの。だから、無様に死んでもらって、お父さんをスッキリさせてもらうことにしたの」


私の言葉に、母は後ずさった。


一歩、母の方へ足を踏み出す。


「こ、来ないで!美咲、お願い。あなた、どうかしてる。娘ちゃんが病気で疲れてるのよ。いまなら、私は何も見なかったことにするから!」


「何も見なかったことにするの、得意だもんね」


「な、何の話をしてるの!?救急車を呼ばないと。まだ助かるかもしれない!」


母は鞄からスマホを出そうとした。スマホは震える指から滑り落ち、地面へ落ちた。


拾おうと腰をかがめたとき、足元の土が崩れた。


母は短く叫び、斜面へ滑った。


咄嗟に伸びた手を、私は反射的につかんでしまった。


母の体が崖にぶら下がった。


「離さないで!お願い、引き上げて!お母さん、何も言わないから。あの人のことも事故だったって言う!あなたを守るからっ!」


母の手首は細かった。


七歳の夜、この腕が私を抱きしめてくれると信じていた。


でも、運動会で転んだ私へ伸びたのは、お父さんの手だった。熱を出した夜、額に触れたのもお父さんの手。花嫁姿の私を夫へ渡した手も、孫をおそるおそる抱いた手も、全部お父さんのものだった。


母の手に救われた記憶は、一つもなかった。


「お父さん、あの日、玄関で朝まで待ってた。私は七歳だった。お母さんが帰ったときに『おかえり』と言う人がいないと寂しいと思って、扉の前でずっと待ってた」


「分かった!全部分かったから、まず引き上げて!腕が痛いのっ!このままだと二人とも落ちるわっ!」


「私は七年待った。お父さんはもっと待った。お母さんからの電話を、謝罪を、ずっと待ってた」


「謝ったでしょう!あなたには何度も謝った!私だって苦しんだって話したじゃない。過去を変えることはできないのよ。いま私を殺しても、何も戻らない!」


「お父さんには、どうして謝らなかったの?」


「会ってもらえなかったの!あの人は頑固だから、私が何を言っても聞かなかった。あなたには分からないことが、夫婦にはあるのよ!」


夫婦?この人はお父さんと、いつまで夫婦のつもりなんだろう?


「私、知ってるからね。お父さんには、会いに行ってすらないでしょう?」


母の目が揺れた。


「行こうとはしたわ。何度も何度も考えた!でも、あの人をまた傷つけたくなくて——!」


「自分が責められたくなかっただけだよ」


私とまったく同じだ。間違いなく、私はこの女の娘だ。


「違う!ねえ、美咲。あなたは優しい子でしょう。お母さんを助けて。娘ちゃんには、あなたが必要なの。人殺しになったら、あの子まで不幸になるのよ!」


「私はもう人殺しだよ……」


母は崖の下を見た。


「あの人は、まだ生きてるかもしれない!助けを呼べば間に合う。二人で全部事故だったことにしましょうっ!私はあなたを許す。お母さんだから、どんなことをしてもあなたを守るから!」


「最後まで、自分が許す側なんだね……」


「お願いよ。私はあなたの母親なの。産んだのは私よ!あなたがお腹にいたとき、毎日話しかけた。生まれた夜は嬉しくて眠れなかった。初めて歩いた日だって覚えてる。あなただって、本当はお母さんが必要だったから会いに来たんでしょう!私を愛してたから、十四年も会ってくれたんでしょう!」


そんな必死な様子の母を見て、私は言った。


「お母さん。お父さんのために、いなくなって」


「そんなこと言わないで。お母さん、これから償うから!お父さんにも謝る!あなたの旦那さんにも全部話す。何でもするっ!だから引っ張り上げて!お願いっ!お願いだからぁ!」


