手塩にかけて育てた教え子が婚約者と結婚していたので、二人に与えてきたものをすべて引き上げることにしました
1.スピーカーから流れた「新婚」
秋の三連休に予定していた結婚式の打ち合わせをするため、両家の家族が市内のホテルに集まった。私と黒川拓海は八年間付き合っており、テーブルには式場のパンフレットが何冊も並んでいた。親たちが招待客について話し合う横で、拓海はスマートフォンを個室のBluetoothスピーカーにつなぎ、披露宴で流す予定の曲を再生していた。
一曲目が終わった直後、拓海のスマートフォンに音声メッセージが届いた。まだスピーカーと接続されていることを忘れていたのか、彼は無意識に再生ボタンを押した。
「拓海、いつ帰ってくるの? 新婚なのに、今夜も一人で寝ろっていうの?」
若い女の甘い声が、個室いっぱいに響き渡った。誰もが口を閉ざし、拓海は血の気を失った顔で慌てて接続を切った。けれど「新婚」という言葉は、すでにそこにいた全員の耳に届いていた。
私は、その声を知っていた。
水野奈緒。四年間、私が手塩にかけて育ててきた教え子であり、かつては誰よりも信頼していた相手だった。
最初に我に返ったのは、拓海の母親だった。箸を置き、息子をまっすぐ見つめる。
「どういうことなの?」
拓海はスマートフォンを握ったまま、家族の顔を順に見回した。最後に私へ視線を向けたが、謝罪の言葉はなかった。私がこの場で騒ぎ出すかどうかを見極めようとしているように見えた。
私は式場のパンフレットを閉じ、静かに脇へ押しやった。
「今すぐ奈緒と別れて。きれいに関係を切るなら、今のことは聞かなかったことにする」
拓海は数秒黙り込み、やがて張りつめていた肩から力を抜いた。
「それは無理だ」
「どういう意味?」
「俺と奈緒は、もう婚姻届を出している。法的には、あいつが俺の妻だ」
テーブルのあちこちから、息をのむ音が聞こえた。八年間隣にいた男を見つめながらも、目の前にいるのが「他人の夫」だとは、すぐには理解できなかった。
「いつ?」
「二か月ほど前」
その頃、私は海外の振付研修プログラムに参加していた。出発の日、拓海は空港まで見送りに来て、帰国したら一緒に結婚式の準備を進めようと抱きしめてくれた。私が日本を離れて間もなく、彼は私の教え子と結婚していたのだ。
「来月の結婚式は?」
拓海は、そんなことを聞く意味が分からないとでもいうように眉をひそめた。
「予定どおりやればいい。奈緒は、おまえが帰ってきたら離婚届に署名すると約束している」
「奈緒と離婚してから、私と婚姻届を出すつもりなの?」
「ほかに何があるんだよ」
拓海はスマートフォンを伏せてテーブルに置き、次第に当然のことを説明するような口調になった。
「奈緒はあの頃、知らない男につきまとわれていた。住んでいたところも安全じゃなかった。あいつのことを気にかけてやってくれと言ったのは清香だろ。それなのに半年も日本を離れたから、俺が代わりに面倒を見たんだ」
「面倒を見た結果が、結婚?」
「婚姻届を用意していたのは奈緒だ。成人の証人二人の署名まで、あいつが先にそろえていた。あの夜は俺も酒を飲んでいて、書類を出された勢いで署名した」
「それで翌日、市役所に出したの?」
「もう済んだことだろ。何度聞いたところで、何が変わるんだ」
拓海の顔には、露骨な苛立ちが浮かんでいた。理不尽なことを言っているのは私のほうだと、本気で思っているらしい。
「奈緒は離婚すると言っている。俺だって、おまえとの結婚式を中止していない。予定どおり進めれば、誰も困らないだろ」
その言葉で、彼がなぜこれほど平然としていられるのか分かった。八年も自分を愛してきた私が、婚姻届一枚を理由に離れていくはずがないと信じているのだ。
彼の計画では、私が不在のあいだは奈緒が自分に寄り添い、帰国後は私が結婚式を挙げ、彼の仕事を支え続ける。二人の女がどう感じるかなど、最初から計算に入っていなかった。
私は椅子の背にかけていたコートを取り、立ち上がった。
「結婚式は中止する」
拓海が勢いよく顔を上げた。
「柏木清香、親の前で意地を張るな」
「既婚者と結婚式を挙げるつもりはない」
それ以上、誰の顔も見なかった。私はそのまま個室を出た。
2.法的な妻
拓海と暮らしていた古いアパートに戻った頃には、午後十時を過ぎていた。築年数の経った木造アパートで、間取りは二DKだった。付き合い始めた頃の私たちには、この家賃が精いっぱいだったが、仕事が軌道に乗ってからも思い出を捨てきれず、ずっと住み続けていた。
部屋の家具も、壁に飾った写真も、練習用に置いた小さな鏡も、何もなかった二人が少しずつ生活を築いた証だった。スーツケースを開けたところで玄関の鍵が回り、拓海が奈緒を連れて入ってきた。
