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帳簿の時間から逃げる博之。先日のもめごとのお礼を九鬼水軍に話に行く。信楽焼の買付に一枚かませてくれと言われる

「旦那様、楽しい楽しい帳簿の時間です」

 ヨイチが帳面を抱えて入ってきた瞬間、博之は布団の中で丸くなった。

「いやや」

「まだ何も言ってません」

「帳面やろ」

「帳面です」

「いやや」

 お花が横で笑った。

「旦那様、そろそろ逃げずに」

「逃げてへん。今日は逃げる理由がある」

「逃げるとお認めになるのですね」

「この前、九鬼水軍様に世話になったやろ。長野の若い衆を伊勢まで連れて行ってもらったし、定期便も調整してもらった。挨拶に行かなあかん」

 ヨイチがじっと見た。

「また逃げるんですか」

「違う。これは筋や」

「筋を盾にした帳面逃げです」

「言い方」

 とはいえ、九鬼水軍への挨拶は本当に必要だった。

 博之は、礼の包みと、松阪のすり身、鮪の煮つけ、それから届いたばかりの信楽焼を

 いくつか持って、九鬼水軍のところへ向かった。

 九鬼の者たちは、信楽焼を見るなり目の色を変えた。

「信楽焼でございます」

「見たら分かる。ええ土の感じしとる。小皿も湯呑みも、小壺も使いやすそうや」

 九鬼の年かさの男が、小皿を手に取って眺めた。

「これ、お前のとこで回してるんか」

「はい。伊賀・名張の者に買い付けてもらって、松阪や伊勢の従業員向け、それから店の普段使いに

 回そうかと」

「それ、うちも一枚噛ませろ」

 博之は目を細めた。

「どのようにですか」

「買い付け代に一万文、うちの分を上乗せしてくれ。お前の買い付け隊に乗せて、信楽焼を少し多めに買う。その分をうちが買う」

「九鬼様が売られるんですか」

「そうや」

「どこに?」

「北伊勢やな」

 九鬼の男は、当然のように言った。

「白子、四日市、桑名、蟹江あたり。海岸沿いに運べば、売る先はいくらでもある」

 博之は少し黙った。

「その辺、狙ってはるんですね」

「お前も狙っとるやろ」

「狙ってます」

「正直やな」

「嘘ついても仕方ないです」

 九鬼の者たちは笑った。

「まあ、向こう側で考えると常滑焼がある。知多半島やな。甕や壺なら常滑は強い。

 北の方へ入れば瀬戸もある。瀬戸物は上等や。けどな、瀬戸は少し高い。常滑は日常使い寄りや」

「はい」

「信楽焼は、その名前だけでも売れる。信楽から来た器やと言えば、北伊勢でも物珍しい。

 しかも、松阪や伊勢で伊勢松坂屋が使ってるとなれば、話がつく」

 博之は、なるほどと思った。

 自分たちは、信楽焼を従業員向けや店の格上げに使うつもりだった。

 だが九鬼水軍から見れば、それは海に乗せられる商材だった。

「うちの中で三倍で回すより、よそで売った方が高く売れる可能性はありますね」

「そうや。お前のところの女衆や男衆に売る値段より、北伊勢の物好きに売る方が、

 値が張れるかもしれん」

「問題は量ですね」

「そこや」

 九鬼の男は頷いた。

「信楽からどれだけ取れるか。伊賀・名張の道がどれだけ耐えられるか。割れずに運べるか。

 そこを見ながらや」

「ありがたい話ではあります」

 博之は、信楽焼の小壺を見ながら言った。

「うちも、あまりにも量が増えすぎると、松阪や伊勢の中で値段がおかしくなります。

 従業員向けに回したいのに、皆が売り物として見始めると困る」

「そうなるやろな」

「だから、九鬼様が外へ流してくださるなら、こちらとしても助かります」

「ほう」

「ただし、うちの分は先に確保させてください。店で使う小皿や湯呑み、小壺がなくなると困ります」

「それは分かっとる」

 九鬼の男は笑った。

「お前のところは飯屋や。器がなくなったら格好つかん」

「はい」

「で、うちはうちで、余剰分を買う。北伊勢へ流す。白子、四日市、桑名、蟹江。あの辺なら、

 海の道で動かせる」

 博之は少し考えた。

「九鬼様が動かすなら、運賃も当然かかりますよね」

「そらかかる」

「では、買い付け代の一万文上乗せ分については、信楽側の仕入れ値にこちらの手間を乗せた値で九鬼様にお渡しする。その後の北伊勢での売値は、九鬼様にお任せします」

