5月3週目。座敷でゴロゴロしていると津の長野家の家臣が10人で乗り込んできて津に関すること早くしろと怒鳴り込んでくるwww
次の季節に入ったころ、博之はまた座敷でごろごろしていた。
目の前には帳面がある。
見たくない。
見たくないが、もう見てしまった。
三百三十七万九千文。
金がある。
ありすぎる。
ありすぎて、逆に嫌だった。
「なあ、ヨイチ」
「はい」
「金が貯まりすぎて気持ち悪いから、伊賀と名張に拠点作っちゃおうか」
ヨイチは筆を止めた。
「旦那様、むちゃくちゃです」
「五万文ずつ。合わせて十万文ぐらいでさ。小さな飯場と、寝床と、湯浴みまでは無理でも
洗い場ぐらい作って」
「むちゃくちゃです」
「二回言わんでええ」
「二回言うほどです」
お花も苦笑した。
「旦那様、さすがにそれは、信楽焼の仕入れを見てからでもよろしいのでは」
「まあ、そうやな」
ヨイチは帳面を閉じながら言った。
「例の地侍たちが、信楽焼の一万文を握ったまま消えていたら、その話は頓挫です」
「それはそれで、松阪の上司への土産話もなくてつまらんな」
「つまらないで済ませる金額ではありません」
「一万文やろ」
「旦那様、感覚が壊れています」
お花が続けた。
「ただ、もしちゃんと戻ってきて、和尚さんたちも子どもの勉強や混ぜ飯、
山菜天ぷらを進めておられるなら、小さな拠点を考える価値はあるかもしれません」
「やろ」
「でも、まだです」
「そうやな。信楽焼を見てからでも遅くないな」
「はい」
そんなふうに、ぐだぐだと話していた時だった。
表が騒がしくなった。
店の者が、やや慌てた顔で入ってくる。
「旦那様、津の長野家の方々が来られております」
「長野?」
博之は起き上がった。
「何人?」
「十人ほどです」
「十人?」
ヨイチが眉をひそめる。
「嫌な数ですね」
やがて、表に現れたのは、いつも津との調整で来る家臣と、若い武家衆十人ほどだった。
いつもの家臣は、門をくぐるなり深く頭を下げた。
「松坂屋様、本当に申し訳ございません」
博之は一瞬、何が始まったのか分からなかった。
「え、何ですか」
「先に謝らせてください。誠に申し訳ございません」
「なんでそんなに謝るんですか」
「長野の方でいろいろ調整しておりました。ですが、若い衆が殿様をそそのかしまして、
こちらへ押しかける形になってしまいました。さすがに、こやつらだけを突撃させれば大事になると
思い、私もついてまいりました」
後ろの若い武家衆の一人が、不満そうに言った。
「何をそんなに下手に出るんです。うちら武家ですよ」
博之は、その言葉でだいたい察した。
面倒なやつだ。
別の若い武家が、一歩前に出る。
「伊勢松坂屋。なぜ、うちのところの定期便を買わん」
「はい?」
「話は聞いておるぞ。伊勢や松阪では四万文も買い付けておるそうやないか。内宮で買い付けを
していることも聞いておる。なのに津は一万文程度やと」
博之は黙っていた。
「これは長野家をないがしろにしておるのではないか」
また別の若い武家が続ける。
「城下でも港でも郊外でも、殿様は出してよいと言うておられる。なら、はよせい。津のものも買え。
津に店を作れ。殿も飯を望んでおられる」
博之は、しばらくその顔を見ていた。
怒りはあった。
だが、あまりに話が通じていなさすぎて、怒りを通り越して、すっと感情が引いていった。
「ヨイチ」
「はい」
「俺、ムカつくを通り越して呆れてるんやけど」
「それは呆れると思います」
お花も静かに言った。
「失礼が行き過ぎると、感情がなくなるのですね」
「うん。今そんな感じ」
若い武家衆が顔を赤くする。
「何を小声でごちゃごちゃと」
博之は、その男を見た。
「まず、なんでそんなに頭が高いんですか」
「は?」
「とりあえず、頭を下げてください」
「意味が分からん」
「ここ、うちの店です」
「だから何や」
「突然十人で押しかけてきて、うちの者を威圧して、買い付けが少ないだの、
はよせいだの言う。しかも、お願いしている立場はそちらです」
「お願い?」
「そうでしょう。津の港を早く立ち上げてほしい。津のものを買ってほしい。
長野様の顔を立ててほしい。全部そちらの要望です」
若い武家衆は、言い返そうとした。
だが、いつもの家臣が慌てて間に入った。
「申し訳ございません。本当に申し訳ございません」
博之は、その家臣を見た。
「この話、そちらではどうなってるんですか」
「……正直に申しますと、この者たちは分かっておりません」
「でしょうね」
