表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

172/222

伊勢松坂屋本店に帰宅しごろごろしながらも内宮での話を整理する。買付の女衆の話や地侍の様子など

伊勢から戻ったその日の夜、博之は屋敷の座敷でごろごろしていた。

 体は疲れている。

 だが、頭だけは妙に冴えている。

 内宮さんへの挨拶。

 十万文の寄進。

 常設の許可。

 そして、端の店で飛ぶように売れていくすり身と鮪。

 いろいろなことが一日で起こりすぎて、もう処理しきれなかった。

 その横で、買い付けの女衆たちは、まだ興奮が冷めていなかった。

「旦那様、今日すごかったですね」

「すごかったなあ」

「すり身、最後ほんまに売り切れてましたよ」

「お客さん、まだ欲しそうにしてました」

「朱印の紙、めちゃ見られてましたよ。『あれ何?』って」

「あと、タコ入り聞かれました。売り切れてますって言ったら、残念そうでした」

 女衆たちは、きゃあきゃあと楽しそうに話している。

 博之は布団に寝転がったまま、天井を見ていた。

「お前ら元気やなあ」

「旦那様が寝転びすぎなんです」

「今日は疲れたんや。内宮さん相手に話してきたんやぞ」

 ヨイチが帳面を抱えて横に座る。

「その内宮さんの話、ちゃんと整理しておきましょう」

「今か」

「今です。忘れる前に」

「帳簿係って怖いな」

「旦那様の記憶の方が怖いです」

 お花が茶を置きながら、静かに言った。

「内宮さん、かなり柔らかく話してくださいましたね」

「そうやな」

 博之は少し体を起こした。

 内宮側の者は、まず文面での不躾を詫びた。

 もちろん、立場がある。

 内宮側から飯屋へ頭を下げに来るわけにはいかない。

 だが、文で強く出すぎたことは、向こうも分かっていたようだった。

「十万文もすぐ納めてくれた以上、約束は約束や。店は出してよい」

 そう言われた時、博之は内心で少しだけ息を吐いた。

 十万文を出したはいいが、やはり内宮の中である。

 あとから何か言われる可能性もあった。

 だが、そこは通った。

「ただ、本音を言うと、数年くらい待ってもらうつもりやったらしいな」

 博之が言うと、ヨイチが頷いた。

「周りの店の納得、場の空気、参拝客の反応。普通なら、何度か半月ごとの出店を続けて、

 実績を積ませるつもりだったのでしょう」

「それを十万文でこじ開けた形やな」

「はい。旦那様が、文面に書かれた条件を即座に飲んだせいです」

「言い方」

「事実です」

 お花は少し笑った。

「ですが、内宮さんも約束は約束として認めてくださいました」

「そこはありがたい」

 博之は茶をすすった。

「ただ、かなり念押しされたな。ここは腰長くやらなあかん場所やと」

「はい」

 内宮側は言った。

 ここで売れるからといって、すぐに多店舗展開を考えるな。

 まわりと荒らわず、ひとつの飯をじっくり育てろ。

 内宮の中で根づけば、十年どころか百年続く。

 だからこそ、焦るな。

「百年続くって言われた時、ちょっと怖かったわ」

 博之が呟く。

「旦那様が死んでも、すり身だけ残りますね」

 ヨイチがさらっと言う。

「嫌な残り方やな」

「でも、ありえます」

「言うな」

 買い付け組の一人が、目を輝かせて言った。

「でも旦那様、内宮さん、あの売り方をすごく面白がってましたよね」

「ああ」

 内宮側は、朱印付きの油吸い紙に包んで売ることを、かなり珍しいと言った。

 ただの魚のすり身ではない。

 歩きながら食べられる。

 油を吸う紙に印がある。

 食べ終わった後も、あの印が目に残る。

 しかも、安い魚を使っているのに、味と形と場で値がつく。

「飯をひっくり返すような売り方や、とまで言ってたな」

「革命的、みたいな言い方でしたね」

「そこまで言われると怖いねん」

 博之は頭をかいた。

「だから九鬼水軍も気にしてるんやろうって話も出た」

 海のものに値がつく。

 今まで安く見られていた魚、捨てられていた部位、手間をかける価値がない

 と思われていたものが、内宮で百文になる。

 それは、港の者からすれば大きな話である。

 九鬼水軍が気にするのも当然だった。

 ヨイチが帳面に書きながら言う。

「内宮さんとしては、競合しないことも大きかったようですね」

「そうやな」

 茶屋とは違う。

