長野家の若い衆が伊勢に向かい伊勢松坂屋のすごさを思い知る。長野の城主は不機嫌ではあったものの取引は継続になる
松阪の上の方への挨拶を終えると、博之たちはそのまま九鬼水軍の方へ向かった。
長野家の若い衆は、すっかり口数が減っていた。
昨日までは、飯屋に圧をかけに来たつもりだった。
だが、松阪の城主に笑われ、半月の売上を聞かされ、伊勢松坂屋を軽く見るなと言われた。
その上、これから九鬼水軍の船に乗せられ、伊勢まで連れて行かれる。
もはや、誰が誰を連れてきたのか分からない。
九鬼水軍の者たちは、事情を聞くと腹を抱えて笑った。
「また人を伊勢へ連れて行くんか」
「すみません。今回は長野様の若い衆でございます」
「怒鳴り込みに来たんやろ」
「はい」
「で、飯食わせて、泊めて、松阪の城主に会わせて、今度は伊勢か」
「そうなりました」
「伊勢松坂屋の見物道中やな」
博之は頭を抱えた。
「その言い方、やめてください」
「いや、もうそれやろ」
九鬼の者たちは笑いながらも、船はきっちり出してくれた。
博之は、今回の調整代として包みを渡した。定期便の礼、急な便の礼、長野家の若い衆を
乗せる手間賃。九鬼側は「出しすぎや」と笑いながらも、受け取った。
船が動き出すと、長野家の若い衆は、伊勢へ向かう海を黙って見ていた。
港。
船。
荷。
魚。
人。
銭。
飯屋の裏に、これほどのものが動いているとは思っていなかったのだろう。
伊勢へ着くと、博之は彼らに一万文を渡した。
「これで買い食いしてください」
「……一万文?」
「はい。伊勢を見てください。高いと思うもの、うまいと思うもの、人が並ぶもの、
誰がどこで銭を払っているか。全部見てきてください」
長野家の若い衆は、困惑しながらも伊勢の町へ出た。
茶一杯に驚き、菓子の値に驚き、内宮近くの混み方に驚いた。
そして、伊勢松坂屋の端の店を見た。
朱印の押された紙。
揚げたてのすり身。
小さいのに高い。
それでも人が買う。
旅人が笑って食べる。
女衆が手早く包む。
売り子が声を張る。
裏では油を替え、紙を重ね、帳面をつけている。
「……料理人だけでは無理やな」
誰かがぽつりと言った。
その一言が、彼らの見物の結論だった。
松阪へ戻るころには、彼らの顔つきは変わっていた。
そして、再び松阪の城主のもとへ寄り、軽く報告をした。
上の方は、長野家の若い衆の沈んだ顔を見るなり笑った。
「おお、だいぶ毒気が抜けたな」
誰も言い返さなかった。
「伊勢松坂屋を軽く見るな、という意味は分かったか」
「……はい」
「ならええ。帰って、ちゃんと殿に話せ。飯屋やが、ただの飯屋ではないとな」
そうして彼らは、ようやく津の城へ戻った。
長野の殿は、話を聞くなり、まず若い衆を睨んだ。
「お前ら、何をしに行ったんや」
若い衆は頭を下げたまま何も言えない。
調整役が、ことの顛末を丁寧に説明した。
伊勢松坂屋に押しかけたこと。
北畠の者が来たこと。
松阪の上の方へ連れて行かれたこと。
九鬼水軍の船で伊勢へ行ったこと。
内宮近くの店を見たこと。
そして、伊勢松坂屋がただ料理人一人で動いている店ではないと分かったこと。
殿はしばらく黙っていた。
そして、深く息を吐いた。
「お前ら、なめられた上にお駄賃をもらって伊勢に行ってきたんか。子供の使いやないか」
若い衆は、さらに頭を下げた。
「申し訳ございません」
「気分は悪い」
殿は正直に言った。
「長野の家臣が、松阪で笑われ、伊勢まで連れて行かれ、飯屋の力を見せられて帰ってくる。
気分がええわけがない」
だが、殿は続けた。
「けど、伊勢松坂屋がただの飯屋ではないことは分かった」
調整役は静かに頭を下げた。
「はい」
「わしは別に、博之という男そのものが嫌いなわけではない」
殿は少し不機嫌そうに言った。
「飯はうまい。面白い男やとも思う。ただ、城まで飯を持ってこぬのが気に食わんかっただけや」
調整役は慎重に言葉を選ぶ。
「伊勢松坂屋様としては、筋を通したいのだと思われます。港、郊外、城下、そして城。
順番を飛ばすと、周りの店や寺社、北畠様との関係にも響きます」
「分かっとる」
殿は苛立たしげに言ったが、その声は以前よりは落ち着いていた。
「なら、次は城まで持ってこいとは言わん。まずは港や。港で店を粛々と広げさせろ」
「はい」
「郊外も、飯会からでええ。城下はその後や。今回騒ぎを起こした以上、
すぐに横丁を立てるのは難しかろう」
「その通りかと」
「いずれ城にもできるやろ」
殿は、若い衆をちらりと見た。
「その時は、お前らが持ってこい」
若い衆は、驚いたように顔を上げた。
「我らが、ですか」
「そうや。飯屋に怒鳴り込むぐらい元気があるなら、今度は城まで飯を運ぶ役をやれ。
料理人を寄越せと言う前に、飯がどう届くかを覚えろ」
調整役は、心の中で安堵した。
殿は完全に機嫌を直したわけではない。
だが、話は前へ進んでいる。
「それと、定期便の話や」
殿は言った。
「一万文から始めるという話は、切れておらんのやな」
「はい。伊勢松坂屋様は、津をないがしろにする意図はないと明言されております。
ただし、受け入れ側の態度と安全が整わなければ、進められないと」
「当たり前やな」
殿は、少し苦い顔で言った。
「四万文まで余地があるなら、いずれそこまで増やせるようにすればよい。焦って潰すより、
港で実績を作る方がええ」
「賢明なご判断かと存じます」
調整役は深く頭を下げた。
「では、改めて伊勢松坂屋へ、こちらから謝意を示す文を出しましょう。若い者たちにも、
頭を下げに行かせます」
「行かせろ」
殿は言った。
「ただし、今度は怒鳴りに行くな。飯屋に頼みに行く態度で行け」
若い衆は、今度こそ素直に頭を下げた。
「承知いたしました」
殿は最後に、少しだけ笑った。
「しかし、伊勢まで連れて行かれて毒気を抜かれるとはな。伊勢松坂屋、やり方が妙すぎる」
調整役も、ようやく少しだけ笑った。
「妙ではございますが、効きます」
「それが腹立つな」
「はい」
こうして、津の話は一度止まりかけたが、完全には切れなかった。
港から。
一万文から。
頭を下げるところから。
長野家は、ようやくその順番を学び始めた。




