お父さんを捨てた私
次に母と会ったのは、その二週間後だった。
母の顔を見て、もう会わないと伝える。お父さんに話す。そう決めていた。
母は百貨店の紙袋を抱えて待っていた。
「これ、制服に合うと思って」
袋には薄茶色のマフラーが入っていた。値札を見て、慌てて裏返した。
お父さんと買い物へ行っても、こんな値段の品は、手に取ることすらしなかった。
「受け取れない。こんな高いものをもらったら、お父さんにどう説明すればいいか分からないし、また会う理由を作られてるみたいでイヤだ」
「理由なんて作らなくていいのよ。会いたくない日は会わなくていいわ。七年間何もできなかった分を返したいなんて、これくらいで言うつもりはないから」
母は寂しそうに笑った。
その笑顔を見ると、突き返せなかった。
※※※
この日、母は男を連れてきていた。今の夫らしい。
髪が少し薄く、茶色のジャケットを着て、笑うと目尻に細い線が寄った。
本当に、普通の男だった。
不倫をするような人間には、見るだけで分かる、悪そうな印があると思っていた。
男は言った。
「ずっと君のことが気になってた。こんなことを僕が言う資格はないし、顔も見たくないと思う。君のお父さんにしたことも、君からお母さんを奪ったことも、申し訳なかった。謝って済む話じゃないけど、一度きちんと謝りたかった」
大変だったのは、私じゃなくてお父さんだ。
謝るくらいなら、お父さんにお金でも送ればいい。
そう言えばよかった。
だけど、私はカップの中を見て、はい、としか答えられなかった。
※※※
母と別れると駅の洗面所へ入り、石鹸で手首まで洗った。香水が落ちるまでこすり、マフラーは鞄の底へ押し込んだ。鏡の中の自分へ、これが最後だと言い聞かせた。
家へと向かう前に、お父さんへ電話した。
「いま図書館を出たところ。何か買って帰ろうか」
「遅くまで頑張ったな。鯖を焼いてるから、何もいらない。暗い道を通るなよ」
お父さんの声を聞くと、喉の奥が詰まった。玄関へ着くまでに何度も涙を拭いた。
「ただいま」
「おかえり。寒かったろ。手が真っ赤じゃないか」
お父さんが私の手を取った。石鹸でこすったせいだとは言えなかった。
「と、図書館の水が冷たかったの……」
その夜、お父さんが眠ってからマフラーを出した。ごみ袋へ入れようとして、できなかった。机の奥へ隠した。
次の日は、お父さんの好物の羊羹を買って帰った。
罪滅ぼしのつもりだった。
「珍しいな。何かあったのか?」
「ううん。駅で安かったから」
お父さんは嬉しそうに茶を淹れた。羊羹を二つに切り、大きいほうを私へ寄越した。私は食べられなかった。
※※※
母と男は、私が欲しがるものをよく知っていた。
服、化粧品。高校へ入るとスマートフォンの料金まで払うと言った。帰り際には封筒を渡された。
「女の子には、友達との付き合いもあるし、いろいろ必要でしょう?困ったときのために持っておいて」
お父さんにもらった小遣いは、使わず机の引き出しへ入れた。母の金で友達と遊び、お父さんの金を貯めた。
あいつらをうまく使うと思えばいい、と自分へ言い聞かせた。
それから、季節ごとに数時間だけ母の娘になり、買ってもらった服を駅のトイレで着替え、お父さんの娘として家へ帰った。
※※※
母との時間は、拍子抜けするほど軽かった。
映画を観て、パスタを食べ、服を選ぶ。母は学校の成績を聞き、気になる男の子はいないの、と笑った。
七年間の空白について話す日は来なかった。お父さんに謝る日も来なかった。
「前に、長く待たせないって言ったよね。いつ、お父さんに話すの?私、これ以上、お父さんに嘘をつきたくない」