奈緒は地味な色のワンピースを着て、化粧もしていなかった。私と目が合うとすぐにうつむき、ひどく怯えているような顔をした。
「先生、ごめんなさい」
奈緒は私の前まで来ると、その場に膝をつこうとした。私は一歩下がり、触れられる前に止めた。
「立って」
奈緒の目が、見る間に赤くなる。
「明日、拓海と一緒に離婚届を出します。来月の結婚式には、絶対に迷惑をかけません」
「あなたが離婚届に署名しないかぎり、拓海が一方的に協議離婚を成立させることはできない。話し合いで決まらなければ、家庭裁判所に離婚調停を申し立てることになる」
奈緒は唇を動かしたものの、何も答えなかった。
今、彼女は「拓海」と呼んだ。以前の奈緒は、私の前では必ず「黒川さん」と呼んでいた。いつの間にか、ためらいなく名前で呼べる関係になっていたらしい。
拓海が奈緒を自分の後ろへかばった。
「離婚するって言っているだろ。どうしてそこまで追い詰めるんだ」
「事実を言っただけよ」
「清香は、こんなふうに人を責める女じゃなかった」
拓海は奈緒へ視線を落とすと、すぐに声を柔らかくした。
「怖がらなくていい。今はまだ、俺たちは法的な夫婦なんだから」
奈緒は彼の袖をつかみ、ようやく守ってくれる相手を見つけたように寄り添った。その光景を見ていると、八年間の自分が滑稽に思えた。
私はかつてコンテンポラリーダンサーとして活動し、舞台を退いた後は完全予約制のダンススタジオを開いた。ダンスだけでなく、姿勢改善やボディメイクのプライベートレッスンも扱っている。奈緒は開業当初から通っていた生徒で、当時もっとも生活に余裕がなかった一人だった。
奈緒はダンス専門学校を出たばかりで、アルバイトの収入も安定していなかった。受講料を期限までに払えないことが続いたため、私は一部を免除し、初級クラスの補助や備品の準備を一回ごとの業務委託として頼むようになった。
固定の勤務時間もなく、依頼を受けるかどうかは奈緒自身が選べた。毎回の業務が終わるたび、あらかじめ決めた金額を支払っていたため、スタジオの従業員ではなかった。
奈緒が借りていた部屋で大きな雨漏りが起きたとき、次の住まいが見つかるまで、アパートの和室を使わせたこともある。寝るためだけに戻り、私と拓海の生活を邪魔しないと、彼女は何度も約束した。
半年前に私が海外へ行く頃には、奈緒も引っ越し費用をためていた。女性専用アパートを一緒に探し、賃貸契約を終えるところまで確認してから出国した。
あの部屋から出ていった彼女が、今度は拓海の人生に入り込んだとは思わなかった。
「つきまとわれていたっていう話、本当なの?」
奈緒の肩がわずかにこわばった。拓海はすぐに彼女の前へ立ち、表情を隠す。
「本当に決まっているだろ。一人で帰るのが怖いっていうのに、放っておけるわけがない」
「警察には相談した?」
「実際に何かされたわけじゃない。警察に何を言えっていうんだ」
「アパートの防犯カメラは?」
拓海の顔が険しくなった。
「奈緒が嘘をついていると言いたいのか?」
奈緒が彼の袖を軽く引いた。
「もういいよ。全部、私が悪いんだから。先生に信じてもらえないのも仕方ないよ」
私はそれ以上聞かなかった。拓海が彼女を守るように立った時点で、私にとって真実はもう重要ではなかった。
拓海は奈緒をソファに座らせ、膝へブランケットをかけた。八年間一緒にいても、これほど細やかに誰かを気遣う彼を見たことはなかった。
「奈緒は今日、かなり動揺している。俺が送っていく」
「どこへ?」
「今借りている部屋だ」
玄関まで行った拓海が、もう一度振り返った。
「今夜は少し頭を冷やせ。結婚式のことは、もう大勢に知らせている。清香一人が中止すると言って、簡単に取り消せるものじゃない」
ドアが閉まった。誰もいなくなった部屋で、私はテーブルに残された結婚式場のパンフレットを見つめた。
そして、すべてごみ袋へ入れた。
3.小判
荷物をまとめ始めてしばらくすると、部屋が妙に静かなことに気づいた。いつもなら私が帰っただけで、犬の小判がスーツケースの周りを走り回る。それなのにリビングにも寝室にもベランダにも姿がなく、首輪さえ見つからなかった。
小判は、拓海と付き合い始めたばかりの頃に保護した雑種犬だ。まともな夕食さえ惜しんでいた時期なのに、二人で迷わず動物病院へ連れていった。昔の金貨と同じ名前をつけたのは、少しずつ積み上げた生活の重みを忘れないためだった。
私はすぐに拓海へ電話をかけた。出たのは奈緒だった。
「先生、拓海は今、運転しています」
「小判はどこ?」
向こうが一瞬、静かになった。
「私、犬の毛に少しアレルギーがあるんです。ずっとリビングを歩き回っていたから、拓海が外に出しただけで……」
「リードもつけずに?」
