母に捨てられた私
母がいなくなった翌日の朝。
流しには米粒のついた茶碗が二つだけ水に浸かっていた。お父さんと私の茶碗だった。
私が最後に見た母の姿は、その前日の昼過ぎのものだった。
居間で爪に赤い色を塗っていた姿だ。除光液の匂いがきつくて、私は鼻をつまんでしまった。
「子供にはまだ早い匂いね」
母は笑った。
私の爪にも塗ってと頼むと、小指だけなら、と赤い点をのせてくれた。
それが乾いた頃、学校で先生に叱られるのが怖くなり、消しゴムでこすった。薄桃色の跡が爪の根元に残った。
その跡が消えるより先に、母はいなくなった。
買い物に行ってくる、とお父さんに言ったらしい。財布も、よそ行きの靴も、紺色の旅行鞄もなくなっていた。
買い物ではないとお父さんはすぐ気づいたと思う。外が暗くなると、黙って二人分の米を研いだ。
「お母さん、遅いね。歩いて行ったのに、道が混んでることあるのかな?」
お父さんは鍋の蓋を持ったまま、しばらく考えた。
「店の中が混んでるのかもしれないな。買うものが見つからなくて、探してるのかもしれない。腹が減っただろ。先に食べよう。お母さんの分は取っておけばいい」
「先に食べたら、お母さん怒らない?」
「怒ったら、二人で謝ろう。お父さんが先に食べろって言ったことにするから」
お父さんは味噌汁を温め直した。沸騰した鍋の底から、豆腐が浮いたり沈んだりした。
夜の九時、十時、十一時。お父さんは同じ番号へ電話をかけ続けた。私は玄関の段差に座り、母のサンダルがあった四角い汚れを見ていた。
「もう寝なさい。帰ってきたら、お父さんが起こしてやる」
「ここで待つよ。鍵を忘れてたら困るし、誰もいなかったら、お母さんが寂しいよね。ただいまって言ったとき、私がおかえりって言うの」
お父さんは、私から顔をそむけた。
「大丈夫、お母さんのことは、お父さんが待ってるからね。家に入れるから」
そう言うと、私を抱えて布団まで運んでくれた。お父さんの胸に耳をつけると、心臓がドクドクと高鳴っていた。
夜中に目が覚めた。
居間の明かりがついていた。襖の隙間から覗くと、お父さんが床に座り、母の写真を両手で持っていた。写真を見つめたまま、肩だけを細かく震わせていた。
翌朝、お父さんは何事もなかった顔で目玉焼きを作った。黄身が潰れ、白身の縁が黒く焦げていた。
三日目、お父さんは私の前にしゃがんだ。
「美咲。聞いてほしい。お母さんは、しばらく帰らない。どこにいるのかも、いつ帰るのかも、お父さんには分からない」
私はわけが分からなかった。
「分からないって変だよ。お父さんは大人なのに。お母さん、どこか遠いところにいるなら、そこへ迎えに行こうよ。私も行く。学校だって休めるよ?」
「お父さんも、できるなら、そうしたいよ。迎えに行って、三人で帰ってきたい。でもな、美咲。お母さんは迷子になったんじゃないんだ」
お父さんは私の肩へ手を置いた。何か言おうとして、口を閉じた。
「じゃあ、どうして帰らないの。私が悪い子だったから?一昨日、ピーマンを残したし、お風呂に入れって言われたのにテレビを見てたから?それで嫌になったの?」
お父さんの指が肩へ食い込んだ。
「違う。絶対に違う。ピーマンを残したって、言うことを聞かなくたって、そんなことで子供を置いていく親はいない。美咲がしたことと、お母さんが帰らないことは、何も関係ない。絶対に美咲のせいじゃない」
お父さんはそこまで言って、俯いた。
「私が悪くないなら、お母さんが悪いの?お母さんは悪い人になったの?」
長い沈黙のあと、お父さんは首を横へ振った。
「今は分からなくていい。ただ、お父さんはいる。朝起きても、学校から帰っても、夜中に怖い夢を見ても、美咲のそばにいる。家事は、お母さんくらい上手にはできないと思う。髪だって結べないし、料理も下手だ。でも、いなくならない。それだけは約束する」