母はティースプーンで紅茶をゆっくり混ぜた。
「あなたが高校を卒業するまでは待って。受験前に家の中を騒がせたくないの。お父さんと私の問題で、あなたの将来を駄目にしたくないの。卒業したら、私から連絡するから」
やっぱりか……。
母が約束を守る気などないと、途中から分かっていた。
でも、分かったまま、私は母に会い続けた。理由も分からないまま。
※※※
そのうち、私は、嘘を先に用意するようになった。
母と会う日は、朝のうちに「友達と買い物へ行く」と伝えた。帰宅時間も少し遅めに言った。
香水のつかない席へ座り、プレゼントの包装紙は駅で捨てた。うまく隠せた日は、お父さんの顔を見ても吐き気がしなくなった。
一度、母にもらった紺色のコートを着たまま帰った。
駅のトイレが混んでいた。寒いし、お父さんは服に詳しくない。分からないだろうと思った。
「そのコート、いい色だな。新しく買ったのか」
胸が強く鳴った。
お父さんは、私のことをよく見てくれていた。
「友達のお姉さんにもらった。もう着ないからって」
嘘がするりと、口から出ていた。
「そうか。よく似合ってるよ。お父さんも、たまにはちゃんとした服を買ってやらないとな。若い子がどこの店へ行くか分からないから、今度一緒に見に行くか」
「大丈夫だよ。私の服は足りてるから」
「遠慮するなよ?美咲、昔から欲しいものを言わないだろ。お父さんに金がないと思ってるだろ。昔と違って、今なら少しくらい出せるぞ」
お父さんは財布を出し、何やら計算し始めた。
私は自室へ逃げ、コートを脱いだ。翌週、母に返すつもりで紙袋へ入れた。
返せなかった。
春になるとまた、そのコートを着た。
お父さんが「やっぱり似合うな」と言ったとき、前ほど苦しくなかった。
※※※
お父さんとの暮らしも続いていた。
大学の合格発表の日、お父さんは掲示板の番号を私より先に見つけた。
「あったぞ!」
周りの人が振り向くほど大声を出し、私の肩を何度も叩いた。帰りに寿司を買った。値引きシールのない寿司だった。
「高かったんじゃない?」
「今日くらいいいさ」
お父さんは缶ビールを一本だけ開けた。そして、テーブルの空いた椅子の前へ小さな杯を置こうとし、途中でやめた。
私は見ないふりをした。
一年前、私が大学へ行きたいと言った夜。
お父さんは学費の資料を黙って読んでいた。
「奨学金を借りるよ。私もバイトするから」
「勉強しに行くのに、バイトばかりじゃ駄目だろ」
お父さんは笑って、立ち上がった。
そして、押し入れから古い菓子缶を出した。中には通帳があり、私の名が書いてあった。母が消えた翌月から、少しずつ積み立てていた。
残高を見て、息が詰まった。
お父さんの靴は底がすり減っていた。服も何年も買い替えていない。ときどき昼ごはんを抜いていたことも知っていた。その全部が、数字になって通帳に並んでいた。
「こんなの、使えない」
「使わないほうが困る」
「いつか、絶対に返すから」
「返さなくていい。もし余ったら……いつか美咲が母親になったとき、子供のために使ってやってくれ」
お父さんはその頃から、いつか生まれる孫の話をしていた。
私は泣き、お父さんは頭を撫でた。
母にもらった封筒が、鞄の底に入っていた。
泣きながら、その重さを感じていた。
※※※
大学の卒業式にはお父さんを呼んだ。母には日程を教えなかった。
お父さんは慣れないスーツを着て、式のあいだ何度も目をこすった。正門で二人の写真を撮った。お父さんは緊張すると右肩が上がる。私はお父さんの腕へ自分の腕を絡めた。
