上野の地侍と子供たちの様子。信楽焼の道の重要拠点になるぞ。他の地侍や子供の様子が少しずつ変わっていく
上野へ戻った地侍たちは、前とは少し違っていた。
懐には、次の買い付けの銭がある。
背には、伊勢松坂屋の袴と羽織がある。
そして何より、自分たちの仕事が「飯になる」と分かった。
それだけで、人の顔つきは変わる。
「ほな、次は信楽やな」
「今度は九鬼様の分もあるんやろ」
「そうや。一万文、余計に買う。うちの旦那の分と、九鬼様の分や」
「割るなよ」
「割ったら帳面に書かれる」
「ヨイチに怒られるぞ」
そんなことを言いながら、地侍たちは妙に楽しそうだった。
以前なら、銭を持って山道を歩くとなれば、奪われる側か、奪う側か、そのどちらかだった。
だが今は違う。
銭を預かり、品を買い、割れぬように運び、帳面をつけ、松阪へ持っていく。
それが仕事になった。
道中、別の地侍たちに声をかけられることもあった。
「お前ら、なんかええ羽織着とるやんけ」
「似合わんなあ」
「うるさいわ」
年かさの地侍が、少し得意げに袴を払った。
「これは伊勢松坂屋のやつや」
「伊勢松坂屋?」
「松阪と伊勢で飯屋やってる旦那のところや。内宮でも店出してるらしいぞ」
「ほんまかいな」
「ほんまや。で、俺らは今、信楽焼を買い付けに行っとる」
「信楽焼?」
「小皿とか湯呑みとか壺や。それを持って行ったら、旦那が三倍で買ってくれる」
相手の目が変わった。
「三倍?」
「そうや。二十文で買った小皿が六十文、三十文なら九十文や」
「めちゃくちゃええやんけ」
「ええやろ」
「なんでそんなうまい話があるんや」
「伊賀の道が怖いからや」
年かさの地侍は、少し声を低くした。
「信楽の品はええ。けど、道が怖い。割れるし、襲われるし、そもそも誰が
どこで売ってるか分からん。だから流通してへん。そこで、道を知ってる俺らに利がある」
「なるほどな」
「つまり、俺らの顔の悪さと道の悪さが、飯の種になるんや」
「顔の悪さまで金になるんか」
「なるらしい」
周りが笑った。
「しかも、それが続くなら、伊賀と名張に横丁を作ってくれるかもしれん」
「横丁?」
「大きな町みたいなのは無理や。でも、飯場と荷置き場と、団子焼くところと、
混ぜ飯出すところぐらいは作るかもって話や」
「ほんまに?」
「ほんまや。そうなったら、飯に困るやつが少し減る」
一人が疑わしそうに言った。
「けど、お前ら、飯屋の下につくんやろ。嫌やないんか」
年かさの地侍は、少しだけ真顔になった。
「下につくとか、上とか下とか、そういう話ちゃうぞ」
「なんや」
「飯が食えんねん。ちゃんと。しかもうまい」
その言葉に、妙な重みがあった。
「冷や飯やない。薄い味噌汁だけやない。混ぜ飯、すり身、鮪、饅頭。湯浴みまである」
「湯浴み?」
「熱い湯に入れる」
「そんなもん、どこの殿様の話や」
「飯屋の話や」
「嘘やろ」
「嘘ちゃう。買い付け隊で松阪に行ったら、向こうで飯食わせてもらえて、
湯浴みもあって、饅頭も出た」
「饅頭……」
「うまかったぞ」
その一言で、相手の何人かが完全に食いついた。
「俺も行きたい」
「すぐには無理や。帳面つけられるか、嘘つかへんか、荷を割らへんか。そこ見られる」
「荷を割るなって、皿やろ」
「皿や。皿を守るんや」
「地侍が皿守るんか」
「そうや。笑うやろ。でも皿守ったら飯になる」
誰かが、ぽつりと言った。
「……それ、ええな」
上野の空気は、少しずつ変わり始めていた。
人を脅すより、皿を運ぶ方が飯になる。
刀をちらつかせるより、帳面をつける方が次につながる。
それは、すぐに全員に伝わる話ではない。
だが、羽織を着て、袴を履き、飯を食って戻ってきた者の言葉には、前にはなかった力があった。
一方、寺では子どもたちが妙に真面目に勉強していた。
和尚は、木札と小皿を並べながら、少し驚いていた。
「十枚で一組です。では、三組なら?」
「三十!」
「よろしい。では、五組なら?」
「五十!」
「おお」
以前なら、途中で飽きて寝転がる子もいた。腹が減ったと騒ぐ子もいた。だが今日は違う。
松阪へ行った子どもたちが、戻ってからずっと話しているのだ。
「松阪の飯、ほんまにうまかった」
「湯浴み、あったかかった」
「向こうの子ども、皿数えるの早かった」
「ヨイチさん怖かった」
「旦那さん変やった」
「でも飯くれた」
寺にいた別の子が聞く。
「なんでそんな頑張ってんの」
松阪へ行った子が、少し胸を張った。
「松阪について行って、岩見入って、饅頭食ったんや」
「饅頭?」
「甘かった」
「ええなあ」
「それだけちゃう。向こうの店見た。みんな働いてた。しんどそうやったけど、
飯食えて、寝るところあって、湯浴みもあって、給金もある」
「給金って、銭もらえるん?」
「うん。最初は少ないかもしれんけど、半日働いて半分でももらえたら、団子一個ぐらい
買えるかもしれん」
「団子」
「しかも、寝るところと食うところは困らん」
その言葉に、子どもたちの顔つきが変わった。
勉強すれば偉くなる。
そう言われても、ぴんと来ない。
だが、数を数えられれば皿を扱える。
皿を扱えれば店に入れるかもしれない。
半日でも働ければ、団子を買えるかもしれない。
飯と寝床に困らないかもしれない。
それは、子どもたちにとっては十分すぎる未来だった。
「全部できるかな」
一人が不安そうに言った。
松阪へ行った子が、首を振る。
「全部やらんでええんちゃうか。まず皿数えるとか、団子焼くとか、薪運ぶとか、
そこからやって言うてた」
「団子焼くならできそう」
「俺、薪運べる」
「私は皿数えられる」
「十枚ずつやろ」
「十枚で一組」
子どもたちは、また小皿を並べ始めた。
十枚。
二十枚。
三十枚。
数える手つきは、まだぎこちない。
途中で間違える。
笑われて怒る。
もう一度数える。
だが、やめない。
和尚は、その様子を見ながら、思わず目頭を押さえた。
「和尚さん、泣いてるん?」
子どもの一人が聞いた。
「泣いておりません」
「泣いてるやん」
「これは、目に埃が入ったのです」
「寺の中やで」
子どもたちが笑った。
和尚も、少し笑った。
「よろしい。では、次はこの小皿を十枚ずつ分けて、全部で何組あるか数えなさい」
「はい!」
声が揃った。
その声を聞いて、和尚はまた胸が詰まった。
飯が道を作る。
皿が数を教える。
饅頭が子どもを前へ向かせる。
湯浴みが、あたたかい場所の記憶になる。
上野の荒れた土地に、まだ横丁はない。
けれど、横丁の種のようなものは、確かに芽を出し始めていた。
外では地侍たちが、次の信楽行きの準備をしている。
中では子どもたちが、皿を数えている。
和尚は、小さく手を合わせた。
「ありがたいことですな」
そう呟く声は、少し震えていた。