「それ、ずっと?私が大人になるまで?お父さんも遠いところへ行きたくなったりしない?」
「ずっとだ。美咲が大人になって、もう来るなって追い出されるまでいる。遠くへ行きたくなっても、美咲を置いては行かない。美咲が俺の娘でいるうちは、絶対だ」
私はお父さんの小指を握った。
「嘘をついたら針千本だよ。絶対なら怖くないよね?」
お父さんは泣きそうな顔で笑った。
「そうだな。絶対だから怖くない」
私は泣かなかった。泣けばお父さんが壊れる。七歳の頭でも、なぜかそう分かった。
※※※
小学校では、母がいないことを隠した。
授業参観のお知らせをランドセルの底へ押し込んだ。
友達が母親の話を始めると、うちのお母さんも、と知っている話を継ぎ合わせた。母の得意料理は何かと聞かれ、カレーと答えた。本当はお父さんのレトルトカレーだった。
参観日の朝、お父さんがしわだらけの紙を食卓へ置いた。
「今日の二時から授業参観なんだな。どうしてお父さんに教えてくれなかったんだ?」
見つかった。
「来なくていいよ。仕事を休んだら困るよね?それに、お父さんが来ると少し変なんだよ」
「何が変なんだ。半休はもう取った。授業を見るだけなら、お父さんにだってできるぞ」
私の口から出た言葉に、お父さんの手が止まった。
「ほかの家はお母さんが来るの。男の人はほとんどいないし、お父さんが来てたら、みんな見ると思う。私、お母さんがいないって誰にも言ってないから、変に思われちゃうかも」
お父さんは紙のしわを指で伸ばした。
「そうか。お父さんが行くと、美咲が困るんだな」
お父さんは紙を四つに畳み直した。
※※※
午後、教室の後ろには母親たちが並んだ。化粧と香水の匂いが、教室の空気に混じっていた。私は振り返らず、黒板だけを見ていた。
授業が半分ほど過ぎた頃、廊下の窓に人影が映った。
作業着の上へ紺色の上着を羽織ったお父さんが、開いた後ろ扉から半分だけ顔を出していた。中には入らず、柱の陰に立っていた。
私は手を挙げた。
先生の問いに答えると、お父さんは口の形だけで「よし」と言った。
帰り道、校門の先で待っていたお父さんを責めた。
「来ないって言ったのに。廊下にいたら同じだよ。友達のお母さんに見られちゃったかも!」
「中へ入らないで、少しだけ見るつもりだったんだ。答えられたところを見たら帰ろうと思ってたんだ。ごめんな?」
お父さんは悪いことをした人のように頭を下げた。
私は腹が立ち、先に歩いた。
角を二つ曲がってから振り返ると、お父さんは離れた場所をついてきていた。お父さんは、私に見つからないよう、電柱の陰へ隠れるふりをした。
おかしくなって笑った。
お父さんも笑った。
二人で笑いながら帰った。あの日を境に、お父さんが学校へ来ることを恥ずかしいと思わなくなった。
※※※
お父さんの生活は、母がいなくなってから、多忙を極めた。
朝五時に起きて洗濯機を回し、私を送り出して工場へ行く。定時で帰れる日は少なかった。近所の佐藤さんの家で待たせてもらい、九時頃にお父さんが迎えに来る。
お父さんからは、作業油と汗の匂いがした。私はこの匂いが大好きだった。
家へ戻ると、お父さんは夕飯を作った。食器を洗い、私の宿題を見て、洗濯物を干す。居間で座ったまま眠り、夜中に起きて風呂へ入る。
一度、私が眠ったふりをしていると、台所から声が聞こえた。
「すみません。来月まで待ってください。必ず払います」
電話を切ったあと、お父さんは長く息を吐いた。
翌朝、私の枕元に五百円玉が置いてあった。
遠足のおやつ代だった。
返そうとしても、お父さんは受け取らなかった。
「三百円までだよ」
「残りはジュース代にでもしなよ」
「水筒があるから大丈夫」
「じゃあ、貯金しちゃえ」
お父さんは笑った。その日の弁当には卵焼きが三つも入っていた。お父さんの昼ごはんは何だったのだろうと、いまでも考える。
