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帳簿から逃げる博之。松坂郊外の和尚のところで話す。信楽焼以外に大和方面でほしいものありますか?噂話等

 帳簿から逃げた。

 博之は、そう自覚しながら、松阪郊外の寺へ向かった。

 手ぶらでは格好がつかないので、寄進の包みを一つ。それに、弁当と、混ぜ飯、すり身天、

 少し甘いものを持たせた。帳簿から逃げているだけなのに、荷だけは妙に立派である。

 寺に着くと、和尚は博之の顔を見るなり笑った。

「また、あれですか。旦那は帳簿から逃げ回っているんですか」

「逃げ回ってます」

 博之は即答した。

「正直に言うところは、よろしいですな」

「隠しても、ヨイチにばれますから」

「でしょうな」

 和尚は愉快そうに笑い、博之を中へ通した。縁側に座り、茶を出される。

 持ってきた弁当と飯ものは、寺の者や近くの者にも少しずつ分けられた。

「それにしても、この前の上野の侍の件は面白かったですな」

 和尚が、茶をすすりながら言った。

 博之は苦笑する。

「あれ、面白かったですか」

「面白いどころではありません。私の人生でも、五本の指には入りますな」

「そんなにですか」

「郊外の寺で坊主をしていて、身代金を取りに来た地侍が飯を食わされ、風呂に入れられ、伊勢へ連れていかれるなど、なかなか見られるものではありません」

「言われると、だいぶおかしいですね」

「だいぶ、ではありません。相当です」

 和尚は楽しそうに笑った。

「で、あの後どうなりました」

「松阪の城主に呼ばれまして」

「でしょうな」

「しかも、その侍たちも連れてこいと言われて、連れて行きました」

「ほう」

「そこでまた笑われまして。最終的に、信楽焼の買い付けに行かせることになりました」

 和尚は、少し目を丸くして、それからまた笑った。

「身代金の侍が、信楽焼の買い付けですか」

「そうです。何をいくらで買ったか書いてこい、と。あと、殿様向けに面白そうな器があったら

 買ってこいと」

「まことに、飯屋のやることではありませんな」

「それ、最近よく言われます」

 博之は茶を飲み、少し真面目な顔になった。

「それで、和尚さんに聞きたかったんですけど」

「はい」

「大和の方のもので、何か欲しいものありますかね」

「大和ですか」

「一応、三輪素麺と葛は使えるかなと思ってます。素麺は夏に出せるし、

 葛は冬や病人、年寄りにも良さそうやなと」

「それはよろしいですな」

 和尚はすぐに頷いた。

「葛は寺向きです。甘味を足せば子どもにもよい。生姜を入れれば冬に温まる。

 病み上がりにも、年寄りにも出しやすい。飯というより、養生ですな」

「養生。ええ言葉ですね」

「素麺も、夏にはありがたい。暑い時期に、冷えた細い麺を出す。山菜の天ぷらなど添えれば、

 寺の飯会にも、上の方への振る舞いにも向きます」

「そこなんですよ。葛と素麺は、単品で売るというより、周辺の話やなと思ってて」

「周辺?」

「はい。信楽焼は分かりやすいんです。器を買って、売って、店で使える。けど、大和の方は、

 それだけやと少し弱い。だから、葛、素麺、寺、薬草、山菜、奈良方面の話。そういうものを

 まとめて持ってきてほしいなと」

 和尚は、深く頷いた。

「それは面白い」

「八木とか桜井とか、榛原の方の話も気になってまして。寺が多いでしょう。寺の情報とか、

 あとは紙、筆、書物、灯明、線香、そういうものもあるんかなと」

「ありますな。品そのものも大事ですが、寺の噂話は欲しいです」

「噂話ですか」

「ええ。こんなご時世ですから、いろんなところに耳を持っておくのは大事です。それに、

 単純に聞いて楽しい」

 和尚はにこりと笑った。

「どこそこの寺ではこういう飯を出している。どこそこの道は荒れている。どこそこの市では

 こういうものが売れている。そういう話は、茶の相手になります。ここらで遊んでいる子らにも

 聞かせてやりたいですな」

「子どもらに?」

「はい。よそはこうなっている。大和には細い麺がある。宇陀には葛がある。

 信楽には焼き物がある。そういう話は、娯楽でもあり、学びでもあります」

 博之は、少し意外そうに和尚を見た。

「なるほどなあ」

「旦那の定期便も、同じようなものです」

「うちの?」

「ええ。伊勢のものが郊外の拠点まで来る。松阪の者が、津の魚の話を聞く。

 そこに信楽焼が混じる。普通なら見ることのないものが、近くの棚に置かれる。

 人はそれだけで楽しいのです」

「物珍しさですね」

「そうです。今までならありえなかった。伊勢の棚に信楽焼がある。津の港で松阪の

 混ぜ飯が食える。寺で葛湯が出る。そういうことが、人の心を動かすのです」

 和尚は茶を置いた。

「もちろん、銭も動きます。九鬼水軍にも運賃が入るでしょう。信楽の者にも銭が落ちる。

 名張や上野には飯の種が生まれる。松阪には話が戻る」

「半月に一回帳簿つけるたびに、また数万文飛びそうですけどね」

「飛ぶでしょうな」

「和尚さん、そこ笑うところちゃいます」

「しかし、その銭は消えているのではなく、回っているのでしょう」

 その言葉に、博之は黙った。

 和尚は続ける。

「旦那は、商いを広げたくて広げているわけではない、とよく言われますな」

「はい。正直、勝手に広がってる感じです」

「けれど、飯を出し、銭を出し、物を運ぶ。そうすると人が動く。人が動くと、話が動く。

 話が動くと、また縁ができる」

「縁ですか」

「ええ。戦国の世では、刀で道を作る者が多い。けれど旦那は、飯で道を作っておる。これは、

 今の戦国大名より、よほど平和なやり方かもしれませんな」

 博之は、少し照れたように頭をかいた。

「そんな立派なもんちゃいますよ」

「立派に見せようとしていないところが、よいのです」

「いや、ほんまに帳簿から逃げてきただけですから」

「それでも、逃げた先で葛と素麺と信楽焼と寺の噂話をつなげている。普通の逃げ方ではありません」

 和尚は笑った。

「旦那の逃げ道は、なぜか飯の道になりますな」

 博之は困ったように笑った。

「ほんま、飯って怖いですね」

「怖くはありません。ありがたいのです」

 和尚は、持ってきた混ぜ飯を少し口に運んだ。

「これも、漬物と飯が合わさるだけで、一品になる。葛もそうでしょう。素麺もそうでしょう。

 人もまた、ひとつでは弱くとも、つながれば道になります」

「和尚さん、今日もええこと言いますね」

「寄進をいただいておりますので」

「そこ現実的ですね」

「寺も飯を食いますから」

 二人は笑った。

 博之は、少しだけ肩の力が抜けた。

 帳簿から逃げてきたはずだった。

 けれど、和尚と話すうちに、また次の道が見えてしまった。

 葛。

 三輪素麺。

 寺の噂話。

 信楽焼。

 伊勢の棚。

 津の魚。

 名張と上野の子どもたち。

 また帳簿が増える。

 それは分かっている。

 けれど、和尚の言う通り、それはただ銭が減る話ではないのかもしれない。

 博之は茶をすすり、ぽつりと言った。

「……まあ、目覚めは悪くないですわ」

 和尚は満足そうに頷いた。

「それが一番でございます」

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