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201/227

津方面。伊勢松坂屋に怒鳴り込んだ若い衆が港町の横丁整備に精をだしている。飯屋のすごさに気づく

津の港では、長野家の若い衆が汗をかいていた。

 以前の彼らなら、港の横丁の裏方など見向きもしなかっただろう。

 飯屋は飯を作る者。

 武家は命じる者。

 港で魚を買うとか、店を借りるとか、寺社に話を通すとか、荷を運ぶ者の寝床を整えるとか、

 そういうことは下の者が勝手にやるものだと思っていた。

 だが、伊勢を見てしまった。

 内宮の端で、朱印紙に包まれたすり身が百文で飛ぶように売れていく様子を見た。

 茶一杯にも銭が飛ぶ伊勢の町で、旅人が笑いながら銭を出すのを見た。

 九鬼水軍の船、港の仕入れ、紙、油、売り子、帳面、すべてがつながって飯になっているのを見た。

 あれを見た後では、「料理人を連れてこい」などとは、もう簡単には言えなかった。

 今、彼らは津の港で、二つ目の横丁を立ち上げるための下準備をしている。

 新しく借りられそうな店はあるか。

 魚を捌く場所はどこがよいか。

 油を置くなら火の始末はどうするか。

 荷運びが通る道は狭すぎないか。

 夜に揉め事が起きそうな場所はないか。

 港の顔役は誰か。

 寺社に飯会の話を通すには、誰に先に頭を下げるべきか。

 そういう細々したことを、調整役の家臣と一緒にぐるぐる回って聞いていた。

 横丁の者たちは、最初こそ少し警戒していた。

 だが、すぐに噂が回った。

「あれやろ。松阪で伊勢松坂屋に怒鳴り込んで、飯食うて、北畠に笑われて、

 伊勢まで連れて行かれた長野の若い衆やろ」

「飯屋に説教されて帰ってきたんやってな」

「お伊勢さん見物までさせてもらったらしいぞ」

「ええ身分やなあ」

 陰口は、かなり聞こえるところで言われた。

 若い衆の一人が、悔しそうに唇を噛んだ。

 だが、言い返さなかった。

 言い返せる話ではない。

 実際その通りだったからだ。

 自分たちは怒鳴り込んだ。

 飯を食った。

 半月の売上を聞いて嘘だと言った。

 北畠の上の方に笑われ、九鬼水軍の船に乗せられ、伊勢まで連れて行かれた。

 そして、見てしまった。

 だから今は、黙って仕事をするしかなかった。

 港の横丁では、すでに伊勢松坂屋の飯が売れている。

 魚のすり身。

 鮪の鍋。

 混ぜ飯。

 味噌汁。

 船乗り向けの熱い汁飯。

 まだ松阪や伊勢ほどの規模ではない。

 それでも人は集まる。

 港の者が飯を食う。

 漁民が魚を売りに来る。

 下働きが荷を運ぶ。

 女衆が皿を並べる。

 帳面役が数をつける。

 若い衆の一人は、それを見ながら、ぼそりと言った。

「俺ら、ほんまに何も分かってへんかったんやな」

 横にいた調整役の家臣が、苦笑した。

「ようやく分かったか」

「分かりました」

「結構大変やろ」

「大変です」

 若い衆は、素直に言った。

「前は、飯屋を呼べばええと思ってました。料理人を連れてきて、城で作らせればええ。

 港で出せるなら城でも出せる。そういうふうに殿にも言ってました」

「そうやな」

「でも、違いました」

 彼は港の店を見た。

「魚を買う人がいる。捌く人がいる。油を用意する人がいる。紙を押す人がいる。

 売る人がいる。客をさばく人がいる。余ったものを回す人がいる。帳面をつける人がいる。

 これ全部そろって、初めて飯になるんですね」

 調整役は、少し驚いたように彼を見た。

「そこまで分かれば、たいしたもんや」

「伊勢で見ましたから」

 若い衆は、少し苦い顔で笑った。

「あの内宮の端の店、怖かったです。小さい練り物が百文で売れて、

 しかも客が文句言わずに買う。紙に印がついているだけで、なんかありがたいものみたいに見える」

「実際、ありがたがって買うのやろうな」

「しかも、それが一個二個やない。さらさらさらさら売れていく。あれが一日に数百個売れたら、

