伊勢松坂屋と長野家がもめていると騒ぎになり、北畠の方々が見に来る。伊勢松坂屋はただの飯屋ではないぞ。
長野家の若い家臣たちは、文句を言いに来たはずだった。
だが、膳を出されると、結局は黙って箸を取った。
すり身の天ぷら、混ぜ飯、味噌汁、鮪の煮つけ。
最初は「飯屋風情が」とでも言いたげな顔をしていた者たちも、一口食べると顔色が少し変わった。
「……うまいな」
「これは、津でも出せばええ」
「だから、はよせいと言うとるんや」
うまいうまいと言いながら、顔には不満が残っている。
博之はそれを見て、もう怒る気も失せていた。
「飯食いながら怒れるって、器用やな」
ヨイチが横で小さく言う。
「旦那様、今は抑えてください」
「抑えてるやん」
「顔に出ています」
その時、表がさらに騒がしくなった。
北畠家の者たちが十五人ほど、どやどやと入ってきたのである。
「なんや、騒ぎがあったと聞いたが、どないなってんねん」
先頭の男が座敷を見て、少し固まった。
長野家の若い衆が膳を前に飯を食っている。
いつもの長野側の調整役は、顔を青くして立っている。
博之は疲れた顔で座り、ヨイチとお花は半ば呆れている。
北畠の者は、しばらくその状況を見てから、妙に丁寧に言った。
「申し訳ない。状況が読み込めん。伊勢松坂屋殿、説明をお願いできますか」
博之は困ったように頷いた。
「ええと、津の方で店を出してほしいという話を、長野様からいただいておりました」
「ああ、それは聞いておる。長野の殿さんが、飯を城で食いたがって色々やらかした話も聞いてるぞ」
「何を言うか」
長野家の若い一人が声を荒げた。
北畠の男は、その男の膳をちらりと見た。
「お前、飯食いながらそれ言うても説得力ないぞ」
周りから少し笑いが漏れた。
博之は続けた。
「津の港や郊外については、徐々に進めますとお話しておりました。人も足りませんし、
松阪、伊勢、内宮で手一杯なので」
「筋やな」
「ところが、こちらの若い方々が来られまして。松阪と伊勢では四万文ずつ買い付けていると聞いた。
津は一万文から始めるとは何事か。長野家をないがしろにしているのではないか、と」
「実際そうであろう」
若い家臣が言った。
「伊勢や松阪では大きく買っておる。なら、津でも買うべきや」
北畠の者は鼻で笑った。
「買ってほしいなら、頼み方があるやろ」
博之は、さらに説明を続ける。
「それと、長野様は城下でも港でも郊外でも出してよいと言っている。だから早く設備を整えて
店を出せ、と」
「出してよい、ねえ」
北畠の者が苦笑した。
「お前ら、頼んでる側やという自覚が薄いな」
長野家の調整役は、もう汗だくで頭を下げた。
「申し訳ございません。本当に申し訳ございません。この者たちは、話を分かっておりません。
私が何度申し上げても、殿の周りで若い衆が焚きつけまして……」
北畠の者たちは、今度はその調整役を見てゲラゲラ笑った。
「なんじゃそりゃ」
「おぬし、大変やな」
「もう交渉役なんぞやめて、伊勢の北の国人衆との小競り合いにでも行った方が楽やろ」
「いや、北畠との戦のために鍛えておいた方がまだ向いとるぞ」
「宮仕え、向いてへんぞ」
調整役は、力なく笑った。
「……自分でも、そう思っております」
すると、若い家臣の一人が箸を置いて睨んだ。
「言い過ぎではないか」
北畠の先頭の男は、笑いを止めて言った。
「ほな聞くが、お前ら、伊勢松坂屋が何をしとるか分かっとるんか」
「飯屋であろう」
「飯屋や。だが、ただの飯屋ちゃうぞ」
別の北畠の者が続けた。
「この伊勢松坂屋は、北畠の地で広く商いをしておる。松阪、伊勢、港、寺社、郊外、横丁。
そこへ飯を出し、人を雇い、銭を回しておる。先だっては内宮の端にも店を出した」
「内宮がどうした」
その言葉に、北畠の者たちの顔から笑いが消えた。
「お前、内宮で店を出す意味が分からんのか」
「……」
「あそこに一軒出すだけでも、普通の商人では無理や。筋も銭も評判もいる。しかも、
出しただけやない。売れておる」
それでも長野家の若い衆は、まだ納得していない顔をしている。
北畠の男は博之を見た。
「伊勢松坂屋殿。嫌やろうが、数字を言うてやった方がええ。こやつら、力の差が分かっておらん」
博之は露骨に嫌な顔をした。
「数字、言いたくないんですけど」
ヨイチが静かに言う。
「旦那様、ここは必要です」