「知能が足りぬ、というと言い過ぎかもしれませんが、伊勢松坂屋様が普通の商店ではないことを、
理解しておりません」
若い武家が怒る。
「何を言うか!」
家臣は、もう半ば泣きそうな顔だった。
「普通の商店でも、これほど無礼に押しかけてよいわけではありません。ましてや、伊勢松坂屋様は
内宮で店を出し、九鬼水軍ともつながり、松阪や伊勢の上の方とも話を通しておられる。津は今、
お願いしている側なのです」
「武家が飯屋にお願いなど」
その言葉で、博之の目が細くなった。
ヨイチが小さく身構える。
だが、博之は怒鳴らなかった。
ただ、静かに言った。
「飯屋が嫌なら、津には出しませんよ」
座敷の空気が凍った。
「津の港の飯会、買い付け、定期便、立ち上げ。全部止めてもいいんです。うちは松阪と伊勢で
十分手が足りていません。津は、お願いされたから動こうとしているだけです」
若い武家衆は言葉に詰まった。
いつもの家臣が、さらに深く頭を下げる。
「松坂屋様、それだけは、どうか」
「だから、あなたには気の毒やと思っています」
博之はため息をついた。
「あなたが何度も頭を下げて、津の港の話を通そうとしていたのは分かっています。でも、
この人たちがこれなら、無理です。料理人も売り子も買い付け方も、うちの大事な者です。
脅されるような場所へは出せません」
「おっしゃる通りです」
家臣は、苦しそうに言った。
「私が、もっと早く止めるべきでした」
若い武家の一人が、まだ納得できない顔で言う。
「しかし、殿は津にも店を出してよいと」
「出してよい、ではありません」
博之ははっきり言った。
「来てください、と言う話です」
その場が静まり返った。
「うちは人が足りません。松阪、伊勢、内宮、津、信楽、大和、全部抱えています。
すぐにサクサク津へ人を回せるわけではありません。だから、港から徐々にやると言っているんです」
ヨイチが補足する。
「すでに津港の設備費は計上しています。人の手配も考えています。ただし、無理に進めれば、
松阪も伊勢も津も崩れます」
お花も続けた。
「それに、飯は料理人だけでできるものではございません。仕入れ、下処理、油、紙、運搬、売り場、
帳面、寝床、湯浴み。全部があって初めて店になります」
若い武家衆は、ようやく少し黙った。
いつもの家臣は、汗をぬぐいながら言った。
「本当に、申し訳ございません。こやつらは、飯が出ればすぐに店ができると思っているのです。
殿にも、そう吹き込んだ者がおります」
「なるほど」
博之は、その家臣を見て、少し気の毒になった。
この人は、分かっている。
分かっているのに、城主と若い衆に挟まれている。
「あなたも大変ですね」
家臣は苦笑した。
「はい。正直、胃が痛うございます」
「分かります」
「旦那様もですか」
「私は帳簿で胃が痛いです」
その場に、少しだけ乾いた笑いが起きた。
だが、問題は終わっていない。
博之は若い武家衆へ向き直った。
「津をないがしろにするつもりはありません。ただし、筋を通さない相手とは、商いできません」
若い武家の一人が、まだ不満そうに言う。
「なら、どうしろと」
「まず、頭を下げることです」
「武家が」
「武家でもです」
博之は静かに言った。
「飯を食いたいなら、飯を作る者を軽く見るな。津に店を出してほしいなら、津の港の者、
寺の者、働く者を大事にすることです。殿様の顔だけでは、飯屋は動きません」
いつもの家臣が、深く息を吐いた。
「……おっしゃる通りでございます」
博之は、少し疲れたように座り直した。
「今日は、いったん飯を食べてください。怒鳴り合っても仕方ない。ただし、津の話は保留です」
「保留?」
「はい。こちらが安心して人を出せると思えるまで、津の港立ち上げは進めません」
若い武家衆の顔が変わる。
「そんな勝手な」
「勝手に来たのはそちらです」
ヨイチが冷たく言った。
お花がそっと制するように茶を出す。
いつもの家臣は、ほとんど泣きそうな顔でまた頭を下げた。
「松坂屋様、本当に申し訳ございません」
博之は、その姿を見て、怒りよりも疲れを感じていた。
津はうまそうだ。
港の魚は使える。
漁民も雇える。
郊外の寺も待っている。
だが、上がこれでは危ない。
博之は小さく呟いた。
「飯の匂いはするのに、筋の匂いがせえへんな」
ヨイチが静かに答える。
「それが一番危ないです」
座敷の空気は、まだ重かった。
津の港は、遠のいた。
少なくとも、この十人が頭を下げるまでは。