※※※
髪を結ぶのもお父さんの仕事になった。
最初は櫛の歯を地肌に当て、私が肩をすくめるたびに「悪い」と謝った。左右の結び目は高さが違い、短い毛があちこちから飛び出した。
運動会の朝、お父さんは夜勤明けだった。目の下が黒かった。
「夜勤だったんだよね?昼まで寝てていいよ。徒競走は午後だし、後ろからでも見えると思うよ?」
お父さんは折り畳み椅子を肩へ担いだ。
「俺は、美咲が頑張るのを正面から見たいんだ。眠くなったら椅子で寝るから心配するな」
お父さんは折り畳み椅子を担ぎ、一緒に学校へと向かった。
徒競走で私は転んだ。
膝を擦りむき、後ろを走っていた子にも抜かれた。土の上に手をついたまま、もう走りたくないと思った。
「美咲、立て!」
お父さんの声がした。
「最後まで見てるぞ!」
立ち上がった。泣きながら走った。順位は最下位だった。
ゴールすると、お父さんが柵を越えそうな勢いで手を伸ばした。係の先生に止められ、何度も頭を下げていた。
「あんなに早く来てくれたのに、私、ビリだった。意味なかったね」
お父さんは泥のついた私の手を握った。
「意味はあったよ。転んだまま終わらず、自分で立っただろ。偉かったぞ、美咲。俺はお前が誇らしいよ」
帰宅すると、お父さんは玄関で眠っていた。靴も脱がず、壁にもたれ、折り畳み椅子を抱いたままだった。
私は毛布をかけた。
お父さんの額には汗が浮かんでいた。熱を測ると三十八度を超えていた。
発熱していたのに、私のために運動会に来てくれたのだ。
台所でお粥を作った。米と水の加減が分からず、鍋の中は糊のようになった。お父さんは目を覚ますと全部食べた。
「うまい!美咲は料理上手だな!」
「嘘だよ。なんだか固かったし、しょっぱかったもん」
「初めて俺が作った卵焼きよりはうまい」
「あれ、炭だったよ」
「じゃあ、俺より、ずっとうまい。やっぱり美咲は料理上手だ。天才だ!」
お父さんが笑い、私も笑った。
※※※
母がいない穴は、なくならなかった。
友達の母親が髪を編んでいるのを見ると羨ましかった。
初めて生理が来た日は、お父さんに言えず、トイレットペーパーを何重にも折って下着に挟んだ。夜になって気づいたお父さんは、何も聞かずドラッグストアへ走った。
買い物袋には、生理用品が五種類も入っていた。
「よく分からなかったから、店員さんに聞いた。気づいてやれなくてごめんな?」
「ううん。お父さん、ありがとう……」
「父親だからな。当たり前だろう」
そう答えたお父さんを見て、私は泣きそうになった。
欠けているものを数えるのはやめようと思った。
お父さんと私の家は、誰かが抜けた残りではない。二人で作った家だった。
※※※
中学へ上がる頃には、私が夕飯を作る日も増えた。
お父さんは味噌汁をすすり、すこしだけ難しい顔をした。
「味が薄いな……」
「健康のためだよ」
生姜焼きを出したときも、眉をハの字にしていた。
「肉も薄いなあ……」
「家計のためだから、しょうがないよ」
食卓の向かいで笑うお父さんが好きだった。
私は大人になったら働き、お父さんに楽をさせてあげるつもりだった。
温泉へ連れていってあげる。新しい車を買ってあげる。お父さんの好きな釣りへ毎週行ってもらう。
本気でそう思っていた。
※※※
中学二年の秋、駅前のパン屋から出てきた女に名前を呼ばれた。
はじめは知らない人だと思った。
「美咲」
もう一度呼ばれたとき、昔の写真が頭に浮かんだ。
泣くと片方だけ上がる眉。
ケバケバしい赤い爪。
母だった。
母は私を抱きしめた。香水の奥に、あの除光液と似た甘い匂いがした。
「会いたかった」
私は腕を下ろしたまま、ただただ人形のように抱かれていた。
※※※
喫茶店へ入り、母は注文した紅茶に手もつけず、ハンカチを握っていた。