母の指が私の腕へ食い込んだ。


「あなたは、一度も母親だったことなんてない。あなたには、不幸な事故として消えてもらう。そして、お父さんに『ざまあみろ』って思ってもらうんだ」


私は母の指を、ゆっくりと一本ずつ外した。


母も、最後には私の名を呼ばなかった。


ただただ、自分が死にたくないと叫んだ。


そして……母は、あっけなく落ちていった。


声が遠ざかり、木々が揺れ、やがて何も聞こえなくなった。


「家族ごっこも、もう、これでおしまいだね……。じゃあね、お母さん」


崖下を見ながらそう呟いた私の声は。


山を吹く風に、簡単にかき消えたのだった。


※※※


警察には、母の夫が足を滑らせ、助けようとした母も落ちたと話した。


男の背中を二度蹴ったことも、母の指を外したことも話さなかった。


二人の死は事故として処理された。山では珍しくない不幸だと、新聞の隅に載った。


葬儀で母の遺影を見た。


若い頃の写真が使われていた。私を置いて逃げる前の顔だった。


親族は泣き、私は頭を下げた。涙は出なかった。


焼かれた母の骨は白かった。


七歳から抱えてきた穴が埋まると思っていた。母を落とせば、お父さんが戻る気もしていた。


何も戻らなかった。


お父さんを裏切ったのは母だけではない。


母を消しても、私の罪は一つも減らなかった。


※※※


病院へ戻り、眠る娘のそばで夜を明かした。


翌朝、面談室にお父さんがいた。


お父さんは医師の説明を聞き、必要な書類へ署名していた。右上がりの字が紙の上を進んでいく。


私はその場に立ち尽くした。


「お父さん……。どうして来てくれたの?白紙が三枚届いたから、もう絶対に来てくれないと思ってた……」


お父さんはペンを置いた。


「一枚目は、お前に何も返す言葉がなかった。二枚目は、孫の絵を見て腹が立った。あの子まで使って俺を動かすのかと思った」


そして、お父さんは少し黙った。


「三枚目を出したあと、俺がやっていることは、お前を否定するために、何の罪もない孫を見捨てることだと気づいた」


お父さんは、署名した書類を医師の側へと押し出した。


「子供は親を選べない。俺は、そのことを知っていたのにな……。お前が七歳のとき、何度も自分へ言い聞かせたからな。思い出すのが遅くなった。孫には悪いことをした」


その言葉は、玄関で母を待っていた七歳の私まで届いた。


頭を下げた。床へ涙が落ちた。


「あ、ありがとうございます……。私に言われたくないと思うけど、ほかに言葉が出てこないです……。娘のために、本当に、本当にありがとうございます……」


「孫のためだ。お前を許したわけでも、戻ってきたわけでもない。手術が終われば、また俺はいなくなる。それを分かったうえで礼を言うなら、勝手に言えばいい」


「分かってます。お父さんが私のために来たなんて、もう思いません……。娘の大恩人へのお礼として受け取ってください……。ありがとうございます……本当に、本当に……」


お父さんは私を見ず、「医者を待たせるな」とだけ言った。


私はうなずいた。何度も何度もうなずいた。


※※※


骨髄提供の日、お父さんは一人で病室へ入った。


娘はベッドの上から手を伸ばした。


「じいじ、来てくれたんだね。ママが、じいじも痛いことをするって言ってた。ごめんね」


お父さんはその手を両手で包んだ。


「お前が謝ることは一つもない。じいじが自分で決めたんだ。怖かったら怖いと言っていいし、痛かったら泣いていい。誰にも我慢して元気なふりをしなくていいからな」


そして、お父さんが優しく笑った。小さかった頃の私に優しくしてくれた、昔のお父さんだ。


「じいじも怖い?」


「怖いよ。大人だって怖い。大事なのは、怖くないふりをすることじゃない。怖くても、やらなきゃいけないことから逃げないことだ」


「じゃあ、私も逃げない。終わったら、じいじとアイス食べたい」


「分かった。じいじは何味がいいか考えておく」


娘が笑った。


お父さんも笑った。


ガラス越しに見ていた私は、声を押し殺して泣いた。優しいやり取りだった。


でも、あの笑顔の輪に、もう私の居場所はない。


それでいい。何の問題もない。


※※※


娘は助かった。


お父さんは退院すると、また姿を消した。


娘は学校へ戻り、友達を作り、恋をした。成人式の日には晴れ着の帯が苦しいと文句を言った。


ある日、娘がお父さんのことについて聞いてきた。


「おじいちゃんは、どんな人だったの?病院で会ったときは優しかったけど、お母さんは、おじいちゃんの話をすると、いつも泣きそうな顔をするよね」


「世界で一番、優しい人だよ。私が転んだら、立つまで待ってくれた。自分の人生を削って、私なんかを育ててくれた。私が信じてもらう価値を失うまで、ずっとずっと」


「いまも会いたい?」