「この近所で長く暮らしている犬なんですよね。自分で帰ってこられると思います」
私は電話を切り、小判の首輪につけていた位置情報端末を確認した。反応はアパートの駐車場付近で止まっている。コートをつかんで階段を駆け下りると、管理室の前に小判がいた。
一人の男の足元に伏せ、雨で頭の毛を濡らしている。私を見つけた途端、尾をちぎれそうなほど振った。私はその場にしゃがみ込み、小判を強く抱きしめた。
顔を湿った毛に埋めると、一晩こらえていたものが崩れた。声を抑えることもできず、涙が次々と落ちた。
男は何も急かさず、清潔なタオルをそっと差し出した。
「駐車場の出口で見つけました。道路へ出ようとしていたので、首輪の連絡先を確認したんです」
涙を拭い、顔を上げる。
橘蓮司。このアパートを管理する不動産会社の担当者だった。家賃の手続きや設備修理の際に何度か会っただけで、近隣の物件を所有する会社の経営にも関わっているとは知らなかった。
「ありがとうございます」
「けがはありません。少し雨に濡れただけです」
橘さんは、私の背後にある古いアパートを見上げた。
「何かありましたか?」
私は小判の耳をなでたまま、答えなかった。しばらくして立ち上がり、帰国後初めて、自分のためだけの決断をした。
「この部屋を解約したいんです」
旧居の契約名義は私で、拓海は同居人として届け出ていた。契約上、退去する一か月前までに解約を通知する必要がある。
橘さんは事情を尋ねず、必要な手続きだけを説明した。
「今日付けで解約通知を受け付けます。契約終了日までの家賃と、退去時の立ち会いは必要になります」
「構いません」
「管理会社が一時的な住み替え用に確保している短期物件があります。今夜はそこを使ってください。正式な賃貸契約は明日で大丈夫です」
紹介された部屋は通りの向かいにある低層の鉄筋コンクリート造で、家賃は少し高かったが、無理なく払える範囲だった。リビングには、ダンスの練習にも使える大きな鏡がある。
私は迷わなかった。
「お願いします」
その夜、持ち出したのは衣類と証明書類、仕事の資料、それに小判だけだった。翌日、管理会社と新しい賃貸借契約を結び、拓海にも旧居の契約が一か月後に終了することを連絡した。
二人で暮らしていた部屋に残る物は、一つも持っていかなかった。
4.愛妻弁当
新しい部屋は、古いアパートよりずっと静かだった。小判を洗い、久しぶりに鏡の前で一曲踊ってから、ベッドの端に座ってスマートフォンを開いた。
奈緒がSNSのストーリーズを更新していた。狭いキッチンに立ち、普段は料理をしない拓海が野菜を洗っている。その写真には、短い文章が添えられていた。
『夫に大切にされるって、こんなに幸せなんだ』
数年前、月経痛で起き上がれなくなった日のことを思い出した。せめておかゆを作ってほしいと頼んだ私に、拓海は料理などできないと言い、デリバリーを注文した。
できなかったわけではない。
私のためには、したくなかっただけだ。
私は奈緒のフォローを外し、そのままアカウントをブロックした。すぐに拓海から電話がかかってきたが、出なかった。代わりにメッセージが届く。
『奈緒の投稿に深い意味はない。あいつは繊細なのに、急にブロックされたせいでずっと泣いている。俺たちの問題を奈緒にぶつけるな。今すぐ解除しろ』
最後まで読み、拓海の連絡先もブロックした。
翌朝、いつもどおりスタジオへ行くと、奈緒が入口で待っていた。丁寧に包まれた弁当箱を抱え、私を見ると、以前と同じ素直そうな笑みを浮かべた。
「先生、これ、拓海が作ったお弁当です。少しでも機嫌を直してほしいって」
ふたを開けると、ご飯もおかずも美しく詰められ、卵焼きまでハート形になっていた。一瞬、本当に私のために作ったのだと思いそうになったが、奈緒の手元には同じ弁当袋がもう一つあった。
「持って帰って」
奈緒の笑顔が固まった。
「せめて、一口だけでも食べてもらえませんか」
「今日をもって、今後のアシスタント業務は依頼しません。すでに完了している分の報酬は、契約どおりすべて精算します」
奈緒の顔から血の気が引いた。
「今まで先生にたくさん助けてもらったことも、失望させたことも分かっています。でも、ここは私が戻れる唯一の場所なんです」
「あなたはもう、自分で新しい家庭を選んだでしょう」
私は用意していた精算書類を差し出した。
「ここは、選んだことの結果から逃げるための場所ではない」
ほかの受講生が次々にやってきた。人に見られることを恐れたのか、奈緒は弁当を私の手へ押しつけようとした。
「お願いです。拓海の気持ちだけでも受け取ってください」
「それは、あなたのための弁当よ」