「お前、覚えてるか。直近の数字」
「覚えております」
ヨイチは帳面を抱えたまま、淡々と言った。
「松阪の直近の売上は、九十五万文ほどです」
長野家の者たちが黙った。
ヨイチは続けた。
「伊勢は、百二十万四千文ほどです」
座敷が静まる。
北畠の者たちでさえ、少しだけ息を漏らした。
「相変わらず、えげつないな」
ヨイチは、さらに強調するように言った。
「念のため申し上げますが、これは一年の売上ではありません」
長野家の若い家臣たちは、まだ意味が分かっていないような顔をしていた。
ヨイチは、はっきりと言った。
「半月の売上です」
空気が止まった。
「……半月?」
長野家の一人が、かすれた声で聞く。
「はい。おおよそ半月分の売上です。松阪が九十五万文。伊勢が百二十万四千文。しかも、
津の港の売上はまだ立っておりません。津は立ち上げ段階で、今回の売上にはほぼ入っていません」
北畠の男が、長野家の若い衆を見た。
「聞いたか。半月やぞ」
博之は小さくため息をついた。
「だから数字を言うの嫌なんです。ややこしくなるから」
長野家の若い一人が、顔を赤くして叫んだ。
「嘘や」
ヨイチは眉一つ動かさない。
「嘘ではありません」
「飯屋が半月でそんな売上を出すわけがない」
「出ています」
「何を嘘ばかりついてんねん」
その瞬間、北畠の者たちの空気が変わった。
先頭の男が低い声で言う。
「お前、今、誰に向かって嘘つき言うたか分かっとるか」
「……」
「この小僧は帳面を見る者や。飯に浮かれておる者ではない。伊勢松坂屋が怖いのは、
うまい飯を出すだけやない。こういう者が後ろで帳面を押さえておるからや」
ヨイチは軽く頭を下げた。
北畠の男は続ける。
「それに、半月でそれだけ動かす店に向かって、津でもっと買え、早く出せ、などと上から言う。
お前ら、頼み方を間違えすぎや」
長野側の調整役は、もう深々と頭を下げたままだった。
「申し訳ございません。本当に申し訳ございません」
博之は、その姿を見て疲れたように言った。
「津をないがしろにするつもりはありません。港の魚も使いたい。津の者も雇いたい。
郊外の寺で飯会もしたい」
そこで一度、言葉を切った。
「ですが、今日のようなことが続くなら、津には出せません」
長野家の若い衆が顔を上げる。
「なぜや」
「うちの者を守れないからです」
博之の声は静かだった。
「料理人、売り子、買い付け方、帳面を見る者、荷運び、女衆、下働き。みんな、うちの大事な者です。
武家が十人で押しかけてきて、飯屋だから従え、早くしろ、もっと買えと言う場所には、
人は出せません」
北畠の者が頷いた。
「当然やな」
博之はさらに言う。
「それに、半月でそれだけ動いていても、人は足りません。松阪も伊勢も、まだ整えなければならない。
内宮は始まったばかり。津は、順番を守って港から始める。それ以上を急げば、全部崩れます」
ヨイチが補足する。
「津の港の設備費は、すでに計上しております。人の手配も考えています。ただし、無理に進めれば、
松阪、伊勢、津、すべてに負担が出ます」
お花も静かに言った。
「飯は、料理人だけでできるものではございません。仕入れ、下処理、油、紙、運搬、売り場、帳面、
寝床、湯浴み。その全部があって、初めて店になります」
長野家の若い衆は、ようやく少し黙った。
北畠の男は、膳を見て言った。
「お前ら、今その飯を食ったやろ。うまかったやろ。なら、その飯がどうやってここまで来とるか、
少しは考えろ」
座敷は重くなった。
だが、さっきまでの乱暴な空気とは違っていた。
半月で松阪九十五万文。
伊勢百二十万四千文。
津はまだ入っていない。
その数字が、長野家の若い衆の頭に、ようやく重さを持って落ち始めていた。
博之は最後に言った。
「津の話は、いったん保留にします。調整役の方とは、また改めて話します。ただし、次に来る時は、
飯屋に物を頼む態度で来てください」
北畠の者が笑った。
「飯屋に頭下げるのも、時代やな」
博之は苦笑した。
「私もできれば、そんな時代にしたくないです」
ヨイチが即座に言った。
「すでになっています」
「言うな」
少しだけ笑いが戻った。
だが、長野家の者たちは、もう先ほどのように箸を動かせなくなっていた。
目の前の空の膳が、半月二百万文を超える飯の仕組みの末端に見え始めていたからである。