「おう」

「ただ、輸送頻度が増えます。伊賀・名張から松阪へ運び、そこから九鬼様の船へ乗せるなら、都度都度、運賃をきちんと払います」

 九鬼の男は、にやりとした。

「そこをちゃんと言うのが、お前らしいな」

「そこを曖昧にすると揉めます」

「揉めるな」

「信楽焼の利益が増えても、運賃と割れの損をちゃんと見ないと、どこかで無理が出ます」

「分かっとる。最初は小さくや」

 九鬼の男は、小皿を戻した。

「うちも、いきなり信楽焼ばかり積む気はない。魚もある。塩もある。港の荷もある。信楽焼は、まず一万文ぶん。売れ行きと割れを見てからや」

「それならありがたいです」

「それに、器だけが欲しいわけやない」

「といいますと」

「信楽へ行く道の話、伊賀の話、名張の話、大和の話。そういう話も欲しい。どこが危ない、

 どこで人が集まる、どこで何が売れる。船だけでは拾えん話や」

 博之は頷いた。

「情報ですね」

「そうや。焼き物は荷になる。話は次の荷を決める。どっちもいる」

「それは、うちも同じです」

「だから、ゆるゆるやろうや」

 九鬼の男は笑った。

「せっかくここまで来たんや。松阪、伊勢、内宮、津、信楽。お前の飯屋は、もう変なところまで

 道を作っとる。焦って壊すのはもったいない」

「焦ってるつもりはないんですけどね」

 ヨイチが同行していれば、絶対に「焦っています」と言っただろう。

 博之はそれを思って、少し苦笑した。

「お前のところは、焦ってないつもりで半月に百万文動かすからな」

「やめてください。怖いので」

「怖い怖い言いながら、また新しい道を作る」

「飯の匂いがすると、つい」

「信楽焼は飯の匂いか?」

「器の匂いです」

 九鬼の者たちは笑った。

「まあ、器も飯のうちやな」

「そうですね。同じ飯でも、信楽の小皿に乗ると値段が変わる気がします」

「変わる。人は中身だけ見とるようで、器も見る」

「それで言えば、常滑も気になります」

「常滑は甕や壺やな。味噌、油、塩魚、漬物。お前の店の裏方には合う」

「瀬戸は?」

「瀬戸は高い。城主や茶の湯の者にはええ。普段使いにするには少し気を使う」

「じゃあ、信楽はちょうどいいんですね」

「そうや。荒すぎず、上品すぎず、物語がある。伊賀の者が命がけで運んできた器、ってな」

 博之はその言葉に少し引っかかった。

「命がけ、とまで言うと重いですね」

「重いから値がつく」

「商売人ですね」

「水軍や。船に乗せるものは、全部銭に見える」

 博之は苦笑した。

「では、まずは九鬼様分として一万文。こちらの買い付け便に上乗せして、信楽焼を買います。

 うちの分を確保した上で、余剰を九鬼様へ。北伊勢への販売は九鬼様にお任せする。

 ただし、売れ行き、割れ、値段は教えてください」

「分かった」

「運賃は都度都度、こちらからも払います」

「それも分かった」

「あと、伊賀・名張側には、荷が増えることを説明します。無理はさせません。

 半月ごとに小口で動かします」

「それがええ。いきなり大荷を持たせたら襲われる」

「はい」

 九鬼の男は満足そうに頷いた。

「よし。これで信楽の器が、海にも乗るな」

「怖いですね」

「怖がるな。道ができるんや」

「道ができると帳簿が増えます」

「それはヨイチに任せろ」

「皆それ言いますね」

「お前が逃げるからや」

 博之は返す言葉がなかった。

 最後に、九鬼の男は信楽の小皿を一枚持ち上げた。

「しかし、皿一枚で北伊勢まで話が伸びるとはな」

「私もそう思います」

「お前の飯屋は、飯だけやない。魚、紙、船、皿、人、全部動かす」

「やめてください。怖いです」

「怖いもんほど銭になる」

 九鬼の男は豪快に笑った。

 博之は、心の中でまた一つ帳面が増える音を聞いた。

 信楽は伊賀の道。

 常滑は海の道。

 瀬戸は尾張の道。

 北伊勢は九鬼の売り先。

 器だけで、また道が増えてしまった。

 博之は小さくつぶやいた。

「飯屋やのに、皿で悩む日が来るとはな」

 九鬼の男が笑って返した。

「飯屋やから、皿で悩むんやろ」

 それは、妙に正しい言葉だった。

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