表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

198/234

楽しい楽しい帳簿の時間。前回337.9万文→466.2万文。来期の半月もっと使う。鳥羽と上野やな

「旦那様。楽しい楽しい帳簿の時間になりますよ」

 ヨイチが、いつもの無表情で帳面を抱えて入ってきた。

 博之は、畳の上で横になったまま、顔だけをしかめた。

「楽しくない」

「楽しいです」

「お前だけや」

「旦那様も、見た方がいいです。見ないと後で怖いことになります」

「もう十分怖いねん」

 博之は布団をかぶろうとしたが、お花にそっとはがされた。

「旦那様、九鬼様にもご挨拶に行かれましたし、一区切りです。ここで見ておきましょう」

「そういえば、九鬼さんのところも、信楽焼を一万文分追加で買ってほしいって言ってたわ」

 ヨイチの筆が止まった。

「また増えましたね」

「うん。北伊勢に売るらしい。白子、四日市、桑名、蟹江あたりやと。常滑や瀬戸もあるけど、

 信楽焼は信楽焼で名前が通るから売れるって」

「分かりました。買い付け便に一万文、九鬼様分として追加しておきます」

「さらっと書くなあ」

「書かないと増えません。増えたら書きます」

「帳簿怖い」

「では、その怖い帳簿を見ます」

 ヨイチは、ぱらりと帳面を開いた。

「五月末日の集計です」

「嫌や」

「まず松阪から」

「もう始まった」

「松阪の売上は、九十三万九千文です」

「うん。もうおかしい」

「ここから、家賃五万五千文」

「高いな」

「人が増えていますし、場所も増えています。人件費三十八万文」

「それは払わなあかん」

「諸経費十一万文」

「処刑費に聞こえるから怖い」

「諸経費です。さらに、謎の十万文を引いております」

「謎ってなんやねん」

「寄進、挨拶、土産、急な揉め事、寺社への手当、帳面に綺麗に出しづらいものです」

「便利な謎やな」

「必要な謎です」

「その言葉、定着させるな」

 ヨイチはまったく気にせず続けた。

「以上を引きまして、松阪の利益は三十九万四千文です」

 博之は、しばらく黙った。

「……また増えとるやんけ」

「増えています」

「謎の十万引いて、それなんか」

「はい。今回は定期便の利益がかなり乗っています。信楽焼の扱いも入ってきていますので、

 買い付け品の利益が大きくなりました」

「皿やぞ」

「皿でも売れます」

「怖いなあ」

「怖いです。しかも九鬼様分の一万文が次から乗ります」

「もっと怖いやん」

「ですが、こちらで売り切れない分を外へ流せるので、値崩れ防止にはなります」

「ヨイチ、そういう言い方するようになったな」

「旦那様のせいです」

 博之が頭を抱えていると、ヨイチは次の頁を開いた。

「もっと怖いのは伊勢です」

「やめて」

「伊勢の売上、百二十四万文です」

「怖すぎるわ」

「お伊勢さんパワーです」

「軽く言うな。まだ港増やそうとしてるんやぞ」

「はい。鳥羽の話も出ています。さらに怖くなります」

「言うな」

「伊勢も、謎の十万文を引いております」

「また謎か」

「内宮、寺社、挨拶、周辺との調整、買い食い、揉め事を避けるための費用です」

「謎やけど、必要やな」

「はい。さらに、新しく雇った子たちの人件費、設備、洗い場、岩見、紙、油、包み、

 その他を整えました」

「かなり使ったやろ」

「使いました」

「ほな、ちょっと安心やな」

「それでも、伊勢の利益は八十八万四千文です」

 博之は、口を開けたまま固まった。

「……は?」

「八十八万四千文です」

「使って?」

「使って」

「謎の十万も引いて?」

「引いて」

「新しい子の人件費も引いて?」

「引いて」

「設備も整えて?」

「整えて」

「それで八十八万残るんか」

「はい」

 博之は、そのまま畳に倒れ込んだ。

「怖すぎる。もっと使わなあかん」

「使う先はあります。鳥羽、津の港、岩見、白子・関亀山の調査、信楽焼の買い付け増額」

「使う先ありすぎるな」

「あります」

「なのに増えるんか」

「増えます」

 お花が、少し笑いをこらえながら言った。

「伊勢は、やはり別格ですね」

「別格すぎるわ。内宮の端っこに店出しただけで、なんでこんななるねん」

「端っこと言いましても、内宮ですから」

「怖い」

 ヨイチは、まだ終わっていないという顔で帳面をめくった。