奈緒の指が震え、弁当箱が床に落ちた。中身が広がった直後、入口から慌ただしい足音がした。拓海が受講生の間を押し分け、奈緒のもとへ駆け寄る。
けががないことを確かめると、彼は奈緒の手についたソースを拭った。
「来なくていいって言っただろ」
「今のおまえなら、ここで嫌な思いをしてまで教わる必要なんてない」
奈緒はうつむいた。
「先生に謝りたくて、拓海が作ってくれたお弁当を持ってきただけなの」
「その弁当は、もともと奈緒に作ったものだ」
拓海が私を見る。
「清香はいつも外で済ませている。弁当一つくらい、どうでもいいだろ」
胸の奥を、細い針で刺されたような感覚がした。激しい痛みではなかったが、最後まで残っていた期待を消すには十分だった。
拓海は私の前まで来た。そこに後ろめたさは少しもなかった。
「ここまで育てた生徒を、私情で追い出すのか。それが教師としてのやり方なのか?」
「奈緒は従業員ではありません。業務委託契約に基づき、完了した分の報酬は全額支払います」
「今すぐ謝れ」
「断る」
拓海が私の肩を強く押した。足元に散らばっていた料理を踏み、私は後ろへ倒れかけた。近くの受講生が支えてくれたため鏡にはぶつからずに済んだが、拓海は私を一度も見なかった。
5.失われた信用
スタジオの休憩スペースで妻を待っていた男が、読んでいた雑誌を閉じた。佐伯隆之。総合不動産開発会社の代表で、妻の佐伯美月は二年前から私の姿勢改善のプライベートレッスンを受けている。
美月さんは私のそばへ来て、けががないことを確認してから拓海を見た。
「あなたと、その女性はどういう関係ですか?」
拓海は反射的に奈緒の肩を抱いた。
「俺は、奈緒の夫です」
何度も人前で口にしてきたような、迷いのない答えだった。美月さんは次に私を指す。
「では、清香先生とは?」
拓海は私の目を見た瞬間、わずかに表情をこわばらせた。
「関係ありません」
離れると決めていても、その言葉を聞けば胸はまだ痛んだ。八年間の感情が、一晩ですべて消えるはずはない。それでも痛みがあることと、戻ることは別だった。
美月さんは夫へ振り返った。
「隆之、聞いた?」
「ああ」
佐伯社長は立ち上がった。
「青寧ベイサイドホテルの客室フロア内装改修工事は、まだ施工会社を最終決定していません。私生活そのものは審査の対象ではありませんが、あなたは今、取引先の長期顧客が経営する場所で、他人に手を上げました。目撃者も映像もあります」
拓海の顔色が変わった。
「佐伯社長、これは仕事とは関係のない問題です」
「会社代表の行動が、工事の信用やコンプライアンス上のリスクにつながるかどうかは、取引先にとって十分に仕事上の問題です。担当部署へ報告し、再審査します」
「うちは、この案件のために何か月も準備してきたんです」
「それは御社の経営判断でしょう」
審査が終わるまで、拓海の会社は最終選定から一時的に外されることになった。佐伯社長はそれだけ告げ、美月さんとともにスタジオを出ていった。
数日後、審査部門から正式な通知が届き、店舗やクリニック、宿泊施設の内装設計施工を手がける拓海の会社は、候補から外された。
まもなく、拓海は奈緒を連れて再びスタジオへ現れた。私の手首をつかみ、廊下の端へ引っ張ろうとする。
「美月さんと親しいんだろ。俺のことを説明してくれ」
「何を説明するの?」
「奈緒との結婚は一時的なものだって。離婚届に署名してもらえれば、俺たちの結婚式は予定どおりできる」
私は彼の手を振り払った。
「私たちは、今どういう関係?」
拓海が一瞬、言葉に詰まった。
「恋人に決まっているだろ。来月には結婚式を挙げる予定だった」
「あなたは、もう別の人と結婚している」
「奈緒が署名すれば解決する」
「私は不倫相手になるつもりはない」
拓海の表情が険しくなる。
「腹を立てているから、そんなことを言っているだけだ。この案件が取れたら、もっと広い部屋を買える。清香だって、自分の練習室を欲しがっていただろ」
「これ以上ここにいるなら、警察を呼ぶ」
突然、奈緒が胸を押さえ、苦しそうに息をし始めた。彼女に喘息があることは知っている。それもあって、以前は人一倍気にかけていた。
拓海がすぐに身体を支えた。
「吸入薬は?」
奈緒はバッグから薬を取り出した。呼吸が落ち着くと、拓海の肩にもたれかかる。
「先生は悪くないよ。責めないであげて」
私は出口を指した。
「連れて帰って」
奈緒を支えて通り過ぎるとき、拓海は冷たい声を落とした。
「俺の会社と人脈がなければ、こんな小さなスタジオのままだ」
誰のおかげでその人脈につながれたのか、彼はもう忘れていた。
6.切り取られた真実
拓海が内装会社を立ち上げた頃、資金も顧客もほとんどなかった。私のスタジオには、経営者や医師、弁護士、司会者などが完全予約制で通っている。仕事ぶりを信頼してくれた彼女たちが、自宅やクリニック、店舗の改装を考える知人へ拓海を紹介してくれた。
