いい加減に帳簿を見てくださいとキレられる博之。直近の帳簿。残高174万8千文→228万8千文へ
「いいかげん帳簿を見てください」
ヨイチの声は、いつもより低かった。
博之は布団の上で、顔だけ横に向けた。
「嫌や」
「嫌ではありません」
「怖いねん」
「怖くても見ます」
「だって、もう伊勢さんの話が出てくるやろ。内宮さんやろ。常設やろ。津やろ。鳥羽やろ。
信楽やろ。もう帳簿やなくて化け物やん」
「化け物を育てたのは旦那様です」
「飯屋やぞ、わしは」
「飯屋が帳簿から逃げると、飯屋ではなくなります」
「言い方きついな」
お花が横で茶を置きながら、静かに言った。
「旦那様、見てしまった方が楽になりますよ」
「ならんやろ」
「たぶん、怖くはなります」
「正直すぎる」
博之は観念して起き上がった。
「分かった。見る。見るけど、伊勢神宮の数字はほんまに怖いからな」
ヨイチは帳面を開いた。
「そこはご安心ください。伊勢神宮に関しては、今回は七日分しか計上しておりません」
「七日分?」
「はい。立ち上げ直後で、まだおたついておりますし、出店の整えも途中です。常設として完全に
回り始めた数字ではありません」
博之は少しだけ息を吐いた。
「ああ、じゃあ、まだちょっと安心かな」
「そう思うでしょう」
「思わせぶりやめろ」
「では、聞いてください」
ヨイチは淡々と読み上げた。
「まず松阪です。通常の売上が八十九万六千文。岩見分が一万五千文。定期便関係が四万文。
ざっくり九十万文ちょいです」
「うん。もう松阪は安定して怖いな」
「そこから、もろもろ引いて、松阪単体でプラス二十八万文です」
博之は固まった。
「……二十八万?」
「はい」
「もろもろ引いて?」
「はい」
「何を引いたんや」
「津の港立ち上げ分、それから伊勢の港立ち上げ分、合わせて十万文を先に引いております」
「それ引いて二十八万残るんか」
「残りました」
「怖い怖い怖い」
「まだあります」
「もう嫌や」
「さらに、袴と朱印紙、油吸い用のちり紙を大量に発注しました。五万文です」
「五万!?」
「これも入れております」
「それ入れて二十八万残ってるんかい」
「はい」
博之は頭を抱えた。
「いや、袴はいる。いるよ。信楽行かせるやつも、名張上野の護衛も、津も伊勢も、
うちの者やって分かるものがいる。ちり紙もいる。内宮さんで朱印付きの紙が歩いてるんやからいる。
いるんやけど……それ入れても二十八万って何やねん」
「飯が売れています」
「それで片づけるな」
ヨイチは次の頁を開いた。
「続いて伊勢です」
「来た」
「伊勢神宮以外で、四十五万文です」
「……もうその時点で嫌や」
「そして、伊勢神宮七日分を入れると、三十五万文が乗ります」
「七日分で?」
「はい」
「七日分で三十五万?」
「はい」
「お伊勢さんパワーすげえな……」
博之は思わず天井を見た。
「それ、ずっと乗っかってくるやつやろ」
「その可能性が高いです」
「怖い怖い怖い」
「ただし、ここからも経費は引いております。内宮周辺の調整、追加の人手、紙、油、道具、挨拶、
周辺への買い食い代、細かい支出。全部ざっくり見ています」
「またざっくりか」
「ざっくりですが、今回はかなり厚めに引いております」
「で?」
「伊勢は、経費を差し引いて、プラス三十六万文です」
博之は声を失った。
しばらく座敷に沈黙が落ちた。
お花も、少し驚いたように帳面を見る。
「三十六万……」
「はい」
「七日分しか内宮入ってなくて?」
「はい」
「もう嫌や」
博之はそのまま後ろへ倒れ込んだ。
「旦那様、倒れないでください。まだ合計があります」
「聞きたくない」