「続いて津です」

「津、ようやく立ち上がったんやろ」

「はい。港を立ち上げまして、ようやく回るようになりました」

「長野家で揉めた割には、進んだな」

「進みました。ただし慎重にです」

「売上は?」

「十七万五千文です」

 博之は少しほっとした。

「あら、かわいい」

「かわいいですが、大事です」

「うん。津が立ち上がったってことやな」

「はい。ここから、新規採用、人件費、諸経費、魚の下処理場、港の洗い場、郊外での飯会、

 養鶏場関係、その他の準備費を引いています」

「だいぶ引くんやな」

「はい。松阪・伊勢と同程度の水準で人件費や食事を整えていますので、今の売上だけで見ると

 割に合いません」

「でも、それは下準備やな」

「その通りです」

「で、残りは?」

「五千文です」

 博之は、ちょっと笑った。

「かわいい」

「かわいいですが、黒字です」

「黒字やな」

「津の拠点が立ち上がった、という意味では十分です。これから魚のすり身、鮪鍋、港飯が

 安定すれば伸びます」

「長野家が静かにしてたらな」

「それも条件です」

「怖いなあ」

 ヨイチは帳面をまとめるように、筆を置いた。

「では合計です」

「もう嫌や」

「前回残高、三百三十七万九千文」

「うん」

「松阪、三十九万四千文」

「うん」

「伊勢、八十八万四千文」

「うん」

「津、五千文」

「かわいい」

「合計しまして」

 ヨイチは、少しだけ間を置いた。

「おめでとうございます。四百六十六万二千文です」

 博之は、しばらく動かなかった。

 お花が心配して覗き込む。

「旦那様?」

「……聞き間違いやろ」

「四百六十六万二千文です」

「増えすぎやろ」

「増えすぎです」

「ヨイチが認めた」

「認めます」

 博之は、畳に両手をついて、なぜか正座した。

「これはあかん」

「どうされますか」

「使う」

「はい」

「来期の半月、もっと使う」

「半年ではなく半月ですね」

「もう半月でこんな増えるんやから、半月単位で使わなあかん」

「正しい判断です」

「鳥羽や。鳥羽の港と城下、九鬼様の顔を立てる。津も港を厚くする。

 伊勢の湯あみも増やす。松阪は人を休ませる場所を増やす。伊賀・名張は小口の横丁準備。

 信楽焼は買い付けを分ける。大和の葛と素麺も続ける」

「一気に増えましたね」

「増やさんと怖い。銭だけ貯まってるのが一番怖い」

 お花が静かに頷いた。

「飯と寝床と湯浴みと道具に変えましょう」

「そうや。銭を銭のまま置いといたら狙われる。飯に変える。人に変える。皿に変える。

 湯に変える。道に変える」

 ヨイチが筆を取った。

「来期方針。鳥羽調査、津港追加整備、伊勢湯あみ増強、松阪休養所、伊賀・名張小規模横丁準備、

 信楽焼小口便増加、大和葛素麺継続」

「書くの早いな」

「今書かないと、旦那様は怖い怖いと言いながら寝ます」

「寝たい」

「寝る前に決めてください」

 博之は、深いため息をついた。

「一年前は、冷や飯と薄い味噌汁やったんやぞ」

「はい」

「今は半月で百二十四万文の伊勢がある」

「はい」

「意味が分からん」

「ですが、帳簿上は分かります」

「帳簿って怖いな」

「だから見ろと言っています」

 座敷に、少し笑いが起きた。

 だが、博之は本当に噛みしめていた。

 金が増えた。

 ただの数字ではない。

 松阪の人が働いた銭。

 伊勢の人波が落とした銭。

 津の港がようやく動き出した銭。

 信楽焼が皿から商材になり始めた銭。

 そして、これから鳥羽や伊賀や名張へ流すべき銭。

 貯めるだけではいけない。

 使わなければ、飯屋ではない。

 博之は、少し震える声で言った。

「来期は使う。ちゃんと使う」

 ヨイチが頷く。

「はい。使い方を帳面に残します」

「また帳簿か」

「使うなら、なおさら帳簿です」

「楽しくない」

「楽しいです」

「お前だけや」

 それでも博之は、もう布団に逃げなかった。

 四百六十六万二千文。

 その数字を前に、博之は心の中で誓った。

 次の半月は、もっと飯に使う。

 もっと人に使う。

 もっと道に使う。

 銭を抱えるためではなく、銭を回すために。

 伊勢松坂屋は、また次の道へ進むことになった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