私は見返りを求めず、商談を兼ねた会食でも、彼のために場をつないできた。美月さんから初めて別れたほうがいいと忠告されたのも、半年前の会食だった。
酒が苦手な私は、拓海に助けを求めた。しかし彼は見て見ぬふりをし、最後には美月さんが代わりに断ってくれた。帰り道、拓海は彼女のことを「余計なことをする」と言った。
それでも当時の私は、仕事の重圧で余裕がないだけだとかばった。周囲にはとっくに見えていたものを、私だけが認めようとしなかったのだ。
その日の夕方、奈緒はショート動画をSNSへ投稿した。映っていたのは、私が弁当を断る場面と、弁当箱が床へ落ちるところだけだった。拓海が私を押した場面も、奈緒自身が弁当は自分のために作られたものだと認めた会話も、きれいに切り取られている。
投稿には、一文だけ添えられていた。
『これからは、もっと自分を大切にしたい』
コメントは急速に増えた。教師の立場を利用して生徒を追い詰めたと非難する者もいれば、スタジオ名や地図情報、予約ページを拡散し、低評価レビューを書こうと呼びかける者まで現れた。
夜になると、拓海が知らない番号から電話をかけてきた。
「動画は見ただろ?」
私はドライヤーをつけ、スマートフォンをテーブルへ置いた。
「奈緒に公の場で謝って、佐伯社長へ連絡してくれれば、動画を消させる」
返事はしなかった。
「清香、どうしてここまで話をこじらせるんだ。俺と別れた後、簡単にやり直せると思っているのか?」
ドライヤーを止めた。
「今の要求は録音しました。今後は弁護士を通してください」
拓海が黙った隙に電話を切った。
スタジオの共用スペースには、レッスンの振り返りと安全管理を目的とした固定カメラがある。受講規約にも録画の可能性と利用目的を明記し、入口にも撮影中であることを掲示していた。
私は元映像を弁護士とSNS運営事務局の異議申立て窓口へ提出した。公開範囲について弁護士の確認を受けたうえで、事実を証明するために必要な部分だけを公表した。無関係な受講生の顔や氏名、声は、個人を識別できないよう処理した。
映像には、奈緒が弁当を無理に押しつけたこと、拓海が私を押したこと、弁当が奈緒のために作られたと本人が認めたことが、はっきり残っていた。
翌朝には、コメントの流れが一変していた。奈緒は自分の投稿を削除したが、すでに多くの転載が残っている。一方でスタジオへの問い合わせが急増し、ダンスと姿勢改善の予約は数か月先まで埋まった。
一晩で有名になったわけではない。
これまで私が何を積み重ねてきたのかを、ようやく見てもらえただけだった。
7.誕生日の宴
一か月半後、美月さんの誕生日会へ招かれた。会場は佐伯家が経営する会員制レストランで、招待客の多くは夫妻の友人や仕事関係者だった。蓮司も姉を手伝うため、会場内を忙しく動いていた。
拓海と奈緒の名前は招待者名簿にない。それでも二人は、以前の取引先に頼み込み、その人物の同伴者として会場に入ったらしい。
拓海は、前に会ったときより明らかにやつれていた。ホテルの客室フロア改修工事から外された後、商談中だった複数の顧客が契約検討を止め、銀行も会社の融資条件を見直したという。
すでに締結した契約は続いていたが、新規案件がほとんど入らなくなった。小規模な会社にとって、すぐに倒産するよりも、先の見えない資金繰りのほうが苦しかった。
私はグラスを手に場所を移ろうとしたが、拓海が進路をふさいだ。
「いつまで俺に嫌がらせをするつもりだ?」
「どいて」
「あの動画のせいで、会社が止まりかけている。清香が一言説明すれば済むのに、どうして俺を追い詰めるんだ」
「事実を公開したのは私。私を押したのはあなたよ」
拓海は奥歯をかみしめた。
「今すぐ一緒に帰れ。式場はまだ正式にキャンセルしていない。清香がその気になれば、予定どおりできる」
私は隣に立つ奈緒を見た。
「離婚はしたの?」
奈緒は拓海の腕に自分の腕を絡めた。
「明日、離婚届を出します」
「一か月半前にも同じことを言ったでしょう」
奈緒は酒に一度も手をつけず、手元にはノンアルコールの飲み物が置かれていた。椅子の横に置いたバッグには、マタニティマークが下がっている。
「妊娠したのね」
奈緒の笑顔が固まり、拓海がすぐに前へ出た。
「奈緒のことを調べたのか?」
「調べるまでもないわ」
私の視線を追った奈緒が、慌ててバッグを身体の後ろへ隠した。その反応だけで十分だった。
拓海は声を落とし、また自分にとって都合のいい解決策を思いついた顔をした。
「清香は、出産で仕事を中断したくないと言っていたよな。奈緒が産んだ後は、三人で育てればいい」
