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伊勢の港に着き腹ごしらえをする地侍達。伊勢内宮で別れ自由にされ戸惑うもとりあえず参拝して買い食いする。魚のすり身が100文完売を目で見て動揺する

船が伊勢の港へ着くと、地侍たちはまず港の賑わいに目を丸くした。

松坂とも違う。名張とも上野とも違う。潮の匂いがあり、荷を運ぶ男たちがいて、

魚を並べる者がいて、旅人も混じっている。そこに伊勢松坂屋の横丁が、

もう当たり前のように立っていた。

 博之は六人を振り返った。

「とりあえず、ここで軽く飯食うとけ」

「もう食うんか」

「食う。内宮の方に行ったら、ちょっと次元が違うぐらい高い。ほんまに茶一杯三十文の世界やぞ。

 腹減ったまま行って、あれもこれも食うたら、銭が湯水のごとくなくなる」

「湯水ってなんや」

「すごい勢いでなくなるってことや」

 九鬼の清次が笑った。

「旦那の言う通りや。内宮の近くで腹いっぱい食おう思ったら、昨日もろた一万文なんか、

 気づいたら半分飛ぶぞ」

 地侍たちは一万文の包みを抱え直した。

 博之は横丁の方を指さす。

「ここで腹半分、いや六分目ぐらいにしとけ。その方が、向こうで買い食いする時に楽しい。

 腹減りすぎてると、値段見ずに買うからな」

「妙に実感こもってるな」

「わしも前に茶でびびったんや」

 そう言って、博之はお花とヨイチ、買い付けの女衆たちを呼んだ。

「わしはこれから内宮さんに挨拶に行く。常設の話や。寺社にも顔出すし、店の準備も見る」

「わしらは?」

「自由や」

「自由?」

「そうや。わしが横について、あれ見ろこれ見ろと言うても、たぶん腹に落ちへん。自分らで見てこい」

 六人は戸惑った。

 博之は続けた。

「ただし、夕方までにはこの港の横丁に戻ってこい。帰りの船便でみんなで帰る。

 取り残されても知らんぞ」

「迷子にはならんわ」

「分からんやろ。お伊勢さんのあたりは人が多い。もし迷ったら、事情を話して、

 伊勢松坂屋の港の横丁まで行きたいと言え。たぶん誰か分かる」

「そんなに名が通ってるんか」

「最近ちょっとだけな」

 ヨイチがぼそりと言う。

「ちょっとではありません」

「うるさい」

 博之は六人の服を見て、少し考えた。

「心配なら、うちの店の衆を一人つけてもええけど」

「いらん。子どもやない」

「ならええ。けど、ほんまに迷うなよ」

 年かさの地侍が鼻を鳴らした。

「分かっとる」

「あと、一つだけ見てこい」

 博之は、内宮の方角を指した。

「端っこの方に、うちの丸に井戸の井の朱印を押した紙で、魚のすり身と鮪の煮たやつを売ってる店が

 出る。そこは必ず見ろ」

「百文のやつか」

「そうや。港で食ったすり身より量は少ない。けど値段は高い。それでも売れる。そこを見てこい」

「意味分からんな」

「意味分からんから、見るんや」

 博之は少し笑った。

「それを見て、お参りして、買い食いして、伊勢の店や人の多さを見て、それで腹に落ちたら、

 自分らがどうするか考えたらええ」

 そう言い残して、博之はヨイチとお花を連れ、内宮への挨拶回りへ向かった。

 残された地侍たちは、しばらくその背中を見ていた。

「……ほんまに自由にされたな」

「逃げてもええんかな」

「逃げてどうする。船も分からん、道も分からん」

「それもそうや」

 まず、彼らは港の横丁で飯を食った。

 すり身、焼き飯、混ぜ飯、鮪の少し。昨日からうまい飯を食わされ続けているせいか、

 舌が少し変になってきている気がした。

「これが普通に安いんやろ」

「向こうはこれより高い言うてたな」

「どんな場所やねん」

 腹を六分目ほど満たして、六人は内宮の方へ歩いた。

 人が多かった。

 想像以上だった。

 着物のよい者、旅の者、商人、女衆、子ども。いろんな人間が流れのように歩いている。

 店が並び、茶屋があり、甘いものの匂いがし、焼いたもの、煮たもの、揚げたものの匂いが

 混じっていた。

「……大事やな」

 若い地侍が呟いた。

「お伊勢さんって、こんなところなんか」

「そら、あの旦那が十万文出すわけや」

 彼らはお参りをした。

 正しい作法など分からない。だが、周りを真似て頭を下げた。昨日まで人を脅していた自分たちが、

 今日ここで手を合わせていることが、どこか現実味のない話に思えた。

 その後、買い食いをした。

 茶は本当に高かった。

「三十文やぞ」

「茶やぞ」

「でもみんな飲んどる」

 菓子も高い。焼いた餅も高い。だが、人は買う。笑って食う。旅の記念だと言って、

 財布の紐が緩んでいる。

 六人は、博之から渡された一万文で少しずつ買い食いをした。最初は値段にびびっていたが、

 だんだん分かってきた。

 ここは、普段の腹を満たす場所ではない。

 記念に食う場所だ。

 そして夕方前、彼らは博之に言われた端の店へ向かった。

 そこには、人だかりができていた。

 丸に井戸の井の朱印が押された紙。

 油を吸った紙に包まれた、魚のすり身の棒串。

 小判型の平たいすり身。

 鮪の煮たもの。

 店の女衆が、声を張っていた。

「本日分、残りわずかです」

「すり身はあと少しでございます」

「鮪は売り切れました」

 地侍たちは、思わず顔を見合わせた。

「ほぼ売り切れやんけ」

「まだ夕方前やぞ」

「ほんまに百文で売ってる」

 しかも、港で食ったものより明らかに小さい。量は少ない。値段は高い。

 それなのに、客は買っていく。

「内宮で売ってるやつやろ」

「朱の印の紙のやつや」

「一つください」

「こっちはタコ入り?」

「もう売り切れです」

 飛ぶように売れていた。

 六人は、言葉を失った。

 安い魚をすり潰して、味をつけ、油で揚げ、紙で包み、場所を変え、印を押す。

 それだけで、百文になる。

 人が喜んで買う。

 そして、売り切れる。

 年かさの地侍は、ぽつりと言った。

「……昨日の一万文、百本分か」

 若い男が答えた。

「それも、ほぼ売り切れたな」

「俺らが人連れてきてせびった銭を、こいつらは魚の棒で稼ぐんか」

 誰も笑わなかった。

 そこにあったのは、屈辱ではなく、妙な納得だった。

 刀で脅すより、飯を売る方が強い。

 少なくとも、この場所では。

「なあ」

 一人が言った。

「俺ら、この人についてった方がええんちゃうか」

 年かさの男は、すぐには答えなかった。

 ただ、朱印の紙を持って歩いていく客たちを見ていた。

 人は飯を買う。

 場所に銭を払う。

 印に値打ちを感じる。

 うまいと笑って、また誰かに話す。

 山の道で奪っていた一万文とは、まるで違う銭の流れだった。

「……見てから決めろって、あの旦那言うてたな」

「見たな」

「ああ」

 年かさの男は、ようやく小さく頷いた。

「もう少し、見てもええかもしれん」

 その時、店の女衆が声を上げた。

「本日のすり身、売り切れでございます」

 人だかりから、惜しむ声が上がった。

 六人は、その声を聞きながら、しばらくその場を動けなかった。

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