「会いたいよ。でも、会いたいと思うことと、会える資格があることは別なの」


娘はしばらく黙り、口を開いた。


「私は……会ってお礼を言いたいな」


そんな娘の言葉に、私は答えた。


「あなただけなら、いつでも会えると思うよ?お父さんも喜ぶと思う。あなたは何も悪くないのだから」


ただし。


そこには、私はただの邪魔者だろう。


※※※


娘が結婚して家を出たあと、私はお父さんを探した。


夫との結婚生活も続いていた。彼は娘の移植のことがあってから、更にお父さんへの尊敬の念を深めていた。


一方、私への当たりは、以前より冷たくなっていた。私には、その空気が心地よかった。私を責めてくれる夫には、感謝しかなかった。


山でのことは、誰にも言っていない。あれは私ひとりで抱えていく罪だ。お父さんのために、母を殺したよ!なんて言って、お父さんが喜ぶわけがない。私が殺人者だとバレれば、娘の未来にも影響する。


もう人のためにという理由で、自分の行動を正当化するのは終わりだ。


母たちが憎かったから、私は殺した。ただ、それだけだ。


※※※


お父さんは山あいの町で、オオクワガタを育てていた。


私はお父さんに会いに行った。


夫も、私の考えに賛同してくれていた。尊敬するお義父さんのためになるなら、何でもしてこいと言われた。


ただ、拒絶されたら、すぐに帰ってこいとも言われた。夫がそう考えるのも無理もない。私もそのつもりだった。


お父さんがいたのは、農場と呼ぶには小さなビニールハウスだった。


棚に透明なケースと菌糸瓶が並び、温度計がいくつも吊られている。湿った木と土の匂いがした。


お父さんは丸椅子へ座り、ケースのラベルに日付を書いていた。


私の顔を見ても何の表情も変えず、ちょっとした知人に話しかけるような様子で声をかけられた。


「久しぶりだな」


お父さんの顔には、驚きも怒りもなかった。


「お父さん、話したいことがあるの。長くなるかも」


「……俺は作業をしてる。長くなるなら、勝手に話せばいい」


お父さんは菌糸瓶の表面を指でなぞっていた。


私は、話せることを全部話した。


母と会ったこと。マフラーやコートを受け取ったこと。封筒を受け取り、お父さんに嘘をついたこと。自分の夫にも、娘を母たちに会わせていたことを隠していたこと。気づいたら、母の夫を、娘が『じいじ』と呼んでいたこと。


山の話もした。


これは詳しくは話せない。私が罪を抱えて墓までもっていくべきことだ。


なので、ただただ、二人の無様な最期だけを話した。


「母の夫が先を歩いていた。足をすべらせて、崖の下に落ちていった。お母さんは動転して同じように足を滑らせて落ちてった。あっという間だったよ。バチがあたったんだと思う」


お父さんは菌糸瓶のラベルへ日付を書いた。その動きが止まることはなかった。


「お父さん。私は、これからどうすればいいと思う?私がどうなればいいか、決めてほしいの。ここから消えろと言うなら二度と来ない。死ねと言うなら——」


「やめろ」


声は低かったが、怒りはこもっていなかった。


「そうやって自分の始末を人に押しつけるな。あの女に会うことを選んだのはお前だ。隠すと選んだのもお前。自分のことぐらい、自分で決めろ」


「そんなつもりじゃない」


また『つもり』という言葉が自然にでてきた。


長年染み付いた、言い訳の言葉。人は簡単には変われない。


お父さんはペンの蓋を閉じた。


「俺を傷つけるつもりはなかった。夫を騙すつもりもなかった。娘を巻き込むつもりもなかった。それで、実際にしたことの何が消えるんだ?」


「何も消えない」


「なら、自分で決めろ。決めたのなら、自分の責任で行動で示せ。俺をダシに使うな」


私は唇を噛んだ。


「お父さん……私が憎くないの?」


お父さんは顔を上げた。


「どうして私を憎んでくれないの?私がお父さんにしたことを、なかったことにしないでよ……。私はお父さんの人生を壊した。お父さんが一人で必死に守った家族を、私が壊したの。お父さん、お願い。私を見てよ……。憎んでよ……」


お父さんはしばらく私の顔を見た。


その目に何もないことを確かめる時間だった。


「怒ってたよ」


お父さんは、他人事のように言った。


「あの日、マンションを出て、車に乗った。エンジンをかけたまま朝まで駐車場にいた。お前が追いかけてくるかもしれないと思って、ずっと入口を見てた」


「私、電話した」


「知ってる。裸足でも、娘を抱いてでも、追いかけてくるんじゃないかなって思ってた。まあ、俺がそうしてほしかっただけだ」


お父さんは自分の手を見た。


「夜が明けて、家へ帰った。お前の部屋を見た。運動会の写真も、卒業証書も、結婚式でもらったドライフラワーもあった。お前が残した紙を見つけた。弁当に入れてた、俺が書いたくだらないメモだ。全部取ってあったんだな」