「私に、あなたたちの子どもを育てろというの?」
「清香には安定した収入もスタジオもある。おまえのもとで育てるほうが、いい教育を受けさせられる」
「奈緒はどうするの?」
「まだ若い。子どもを産んだ後で、人生をやり直せる」
奈緒が勢いよく彼を見た。それでも拓海は、私から目をそらさない。
「清香が許してくれれば、誰も困らない」
私はグラスの赤ワインを、拓海の顔へ浴びせた。
「裏切りを助け合いと呼んで、その後始末まで私に押しつけるつもり?」
赤い雫が、拓海のあごから落ちた。
「気持ち悪い」
拓海が逆上し、私の手首をつかもうとした。蓮司が間へ入り、その手を静かに遮った。
「本人が帰ってほしいと言っています」
拓海は顔のワインを拭った。
「おまえは誰だ?」
「会場責任者の家族で、今夜の運営を手伝っている者です」
蓮司がレストランのスタッフへ合図を送った。
「これ以上、招待客につきまとうなら、退店していただきます」
拓海は彼を数秒見つめ、ようやく思い出したように眉を寄せた。
「古いアパートの管理会社にいた男か?」
「そうです」
「どうして清香のそばにいる?」
「あなたには関係ありません」
スタッフが来て、二人を会場の外へ案内した。美月さんは私たちのところへ来ると、蓮司と私を交互に見る。
「改めて紹介しようと思っていたけど、もう必要なさそうね」
私と蓮司は、同時に視線をそらした。
8.二人の結婚
レストランを出ると、拓海は奈緒の腕をつかみ、駐車場へ引っ張った。
「今すぐ離婚届に署名しろ」
奈緒は手を振り払った。
「嫌よ」
拓海は信じられないものを見るように彼女を見た。
「清香が帰ったら離婚すると約束しただろ」
「あなたが先生を諦めたと思ったから、そう言ったの」
奈緒は腹をかばうように手を添え、これまで見せていた弱々しさを消した。
「今はあなたの子どもを妊娠している。どうして私が先生に譲らなきゃいけないの?」
「一時的な結婚だと話したはずだ」
「婚姻届に『一時的』なんて書く欄はないでしょう」
拓海が一歩後ろへ下がった。そのときになってようやく、奈緒が最初から身を引く気などなかったと悟ったらしい。
「最初から狙っていたのか?」
「あなたは大人でしょう。婚姻届に署名したのも、私と暮らしたのも、自分で決めたことよ」
「おまえがつきまとわれていなければ、俺は会いに行かなかった」
奈緒が笑った。
「あの人たちは、私がお金を払って頼んだの」
拓海の動きが止まった。
「何だと?」
「帰り道に何度か姿を見せてもらって、そのたびにあなたへ電話した。そうしたら、すぐに飛んできてくれたでしょう」
奈緒はあごを上げた。
「自分から一線を越えたのに、どうして私のせいにするの?」
拓海の顔が青ざめていく。
「その子は諦めろ」
「絶対に嫌」
「子どもさえいなければ、清香とやり直せる」
奈緒はバッグから折り畳まれた検査結果を出した。
「書斎に隠していた検査報告、前から見ていたの。自然妊娠の可能性はかなり低いって書いてあった。この子は、滅多にない機会かもしれない」
拓海が奪おうとしたが、奈緒はすぐに引いた。
「よく考えて。子どもを失っても、先生は戻ってこないから」
拓海は、初めて目の前の女を見たような顔をした。
「狂っている」
彼は車に乗り込み、奈緒を一人で駐車場に残した。
9.戻れない部屋
拓海は、かつて二人で暮らしていたアパートへ向かった。一か月前に契約が終了するまで、彼は奈緒の部屋で生活しており、管理会社から求められた旧居の鍵も期限どおり返却していた。それでも、昔の鍵を使えば入れると思ったらしい。
当然、鍵は回らなかった。物音に気づいた新しい入居者が出てきて、私の契約はすでに終了し、退去後の修繕と清掃も終わっていると告げた。
拓海は人を使い、私の新しい住所を探した。私が同じ通りの向かいに住んでいることには気づかなかった。
翌朝、スタジオの入口に彼がいた。壁にもたれて一晩を過ごしたのか、スーツにはしわが寄り、あごには無精ひげが生えている。私の足音に気づくと目を開け、なぜか嬉しそうに笑った。
「清香、悪かった。俺が間違っていた」
私はカードキーでドアを開けた。
「どいて」
「奈緒とは離婚する。もう二度と会わない」
「あなたたち夫婦の問題でしょう」
「もう一度、やり直してくれないか?」
拓海は私の後を追った。
「今はどこに住んでいる? 住所を教えてくれ。荷物も俺が運び直すから」
私は足を止めて振り返った。
「私は、もう会いたくないとはっきり伝えました。今後もスタジオで待ち伏せしたり、後をつけたり、番号を変えて何度も連絡したりするなら、すべて記録して警察へ相談します」
拓海が手を伸ばしたため、私は身体を引いた。
「触らないで」
彼の手が宙で止まる。