「ごめんね。何から話せばいいか、ずっと考えていたの。毎日、あなたのことを考えてた。朝起きたときも、夜眠る前も。学校へ上がっただろうな、背が伸びただろうなって」
「毎日考えてたのに、どうして七年も会いに来なかったの?」
私は不思議で仕方なかった。
「会えなかったのよ」
「なんで?住所、変わってないよ?」
母の眉が片方だけ上がった。
「お父さんが怖かったの。私が顔を出したら、怒鳴られると思った。あなたを連れていかれるんじゃないかって疑われるし、もっと傷つけるかもしれないでしょう?」
「手紙ぐらい出せたんじゃない?」
「何度も書いたわ。でも、出せなかった。あなたがお父さんと落ち着いて暮らしているなら、私が入らないほうが幸せかもしれないと思って」
「誕生日も?」
「毎年覚えてた。ケーキも買ったのよ。一人で祝った年もあった」
「私、お母さんは死んじゃったのかと思ってた」
母は口元を押さえ、涙をこぼした。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。あの頃の私は、自分のことしか考えられなかった。苦しくて、逃げることしかできなかったの。あなたも連れていけばよかった」
……何を言っているんだ?この人は?
「連れていけばよかったって、誰から?」
「え?」
「お父さんから、私を奪えばよかったってこと?」
母は言葉に詰まった。
「そ、そういう意味じゃないの。私はただ、あなたを置いてきたことを——」
「お父さん、朝早く起きて、私の髪を結んでくれた。夜まで働いて、帰ってから御飯を作ってくれた。熱があっても運動会に来てくれた。お母さんが一人でケーキを食べてた日に、お父さんはずっと私を育ててくれてた」
「分かってる。あの人には感謝してる」
母がお父さんを『あの人』と呼んだ。
私はテーブルの下で拳を握った。
「感謝してるなら、どうして会いに行かないの?」
「今さら、何を言っても許してもらえないでしょう?」
「許してもらえないなら謝らないの?」
母はしばらく黙り、私の手へ自分の手を重ねた。
「あなたは、お父さんに似たね。本当に、真っすぐで、優しい子になった。こんな立派な子に育ってくれて、お母さん、嬉しい」
話をそらされた。
何から何まで、筋の通らない話だった。
七年間、誕生日も、入学式も、運動会もあった。住所も変わっていない。でも、手紙一枚届かなかった。
それなのに私を大切に思っていた?本当にそんなことあり得るのかな?
七歳の夜から塞がらなかった穴が、じくじくと痛んだ。
「お父さんには、まだ内緒にしてくれる?」
母は両手で私の手を包んだ。
「ちゃんと話せる日が来たら、私から話すから。あなたに嘘をつかせたいわけじゃないの。急に全部を話したら、お父さんも混乱するでしょう。少しだけ時間をちょうだい。その間、失った七年を少しずつ返させて。母親らしいことを、ほんの少しでいいからさせてほしいの」
「少しって、いつまで?」
「長くは待たせない。約束するから」
「約束?お父さんとの『ずっと一緒に』って約束みたいに、その約束も守ってくれるの?」
母は目を伏せた。
「お父さんは、約束を守る人なのね」
母の言い方には、小さな棘を感じた。
だけど母の手は温かく、私はその手を振りほどけなかった。
※※※
帰宅すると、お父さんが台所で鯖を焼いていた。
「遅かったな」
「て、テストが近かったから、図書室で勉強してたんだ……」
「そうか。電話くらいしてくれよ……。心配したぞ?」
「ごめんね。次からは気をつけるよ」
お父さんは皿へ大根おろしを添えた。私の分だけ多かった。
食卓につき、箸を持った。手から母の香水が匂った。
お父さんに気づかれないよう、膝の上で何度も指をこすった。
その日、私は初めてお父さんを裏切った。
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