「くだらなくない!あれは、お父さんがくれた私の大切な宝物なの!」


私は必死になって叫んだ。


それでも、お父さんは顔色一つ変えず話す。


「……本当に?十四年も平気な顔して、あの女へ会っていたのに?あのあと、俺が大事だと思ってたものは、全部、俺一人の思い込みだったのかもしれないって思ってな。お前が笑ったのも、ありがとうと言ったのも、俺が喜ぶから演じてただけかもって。そんなことを考えてたら……何も分からなくなってしまった」


お父さんは透明なケースの曇りを布で拭いた。


「翌日からホテル暮らしだ。お前に会いたくなかったからな。元妻みたいに見えてきてな」


お父さんの話は続く。


「三日間、何も食えなかった。一週間、会社へ行けなかった。お前が生まれた日から、順番に思い出したよ。初めて立った日。熱を出した夜。母親がいなくなった朝。参観日。運動会。合格発表。結婚式。思い出すたび腹が立って、吐いた。お前を憎めれば楽になると思った」


……憎めれば楽になる……。


「い、今は?もう体のほうは大丈夫?」


「ああ。一か月もすると、怒る体力がなくなった。写真を見ても、知らない家族の写真に見えた。お前の名前を口にすると、昔飼っていて死んだ犬の名前みたいに聞こえた。懐かしいけど、もういない。そこから先は、何も感じなくなった」


そっか……でもそんな状態でもお父さんは……。


「お父さんは、娘を助けてくれた」


「あの子は関係ないからな。子供は親を選べない。アレは、お前を助けたんじゃない」


「分かってる。でも、病室で笑ってた。昔みたいな優しいお父さんだった」


「そりゃあ、大切な孫だからな」


大切な孫……。


……な、なら私は?今のお父さんにとって、私とは何なんだろう?


「わ、私は、もう娘じゃない?」


お父さんは首を傾げた。


「……娘かもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、心底、どうでもいいかな」


怒鳴られるより、その言葉は深く私の胸へと突き刺さった。


「道で見かけた人がどこで何をしようと、俺には関係ないだろ。それと同じだ。たぶん、俺は壊れちゃったんだな」


私はもう、お父さんの中にいなかった。


※※※


お父さんは棚からケースを下ろした。黒く艶のある大きな顎が、マットの中から覗いていた。


お父さんの育てているオオクワガタだ。


「黒丸、出てきたか」


お父さんの声がやわらかくなった。


隣のケースも確かめる。


「小夜、潜りすぎだな」


「大牙、ゼリー食ったか」


昔、私の名前を呼んでいた優しい声だった。


優しい声が、お父さんが飼育しているオオクワガタへとかけられていた。


そんなお父さんの声を聞いていたかった。たとえ私に向けられたものでなくても。


「な、何か、手伝えることないかな?」


「手伝う?お前が?」


「経理でも、書類でも。重いものを運ぶのでもいい。ここへ置いてもらいたいんじゃない。お父さんの生活へ入れてほしいとも言わない。邪魔にならないところで、ちょっとだけでも手伝わせて」


お父さんは何かのメーターを見た。


「ふむ……なら、留守のとき、湿度を見てくれるか?」


「し、湿度?」


「ああ。乾いてたらマットに霧を吹く。クワガタに直接かけないようにな」


お父さんは霧吹きを私へ渡した。


「この子たちは、俺の大切な家族だから。世話をするなら、俺のためじゃなく、この子たちのためにやってくれ」


大切な家族。


透明なケースの内側で、黒丸がゆっくり顎を持ち上げた。


「助かるよ。これでもっと釣りに行ける」


そう言うと、お父さんは柔らかく笑った。


お父さんの笑顔は、私に向けた笑顔ではない。黒丸たちの世話を任せられることが嬉しいのだ。


悲しくなんてない。そんなことあるはずもない。


こんな私でも、お父さんの役に立てる。私はそれだけで嬉しかった。


※※※


それから私は、週に三度、お父さんのオオクワガタ農場へ通うようになった。


朝はケースの蓋を一つずつ開け、食べ残したゼリーを取り出す。新しいカップを押し込み、温度と湿度を帳面へ書く。お父さんの字は今も右上がりだ。私の数字は左へ傾く。二つの字が同じページに並んでも、連絡事項しか書かれない。