 甘味屋とも違う。

 土産物屋とも違う。

 飯屋といっても、大盛りの飯を出すわけではない。

 すり身は小さく、歩きながら食べられる。

 鮪の煮物は少し心配だが、席を取りすぎないようにすれば何とかなる。

「練り物の方は安心してる感じやったな」

「量が小さいですからね」

「鮪は座って食うから、場所食うんよな」

「そこは数と席を調整する必要があります」

「うん。鮪はあんまり広げすぎると、他の店に嫌がられるかもしれん」

 お花が頷いた。

「すり身を主にして、鮪は数を絞る方がよろしいかもしれません」

「そうやな」

 内宮側は、こうも言った。

 売り切れは少し格好が悪い。

 需要があるなら量は適宜調整してよい。

 同じ横丁内で、数か所に同じものを置くことも、様子を見ながらなら構わない。

 ただし、値段は下げるな。

 安く出される方が困る。

「儲けすぎるなとは言われんかったな」

 博之が言うと、ヨイチが即座に答える。

「むしろ安く出すなと言われました」

「そこなんよな」

「内宮価格を崩す方が問題なのでしょう」

「七十文とか五十文の感覚でやったら、逆に怒られる」

「はい。内宮では八十文、百文を守るべきです」

 買い付け組の女衆が言った。

「今日もお客さん、百文でも普通に買ってましたよ」

「そうなんよなあ」

「しかも、二つ買う人もいました」

「味違いがあると強いですね」

「タコ入りとしそ入りで迷ってました」

「ごぼうも聞かれました」

「普通のも売れてました」

 博之は、それを聞きながら遠い目をした。

「魚のすり身がなあ……」

「旦那様、また怖くなってますね」

「怖いやろ。安い魚やぞ。港でそこまで値がつかんかった魚や。それが内宮で百文や」

 ヨイチが静かに言った。

「でも、味、場所、印、食べやすさ、話題性。全部が乗っています」

「飯って怖いな」

「旦那様の飯が怖いんです」

 女衆たちはまだ楽しそうだった。

「買い付けも楽しかったですよ」

「内宮さんの近く、やっぱり品が違いますね」

「高いけど、見てるだけでも楽しいです」

「地侍さんたち、めちゃくちゃびっくりしてましたよ」

「あの人ら、最後すり身の店の前で固まってました」

 博之は少し笑った。

「見たら分かるって言うたからな」

「多分、分かってましたよ。あの顔は」

「ほんまか」

「はい。なんか、世界が違うって顔してました」

 お花が穏やかに言った。

「良いことかもしれませんね。無理に説得するより、見せた方が早いです」

「そうやな」

 地侍たちは、山道で一万文をせびっていた。

 だが、内宮ではすり身百本で一万文が動く。

 しかも、人は笑って買う。

 それを見た意味は大きい。

「それにしても」

 ヨイチが帳面を閉じた。

「常設が始まると、本当に数字が変わります」

「またそれか」

「言わざるを得ません。内宮側は、売り切れが格好悪いから量を調整してよいと言いました。

 数か所に置くことも、様子見で認める。値段は下げるな。これは、売上の上限がかなり

 上がるということです」

「言うな」

「しかも、儲けすぎるなとは言われていません」

「言うな」

「つまり、帳簿が怖いです」

「もう分かった」

 博之は布団に倒れ込んだ。

「わし、今日内宮さんで頭下げてきたんやぞ。ちょっとくらい余韻に浸らせてくれ」

「余韻に浸っている間にも、売れています」

「嫌なこと言うな」

 女衆たちが笑った。

 お花が茶を淹れ直しながら言う。

「でも、旦那様。今日は良い日だったと思います。内宮さんとも話ができました。

 店も認められました。周りへの配慮も見えました。買い付け組も学びました。

 地侍の方々も、何か感じたようです」

「そうやな」

 博之は、天井を見たまま小さく頷いた。

「十万文、無駄にはならんかったな」

 ヨイチが言う。

「無駄どころか、たぶん安かったです」

「それが一番怖いねん」

 座敷にまた笑いが起きた。

 伊勢の内宮の端に、丸に井戸の井の朱印が置かれる。

 魚のすり身が、百文で売れる。

 鮪が、名物のように扱われる。

 そして、それを見た者たちが、また別の道を考え始める。

 博之は、ぽつりと言った。

「ほんま、飯は道を作るな」

 今度も、誰も否定しなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