その写真を母に見せると、母は言った。
「お父さん、老けたね」
胸の中で何かがささくれた。
「お父さん、苦労したからね」
母は聞こえなかったように、次の写真へ指を滑らせた。
※※※
社会人になり、私は同じ会社の人と結婚した。
式でお父さんは、私の手を夫へ渡す直前まで離さなかった。
「お父さん、握りすぎ」
小声で言うと、慌てて手を緩めた。
披露宴の最後、お父さんへの手紙を読んだ。
お父さんは父親と母親の二人分でした。私を捨てないでいてくれて、ありがとう。お父さんの娘で幸せです。
そこに書いたことは、すべて本心だった。
一行も嘘ではなかった。母については、一行も書かなかったけれども。
お父さんは顔を覆い、声を殺して泣いた。会場の誰も、私が母と会い続けていることを知らない。
拍手の中、そんなお父さんを抱きしめる。お父さんへの感謝の気持ちには一点の曇りもなかった。
そこに、穢れた裏切りが存在していたのを、否定できないのと同じで。
※※※
式の翌日、母と会った。
「私も花嫁姿を見たかったな」
写真を見ながら、母はそう言った。
もう、その言葉にも腹が立たなかった。
自分で来られない場所にしたのだと、母は一生気づかないのだろう。
やがて娘が生まれた。
お父さんは、慣れた手つきで、赤ちゃんを腕へ乗せた。
「軽いな」
「三千グラムあるよ」
「美咲もこんなに小さかったな……」
お父さんは孫の鼻先へ指を近づけ、触れずに引いた。
その横顔を見て、お父さんに子供を見せられたことが嬉しかった。
お父さんが積み立ててくれたお金も、眠らずに看病してくれた夜も、焦げた卵焼きも、すべてがこの腕の中へ続いていた。
お父さんは毎週のように家へ来た。
おむつを替え、ミルクを作り、抱っこ紐で近所を歩いた。娘が初めて「じいじ」と言った日は、聞き間違いではないかと動画を見直していた。
「も、もう一回言うかな?」
「お父さん……言うまで帰らない気?」
「泊まっていきたいくらいだけど……夫くんに迷惑かな……?」
私が笑うと、お父さんも笑った。
お父さんと私と娘で公園へ行った日、三人の影が舗道に長く伸びた。お父さんが娘の右手を持ち、私が左手を持つ。合図をして持ち上げると、娘は足を浮かせて歓声を上げた。
何度も繰り返した。
夫がいて娘がいて……そしてお父さんがいる。
私の家族はここにある。
そう思えた。
※※※
私は娘を母にも会わせていた。
夫には話さなかった。お父さんにも話さなかった。
母は赤ん坊を抱き、「おばあちゃんですよ」と頬をゆるめた。母の夫は、毎回、大きな玩具を買ってきた。娘は二人になついた。
男は、自由業という立場もあり、お父さんよりも時間があった。実際、お父さんよりも母の夫の方が、娘に多く会っていたかもしれない。
実は、娘が最初に『じいじ』と呼んだのも、男の方だった。
お父さんから、娘の『じいじ』を奪っているのではない。娘のために、いいように利用しているのだ。
私は、またそんな言い訳をした。
※※※
娘が五歳になる前日、母から電話があった。
「一日早いけど、私たちにもお祝いさせてくれない?」
お父さんは誕生日当日に来る予定だった。夫が帰ってくるのは夜だ。
重ならなければ見つからない。
私は母たちを家へ招いた。
母は苺のケーキを持ってきた。母の夫は娘の背丈ほどある箱を抱えていた。リビングに折り紙の輪飾りを下げ、娘が選んだ五本の蝋燭へ火をつけた。
※※※
歌い終えたところで、インターホンが鳴った。
玄関のモニターにお父さんが映っていた。
一瞬、息が止まった。