黒丸――食欲あり。


小夜――産卵木交換。


大牙――要観察。


お父さんがいない日は、声に出して名前を読む。


「黒丸、御飯だよ」


ゼリーを詰めていると、弁当箱へ卵焼きを並べるお父さんの太い指が、頭に浮かぶ。


『勉強、無理しすぎるなよ?』


メモを弁当袋の中に入れ、お父さんは寝ている私を起こさないよう静かに鞄へ入れてくれた。私は襖の向こうで目を閉じ、その音を聞いていた。


優しい過去を思い出しながら、霧吹きを持つ。


シュッ、シュッ、シュッ。


乾いたマットの色が変わる。


初めて髪を結んでもらった朝、お父さんはゴムを引く力が分からず、何度も『痛いか?』と聞いてくれた。


『ちょっと痛い』


『これくらいか?』


『まだ、ちょっと痛いかな』


『うーん、難しいな。お母さん、どうやってた?』


『見てなかった』


『そうか……。少し調べとくよ。明日は今日よりうまくやるからな』


鏡の中でお父さんは真剣だった。結び目は曲がっていた。私は一日ほどかなかった。


シュッ。


小夜のケースへ霧が落ちる。


お父さんがいる日は、背後から声が飛ぶ。


「そこ、かけすぎるなよ」


「これくらい?」


今のお父さんは私を見てくれない。


振り返っても、お父さんは私ではなくオオクワガタの小夜を見ていた。


悲しくないわけではない。でも、お父さんが幸せならば、いい。


※※※


昼過ぎ、お父さんが釣り竿を担いで戸口に立つ。


「夕方まで頼むな」


「うん。気をつけて」


私の声に、お父さんの手が止まった。


扉の取っ手を握ったまま、しばらく動かなかった。


やがて、そのまま何も言わず、お父さんは出ていった。


私は作業へ戻る。


ケースを持ち上げる。棚を拭く。ゼリーを替える。産卵木を水へ浸す。手を動かしているあいだ、昔のお父さんも私の頭の中を動いている。


洗濯物を抱えて廊下を行く。


焦げた卵焼きを箸で弁当箱へ詰める。


夜勤明けの体で折り畳み椅子を担ぐ。


泥だらけの私へ、柵の向こうから腕を伸ばす。


『美咲、立て!』


転んだ膝が痛くて、私は土を握った。


『もう走れない』


『ゆっくりでいい。最後まで見てるぞ!』


『一番になれないよ』


『そんなもの、どうでもいい!立てたら、それで一番だ!』


私は立った。


お父さんの声へ向かって走った。


あのときのお父さんは、ゴールで私を待ってくれていた。


今はもう待っていない。


※※※


夕方、お父さんが戻ってくる頃には、農場の空気が少し冷えていた。


「黒丸、ただいま」


お父さんは最初に黒丸のケースを覗く。


「今日はよく食べたよ。小夜の木も替えた。大牙はまだ潜ってる」


「そうか。ご苦労さん」


お父さんはケースの中へ笑いかける。


その横顔に、優しく若かった日のお父さんが重なる。


合格発表の掲示板で、私の番号を先に見つけた顔。


花嫁の手紙を聞き、両手で顔を覆った姿。


生まれたばかりの娘へ、触れていいのか迷いながら指を伸ばした横顔。


二人で娘の両手を持ち、公園の道を何度も往復した午後。娘の足が浮くたび、お父さんは子供のように笑った。


あの笑顔は私のものだった。


でも、その笑顔を壊したのも私だ。


「もう帰っていいぞ」


お父さんの声で、農場へ戻る。


「あと一つだけ」


一番端のケースを引き寄せる。マットの表面が乾いている。


かけすぎないように。乾かさないように。


シュッ、シュッ。


※※※


霧吹きから出る白い霧の向こうを、七歳の私が走っている。


曲がった髪を揺らし、擦りむいた膝のまま、ゴールで待つお父さんへと走っている。


お父さんは大きく手を振っている。


『最後まで見てるからな!』


あの声はもう聞こえない。


でも今、私はお父さんの優しい声を聞きながら、お父さんとの思い出に浸り、お父さんの「本当の家族」の役に立てている。


私はそれだけで幸せだった。


お父さんが、私のために笑っていないことなんて、分かっている。


でもそれでいい。それでいいのだ。


シュッ、シュッ。






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