「まだ怒っているだけだ。きれいにして、落ち着いたらまた来る」
拒絶されるのを恐れるように、拓海は返事を待たず、足早に去っていった。
その夜、橘さんから連絡があった。拓海が以前の部屋をもう一度借りたいと言い、今の入居者には転居費用を負担すると申し出ているらしい。橘さんは会社として判断する前に、私が気にするかどうかを尋ねた。
「橘さんの会社の物件です。通常の手続きで決めてください」
「また同じ建物へ戻れば、あなたにつきまとうかもしれません」
「私の住所は知られていません」
窓の向こうに、古いアパートの暗い輪郭が見えた。
「それに、あの部屋へ戻っても、何も元には戻りません」
最終的に拓海は、現入居者へかなりの転居補償を払い、長期間の家賃も前払いした。会社に残っていた運転資金の大半を使い、温度を失った部屋へ戻ったのだ。
10.終わらない関係
奈緒は自分の部屋で二日待ったが、拓海が戻らないため旧居を訪ねた。呼び鈴が鳴ったとき、拓海は私が来たと思ったらしい。期待に満ちた顔でドアを開け、奈緒を見ると、すぐに表情を消した。
「何をしに来た?」
「夫を迎えに来たの」
「帰れ」
奈緒は、元の位置に近づけるよう並べ直された家具を見回した。
「部屋を前と同じにすれば、先生が帰ってくると思っているの?」
「おまえには関係ない」
「今のあなたには、古い部屋と倒産寸前の会社しかない。先生が戻る理由なんて、どこにあるの?」
拓海の顔がゆがんだ。彼は奈緒の首に手をかけ、ドアの横へ押しつけた。
「おまえさえいなければ、清香とこんなことにはならなかった」
「婚姻届に署名したのは、あなたでしょ……」
「おまえが消えれば、全部元に戻る」
奈緒が必死に腕を振りほどこうとした。ちょうど上の階へ配達に来た宅配員が異変に気づき、拓海を引き離して通報した。
奈緒は病院で診察を受け、診断書を取得した。拓海は傷害の疑いで警察から事情聴取を受けた。警察が扱うのは暴力行為であり、離婚そのものを代わりに進めてくれるわけではない。
弁護士から、奈緒が離婚届への署名を拒むなら、家庭裁判所へ夫婦関係調整調停を申し立てるしかないと説明された。別居中の婚姻費用や、子どもが生まれた後の親権、養育費、慰謝料についても、調停や訴訟の中で決める必要がある。
奈緒は旧居へ戻らなかった。女性相談支援センターの協力で、所在地を伏せた一時保護先へ移り、弁護士を通して妊娠中の生活に必要な婚姻費用を請求した。
拓海はすぐに離婚調停を申し立てたが、奈緒は離婚に応じなかった。二人は同じ屋根の下で暮らしていなくても、弁護士から届く書類と調停期日、費用の請求を通して互いを縛り続けた。
八年間の私の青春が詰まっていた部屋には、消えた過去にしがみつく拓海だけが残った。
11.新しい暮らし
拓海と別れてから、私はすぐに新しい恋を始めたわけではない。橘さんとは、物件の設備や小判のことで時々連絡を取った。スタジオの仕事が遅くなった日には、帰り道に気をつけるよう短いメッセージが届くこともあった。
彼は過去を聞き出そうとせず、私が弱っている時期に何かを求めることもなかった。数か月後、休日に一緒に小判を散歩させるようになった。さらに時間がたってから、初めて私のほうから食事に誘った。
激しい恋ではなかった。けれど、相手に大切にしてもらうために、自分が犠牲になったり耐え続けたりする必要はないのだと、初めて知った。
一年後、私と蓮司は婚姻届を提出した。結婚式には親しい人だけを招き、小判は蝶ネクタイをつけたまま、私のドレスの裾で眠っていた。
スタジオは二店舗目を開いた。誰かの人脈を広げるためではなく、自分のレッスンと振付の仕事に力を注いだ。妊娠してからは激しい実演を減らしたが、週に何度かはスタジオへ顔を出している。
ある日のレッスン後、建物の前に拓海がいた。整えたスーツ姿で花束を持ち、この一年など存在しなかったような顔をしている。
「清香」
私は足を止めなかった。
通りの角から蓮司が歩いてきた。最近私が気に入っている焼き菓子の袋を提げている。
「健診の予約、来週の火曜に変更できたよ」
「ありがとう」
蓮司は私の書類袋を自然に受け取り、腹部へ目を向けた。
「今日は苦しくなかった?」
「大丈夫。赤ちゃんも静かだった」
拓海の手から、花束が落ちた。
「二人は、結婚したのか?」
蓮司が振り返る。
「ああ」
拓海は胸元を押さえ、身体をわずかに揺らした。私と蓮司は立ち止まらず、そのまま歩き続けた。
かつて拓海は、俺と別れて人生をやり直せるのかと私を脅した。
けれど、本当に大切なのは、別の男に選んでもらえるかどうかではなかった。
私はようやく、自分自身を選べるようになったのだ。
12.遅すぎた本音