居留守を使うことも考えた。だけど、娘が「じいじ!」と叫び、玄関へ走っていった。
「——待って!」
そんな声も間に合わず、娘がドアを開けると、そこにはお父さんが立っていた。
片手に包装紙の包み、もう片方に小さなケーキ屋の袋を提げていた。
「明日、仕事が入りそうでな。先に渡して——」
娘がお父さんの脚へ抱きついた。
「じいじ!じいじがケーキ持ってきてくれてるよ!」
お父さんは娘の頭を撫で、顔を上げた。
開いた扉の先に、母がいた。
母の夫は紙皿を持ったまま固まっていた。母の膝には、娘へ渡すつもりだったらしい赤い上着が置かれていた。テーブルには食べかけのケーキ。壁には『おたんじょうびおめでとう』の文字。
お父さんは長いこと、母を見た。
母は立ち上がらなかった。
「……久しぶり」
まるで同窓会で会った人へ向ける声だった。
お父さんは母の隣に座る男を見た。次に娘を見た。最後に私を見た。
「お、お父さん、違うの……」
口が勝手に動いた。
お父さんの眉が少し寄った。
「……何が違うんだ?」
「今日は、たまたま来てもらっただけなの!明日の誕生日当日は、お父さんたちと祝うつもりだった!本番は、お父さんたちとのお祝いのつもりだったの!」
お父さんは目を閉じた。
「別にしてた……のか」
「お父さんを傷つけたかったんじゃない。傷つけないために——」
「俺に見つからなければ、傷つけてないことになるのか?」
「そうじゃない!お母さんは、私にとって本当のお母さんじゃない!お父さんのほうが大切!」
「じゃあ、これは何だ」
お父さんは開いた玄関の先を指した。
「俺が明日ここへ来て、何も知らずに蝋燭を立てて、初めて祝う顔をする。それをお前は見ていられたのか。昨日も同じ歌を歌ったと知りながら、笑っていられるのか――?」
「む、娘が喜ぶなら、それでいいと思ったの……」
お父さんは、母の夫に視線をやった。
「孫は、あの男を何て呼んでる?」
答えが出なかった。
お父さんの唇が震えた。
「じいじって、呼ばせてるのか?」
「む、向こうが勝手に——」
「そうか。止めなかったんだな」
「ご、ごめんなさい……」
「俺が初めて『じいじ』と呼ばれたと思って、あんなに喜んでたとき、お前は何を考えてたんだ?」
公園で娘を持ち上げた日のお父さんが浮かんだ。お父さんは何度も動画を見ていた。その前から娘は、母の夫を同じ呼び名で呼んでいた。
「……言えなかった」
「違う。言わなかったんだ」
お父さんの声が初めて大きくなった。
「言えば、自分が困るからだ!俺がどう思うかじゃない。夫くんがどう思うかでもない。お前が責められたくないから、全員に違う話をして、都合のいいところだけ受け取ってたんだ!」
「わ、分かってる」
「分かってない!」
お父さんの怒鳴り声に、リビングの娘が泣き出した。
お父さんはすぐ口を閉じた。泣き声を聞く顔だけは、いつものお父さんの顔だった。
お父さんは、娘のところへ近寄ろうと一歩動き、母の姿を見て止まった。
「……あの子は何も悪くないよな」
「う、うん……」
「お前も、七歳のあのときは何も悪くなかった」
お父さんの目に涙が溜まった。
「だから俺は、お前だけは一人にしないと決めた。何を失っても、お前が笑っていればいいと思った。母親がいないせいでできなかったことを、一つでも減らしたかった。俺のやり方が下手でも、お前には家があると思ってほしかった」
「あったよ!私にはちゃんと家があった!」
「じゃあ、なんであいつを入れた?」
答えられなかった。