「聞いてください」
ヨイチは容赦なく続けた。
「松阪のプラス二十八万。伊勢のプラス三十六万。もちろん、津と伊勢の港立ち上げ、
袴とちり紙、各種準備費を引いた上です」
「引いた上でそれなんやろ。知ってる」
「はい。ですので、今回の増加分は、ざっくり五十四万文です」
「五十四万……」
「前回の残高は百七十四万八千文でした」
「うん」
「今回、二百二十八万八千文になりました」
博之は、ゆっくり起き上がった。
「……二百二十八万八千文」
「はい」
「おめでとうございます」
「めでたくない」
「めでたいです」
「嫌になる」
「嫌になっても増えています」
「なんでやねん」
ヨイチは静かに帳面を閉じた。
「内宮さんの常設が、かなり大きいです。すり身と鮪の値段を下げず、量を調整し、朱印紙で売った。
しかも、七日分だけでこれです」
「七日でこれなら、半月、一月でどうなるんや」
「かなり怖いことになります」
「言うな」
「ただ、良い面もあります」
「なんや」
「伊勢の方で整っていなかった設備を、松阪並みに整えることが可能になりました」
博之は黙った。
「今までは、伊勢は勢いで回していた部分があります。人手も、道具も、寝床も、紙も、
油も、鍋も、器も、足りないところを何とかしていました。でも、この利益が乗るなら、
整備できます」
「……それは大事やな」
「津も同じです。港横丁を立ち上げる時、最初からある程度の設備を入れられます。
鳥羽も、もし飯会から入るなら、最低限の道具を先に揃えられます。上野や名張方面も、
油、味噌、甕、卵、小麦粉、塩、そういう基本のものを試験的に持たせられます」
お花が頷いた。
「人を無理に使うより、道具を整えた方が残る者も増えるかもしれません」
「そうやな」
博之は、少しだけ真面目な顔になった。
「つまり、金が増えたから贅沢するんやなくて、穴を埋めるんやな」
「はい」
「伊勢を松阪並みにする。津は最初からある程度整える。名張と上野は、飯の種をちゃんと渡す。
信楽焼も、ただ買わせるだけやなくて、帰りに飯の材料を持たせる」
「そうです」
ヨイチは少しだけ表情を緩めた。
「怖い数字ですが、使い道はあります」
「使い道がありすぎるのが怖いねん」
「それも事実です」
博之は、また帳面を見た。
二百二十八万八千文。
意味が分からない数字だった。
一年前は、冷や飯と薄い味噌汁で二週間しのいでいた。
ぼろ小屋で豚汁を作り、ヨイチがじっと見ていた。
十文から始まった。
それが今、内宮の端で百文のすり身が売れ、七日で三十五万文が乗る。
「ほんま、何になったんやろな」
博之がつぶやく。
ヨイチは即答した。
「飯屋です」
「飯屋の数字ちゃうやろ」
「旦那様の飯屋です」
「それ、便利に使うな」
お花が笑った。
「でも、これで人を雇えます。寝床を整えられます。結婚した者にも祝いを出せます。
名張や上野の子どもたちにも、混ぜ飯や天ぷらの種を渡せます」
「そう言われると、悪い数字ではないな」
「悪くはありません」
ヨイチがすぐに言った。
「ただし、逃げると悪くなります」
「帳簿から?」
「はい」
「結局そこか」
「そこです」
博之は大きくため息をついた。
「二百二十八万八千文か……」
「はい」
「ますます狙われるな」
「はい」
「ますます呼ばれるな」
「はい」
「ますます飯持って行かなあかんな」
「はい」
「嫌やな」
「でも、目覚めは悪くないでしょう」
博之は少し黙ってから、苦笑した。
「まあな」
そして、ぽつりと付け加えた。
「ただ、次の帳簿はもっと見たくない」
ヨイチは容赦なく答えた。
「見ます」
座敷に、乾いた笑いが広がった。