拓海の会社は、すぐには倒産しなかった。新しい案件を探し、事業の方向も何度か変えたが、以前の規模には戻れなかった。
かつて取引していた人たちは、私の一言で操られていたわけではない。ただ、拓海を信頼し続ける理由を失ったのだ。
奈緒も、この結婚に疲れ切っていた。離婚調停中、弁護士と女性相談支援センターの職員に同行してもらい、旧居へ身分証明書や私物を取りに戻ったことがある。
拓海はテーブルに積まれた請求書と、失敗した仕事の責任をすべて奈緒へ押しつけた。
「おまえがいなければ、清香も仕事も失わなかった」
奈緒は荷物を詰めた箱を抱え、玄関で足を止めた。
「本気で、私があなたを愛していたと思っているの?」
拓海が動きを止める。
「どういう意味だ?」
「先生が一番大切にしている人を、私でも奪えると証明したかっただけ」
拓海はゆっくりと振り返った。
「最初から、清香に勝ちたかっただけなのか?」
「そうよ」
大きくなった腹をかばいながら、奈緒は一歩下がった。
「でも奪ってみて初めて分かった。先生がいなければ、あなたには何もない」
拓海はキッチンにあった包丁へ手を伸ばした。支援員はすぐに奈緒を廊下へ連れ出し、弁護士が警察へ通報した。
それ以降、奈緒が拓海と二人きりで会うことはなかった。
離婚調停と養育費の問題は、双方の弁護士を通し、家庭裁判所で進められた。子どもが生まれた後、奈緒は自分で市役所へ出生届を提出したという。女性相談支援センターの協力で新しい住まいへ移り、住所は最後まで拓海へ知らせなかった。
その子がその後どうなったのか、私は聞かなかった。
13.三文字の謝罪
奈緒が姿を消してからしばらくした朝、スタジオの郵便受けに一通の手紙が入っていた。差出人の名前はなく、中には短い言葉だけが書かれていた。
『ごめんなさい』
きれいな字だった。以前、奈緒が受講申込書に書いていた字と同じだった。
どこから送られたのか調べることも、何について謝っているのか考えることもしなかった。私を裏切ったことなのか、拓海を利用したことなのか。心から助けた人間を傷つけたことなのか、欲しかった人生を手に入れられなかったことなのか。
どれも、もう重要ではなかった。
手紙を折り直し、ごみ箱へ捨てた。奈緒を助けたことを後悔してはいない。あのときの私の善意は本物であり、その後に彼女が選んだ行動もまた事実だった。
誰かの悪意を理由に、かつての自分の誠実さまで否定する必要はない。
14.崩れ落ちたアパート
それから何年もたち、古いアパートの一帯が再開発区域に指定された。建物は調査の結果、長期の居住には適さないと判断された。管理会社は住民へ移転補償と仮住まい、次の賃貸物件を探す支援を提示し、ほかの入居者は順に退去した。
拓海だけが、最後まで出ていこうとしなかった。
蓮司は移転案を持って、本人のもとを訪れた。
「この案に同意すれば、会社から移転補償を支払います。次の部屋も用意しました」
拓海は、かつて私たちが一緒に選んだ古いソファに座っていた。家具は昔と似た配置にされていたが、どれも色あせ、傷んでいた。
「清香は、元気か?」
蓮司は少し黙った。
「元気です」
「スタジオは?」
「何店舗かに増えました。娘は小学生です。小判はもう年を取って、毎日ベランダで日なたぼっこばかりしています」
拓海はうつむいた。
「俺のことを、何か言っていたか?」
「何も」
部屋は長く静まり返った。
拓海は移転案を受け入れず、建物を明け渡すことも拒んだ。管理会社は何度も協議したが合意できず、やがて建物明渡請求訴訟を起こした。判決が確定すると、執行官の立ち会いのもとで部屋は引き渡され、建物全体が封鎖された。
もう拓海には、あの部屋へ入る権利はなかった。それでも解体工事の前夜、囲いを避けて、封鎖されたアパートへ入り込んだ。
その夜、青寧市には長時間の激しい雨が降った。建物裏の斜面で小規模な土砂崩れが起こり、老朽化した構造は衝撃に耐えられず、未明に大きな音を立てて崩れた。
遠くのサイレンで目を覚ました。新しい住まいの窓から見ると、通りの向こうに赤い警告灯がいくつも点滅している。雨に遮られ、古いアパートがあった場所には、ぼんやりした瓦礫しか見えなかった。
翌朝、蓮司から、救助隊が元の部屋で拓海を見つけたと聞いた。崩れた壁のそばに座り、手には雨水に濡れた古い写真を握っていたという。
写真に写っていたのは、二十代の私たちと、保護したばかりの小判だった。
私は窓辺に立ち、長いあいだ外を見ていた。
胸がすくような喜びも、昔のように引き裂かれる痛みもなかった。ただ、二十代だった頃の拓海がどんな顔をしていたのか、もう思い出せないことに気づいた。
古いアパートは、雨の中で崩れ落ちた。
あの場所に置いてきた八年間の青春も、ようやく終わった。
——完——