「俺たちの家で足りなかったものは何だ?俺が母親になれなかったからか?金がなかったからか?髪をきれいに結べなかったからか?言ってくれ。何が足りなかった?」
「何も、何も足りなくなかった!私は満足してたよ!」
「それなら、なんで!なんで、こんな連中と会ってるんだ!」
お父さんは額を押さえた。
「お前と二人で笑ったことも、もう信じられない。運動会も、合格発表も、卒業式も、結婚式も。俺だけが家族だと思って、喜んでたのか?」
「違う!あの時間は本当!お父さんといた私は、全部本当だった!」
「本当なら、どうして平気で隠せたんだ?」
「へ、平気じゃなかった……」
お父さんはケーキ屋の袋を玄関の床へ置いた。中で箱が傾いた。
「……もういい」
お父さんが背を向けた。
廊下まで追った。サンダルが片方しか履けず、裸足で床を踏んだ。
「待って!お父さん、話を聞いて!お願い!」
マンションのエレベーターの前で、お父さんは振り返った。
「いつからだ」
「……中学生のときから……」
お父さんの顔から、さらに表情が消えた。
「十年以上か……」
その数字をお父さんの口から聞き、初めて年月の重さが形になった。
「何回だ」
「分からない」
「あの男とも会っていたのか?」
うなずいた。
「結婚式の日も、会ってたのか?」
「次の日だけど……。当日はお父さんしか考えられなかったから!」
お父さんは壁へ片手をついた。
私は初めて、お父さんが立っていられなくなるところを見た。母が消えた夜も、お金のことで悩んでいた夜も、お父さんは私の前で倒れなかった。
「手紙……」
お父さんが言った。
「結婚式で読んだ手紙も、俺を騙すためか?」
「違う!全部、本当だから!」
「本当?」
お父さんは笑った。声は出なかった。
「俺の前で泣いたお前と、あの連中と一緒にいるお前、どっちが本当なんだ?孫と三人で公園を歩いたお前と、あの男へ孫を抱かせたお前と、どっちがお前なんだ?お前の本当は、いくつあるんだ?」
何も言えなかった。
「お、お父さん、ごめんなさい……」
「呼ぶな」
低い声だった。
「もう、その呼び方をするな」
エレベーターが着いた。
お父さんは私を見た。
幼い頃から知っているお父さんの目が、そこにはなかった。怒りも悲しみも残っていなかった。ただただ、疲れ切った顔をしていた。
お父さんはエレベーターへと静かに乗り込む。すぐにその扉は閉じた。
お父さんは、こちらを見ることすらしなかった。
玄関へ戻ると、袋から白い生クリームが細く流れていた。包装紙の包みには、娘の名前と『じいじより』と書いたカードが貼られていた。
お父さんの右上がりの字だった。
※※※
すぐに、お父さんを追いかけようと、玄関へ戻り靴を履く。
そんなときだった。
母が背後に立った。
「追いかけないほうがいいわ。あの人、昔から感情的になると話が通じないから」
…………は?
「今、何て言ったの?」
この女に、お父さんの何がわかる?
「落ち着くまで待ったほうがいいって言ったの。あなたが追えば、余計に意地になるから」
「お父さんが感情的?」
何を言っている?
「私だって、あの人と長く暮らしたのよ。機嫌が悪くなると黙り込むし、いつまでも昔のことを引きずるところがあった。あなたには見せなかったでしょうけど」
長く?私より付き合い短いくせに、何を分かったようなことを。
「お父さんは私に当たったことなんてないよ」
母は困った顔で息を吐いた。
「美咲、私はあなたの味方よ。あの人に捨てられても、あなたには私たちがいる。もう隠れなくていいの。これを機会に、私たちと、普通の親子として付き合えばいいじゃない」
捨てる?お父さんが……私を?