 すり身だけで何万文も動く」

 彼は首を振った。

「恐ろしいです」

「恐ろしいか」

「はい。飯屋を軽く見るのが、どれだけ危ないか分かりました」

 調整役は、静かに頷いた。

「伊勢松坂屋は、ただの飯屋ではない。だが、向こうも武家ではない。だから、

 こちらがちゃんと筋を通せば、飯を出してくれる。逆に、筋を間違えたら引っ込む」

「津が引っ込まれたら困ります」

「そうや」

 港の方から、子どもが二人、すり身を持って走っていった。

 船乗りが笑い、女衆が「こぼすな」と声をかける。

 若い衆は、その様子を見ながら言った。

「せっかく、こういう人たちが津に来てくれてるんです。生かさないと、ほんまに損ですね」

「ようやく気づいたな」

「はい」

「けど、これは見んと分からん」

 調整役は、少し遠い目をした。

「横丁も何もない状態で、“飯屋に来てもらう”と言われても、普通はぴんと来ん。

 飯を作る人が来るだけやと思う。だが実際は、銭の流れ、人の流れ、魚の流れ、船の流れが変わる」

「定期便も、今は一万文でしたね」

「そうや」

「それが増えれば、津の中でもだいぶ違いますか」

「違う」

 調整役はすぐに答えた。

「一万文でも、品が動けば人が動く。四万文になれば、もっと動く。

 津の魚、干物、塩、草履、紙、油、そういうものが定期便に乗るようになれば、領内に銭が落ちる」

「財政にも」

「もちろんや。だが、急ぎすぎると潰れる。伊勢松坂屋が言うていたように、順番がいる」

 若い衆は頭をかいた。

「順番、ですか」

「港、郊外、城下、城。いきなり城へ持ってこいでは駄目や」

「殿様にも、そう説明せなあかんですね」

「せなあかん。お前らもな」

「はい」

 その時、港の横丁の男が通りすがりに言った。

「おう、長野の若様方。今日は怒鳴らへんのか」

 若い衆は一瞬むっとしたが、すぐに頭を下げた。

「今日は、店を増やす場所を見に来ました。邪魔してすみません」

 男は、少し驚いた顔をした。

「……お、おう。なんや、毒気抜けたな」

「伊勢で抜かれました」

 周りがどっと笑った。

 若い衆も、少しだけ笑った。

 笑われるのは悔しい。

 だが、笑われながらでも仕事をする方が、何も分からず威張るよりはましだった。

 調整役が肩を叩いた。

「よし。その調子や」

「でも、まだ小馬鹿にされますね」

「そらされる。しばらくは仕方ない」

「ですよね」

「それを受けながら、ちゃんと顔を出す。港の者に話す。寺社に頭を下げる。

 店の場所を探す。そうやっていけば、そのうち“あの若い衆、変わったな”と言われる」

「変われますかね」

「変わらんと、北畠との小競り合いに回されるぞ」

 若い衆は苦笑した。

「それ、松坂でも言われました」

「実際、その方が向いてると思われとるんやろ」

「ひどいですね」

「ひどいが、今のままなら事実や」

 調整役は少し笑った。

「でも、こうやって考えられるようになったら、宮仕えも少しはできる」

「飯屋に教えられて、ですけどね」

「それもよかろう。飯屋に教えられても、賢くなれば勝ちや」

 若い衆は、港の横丁をもう一度見た。

 魚の匂い。

 油の音。

 飯を食う声。

 帳面をつける手。

 荷を運ぶ足音。

 これを、ただの飯屋と呼ぶのはもう無理だった。

「調整役殿」

「なんや」

「次の横丁の場所、もう一度見に行きましょう。水場と、荷の通り道と、夜の警備も見ないと」

 調整役は、満足そうに頷いた。

「ようやく、それらしいことを言うようになったな」

「伊勢松坂屋にまた笑われたくないですから」

「それは大事や」

 二人は、港の奥へ歩き出した。

 陰口はまだ聞こえる。

 笑いも飛ぶ。

 それでも、津の港は少しずつ動き始めていた。

 長野家の若い衆は、ようやくその動きの中に、自分たちの役割を見つけ始めていた。

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