顔を真っ青にする私に、母が言う。
「言い方が悪かったわ。でも、実際に出ていったでしょう。あなたと孫を置いて。昔の私と同じことをしてる」
耳の中で音が消えた。
「同じじゃない!」
「どこが違うの?あなたを一人にしたことに変わりはないでしょう?」
「お父さんは何も悪くなかった!悪いのは私だった!裏切り者の私だった!そんな私から距離をとろうとするのは当たり前!」
「お、親が子供から逃げるなんて——」
その瞬間、怒りで頭が真っ白になった。
「あんたが言うなっ!」
声が自分のものに聞こえなかった。
「七歳の子供を置いて男と逃げた人間が、親を語るな!十四年、お父さんに謝りもしないで、私へ服と金だけ渡して母親面をした人が、お父さんを責めるな!」
母は目を潤ませた。
「私は、ただあなたを愛したかっただけよ!」
「私はペットじゃない!あんたは、私を愛したかったんじゃない。愛されたかっただけだ!私に『お母さん』と呼ばれて、自分は悪くなかったと思いたかった!お父さんへ謝らなかったのも、許してもらえないのが怖かったからじゃない!お父さんの前では、自分が悪い人間だと認めるしかないからだっ!」
「そ、そんな言い方、あんまりよ……。私がどれだけ苦しんだと思ってるの?」
お前の苦しみなんてどうでもいい。
「知らない。知りたくもない。あんたは一度でも、お父さんがどれだけ苦しんだか考えた?夜中に写真を持って、声も出さずに泣いてた。昼ごはんを抜いて私の遠足代を作った。熱があっても運動会に来た。あんたが別の男と暮らしてる間、あの人は一日も親を休まなかった!」
母は唇を噛んだ。
「そ、それは、あの人が選んだことでしょう……」
私は振り返った。
母の顔を平手で打った。
乾いた音が廊下に響いた。母は頬を押さえ、目を見開いた。
「な、何するのっ!」
もう一度打った。
母の夫が腕をつかんだ。私は振りほどき、二人の荷物を玄関の外へ投げた。赤い上着も、大きな玩具も、食べかけのケーキも投げた。
「出ていって!」
「美咲、落ち着いて」
「もう、私の名前を呼ばないで!」
自分の声が、廊下の端まで響いた。
「お父さんがつけてくれた名前を、あんたが呼ばないでっ!」
母は泣き出した。
その涙を、私は十四年間も母の愛だと思っていた。
きっと、お父さんを捨てたときも泣いたのだろう。私へ会いたいと言った日も、都合が悪くなるたび泣いた。
母は涙で償わない。こいつにとって、涙とは、相手から許しを引き出すための道具だ。
二人を追い出し、扉を閉め、鍵をかけた。
娘が居間で泣いていた。
手を伸ばして抱きしめようとすると、娘は私の手を避けた。
「じいじ、帰っちゃった」
「うん……そうだね」
「ママが怒ったから?」
「ママが、嘘をついたから。ママが、悪い人だったから」
足に力が入らない。床にヘナヘナと座りこんでしまう。立ち上がれなかった。
お父さんとの思い出が走馬灯のように巡っていく。先ほどのエレベーターでの疲れ切ったような顔も。
涙が止まらなかった。
※※※
少し落ち着いた後、私はお父さんへ電話をかけた。呼び出し音のあと、一度つながり、すぐに切れた。
もう一度かけると、つながらなくなっていた。
着信拒否……。
私は、大好きなお父さんから拒絶されてしまった。長年の、考えなしの行動のせいで。
※※※
翌朝、実家へ行った。
お父さんは留守だった。合鍵で入ると、食卓には、二人でとった卒業写真が置いてあった。
そして、私の部屋の机には、右上がりの字の紙が一枚ずつ並べられていた。
『今日は体育。怪我しないようにね』
『十歳、おめでとう』
『お弁当、うまく作れなくてごめんな?』
『勉強おつかれ。無理だけはするなよ?』
私が捨てられずに保管していた、お父さんが時々書き残してくれたメモだった。結婚するとき、机の引き出しへ残してきたものだ。
膝から力が抜けた。
紙を胸へかき集め、お父さんの名を呼んだ。誰もいない家に、自分の声だけが響く。
母が消えた夜、玄関で帰りを待った七歳の私を思い出した。
十七年前、母はお父さんと私を捨てた。
そして次にお父さんを捨てたのは……私だった。
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最終話は、本日夜の投稿です。




