名張の地侍の視点。身代金もらうはずがもらってから飯食って湯に入り伊勢参りにいく。お駄賃1万文もらい海にいる。わけわからん
船が松坂の港を離れると、六人の地侍たちは、しばらく黙って海を見ていた。
山道しか知らぬ者にとって、海は広すぎた。
どこまでも続く水面。
潮の匂い。
船底を叩く波の音。
九鬼水軍の者たちが当たり前のように帆や櫓を扱う姿。
地侍の一人が、ぽつりと言った。
「……海って、こんな広いんやな」
九鬼の若い衆、清次が笑った。
「そらそうや。山で小競り合いしとるだけやと、分からんやろ」
年かさの地侍がむっとする。
「馬鹿にしとんのか」
「半分な」
「おい」
「けど、半分はほんまの話や。お前ら、山の道を知っとる。けど、海の銭の動きは知らんやろ」
清次は海の先を指さした。
「船で物を運ぶ。魚を運ぶ。人を運ぶ。銭を運ぶ。海はな、荒れたら怖いけど、通ればでかい。
国取りするより、こっちの方が儲かる時もある」
「国取りよりか」
「下手な国を取ったところで、年貢を集めて、地侍をまとめて、隣に睨まれて、
飢饉が来たら終わりや。けど、船は動けば銭になる」
若い地侍が、伊勢松坂屋の方をちらりと見た。
「なら、あの旦那も、国取りしたらもっと稼げるんちゃうか」
清次は大声で笑った。
「あいつが国取り? やめとけやめとけ。国を取るより、飯を食わせる方が向いとる」
「でも、銭はあるんやろ」
「あるな」
「人もおる」
「おる」
「飯もある」
「それが一番強い」
清次は、少し真面目な顔になった。
「あの旦那の怖いところは、飯が食いっぱぐれんところや。働くやつには飯を食わせる。
寝床も用意する。そこから銭を渡す。だから人が残る」
地侍たちは黙って聞いていた。
「しかもな、普通なら捨てるようなもんを飯の種に変える。港で安く見られてた魚をすり身にして、
油で揚げて、紙に印を押して、内宮で百文で売る。鮪も、捨てるような
扱いやったのを出汁で煮て、名物みたいにしてまう」
「魚のすり身が百文……」
「見たら分かる。たぶん、今日見てもまだ分からんかもしれん。けど、人が買うところを見たら、
少し分かる」
年かさの地侍は、一万文の包みを抱えたまま、渋い顔をした。
「昨日、身代金で一万文もろた」
「聞いた」
「今日、伊勢で使えって、また一万文渡された」
「聞いた聞いた」
「意味が分からん」
清次はにやりとした。
「追いついてへんのやろ」
「追いつくわけないやろ。昨日まで、あいつらから銭取って帰るつもりやったんやぞ」
「それが飯食わされて、風呂入れられて、服洗われて、今日はお伊勢参りや。そら追いつかんわ」
九鬼の者たちが笑った。
地侍たちは、少し居心地悪そうにしながらも、もう怒る気力はなかった。
清次は続けた。
「こっちだって、最初からあの旦那を信用してたわけやないで」
「そうなんか」
「当たり前や。いきなり飯屋が銭持ってきて、港でなんかやりたい、釣り会やりたい、
買い付けしたい、内宮で飯出したい、津で飯会したい、言うんやぞ。怪しいやろ」
「怪しいな」
「でも、銭は出す。飯はうまい。筋は通す。面倒なことは言うけど、逃げへん。だからだんだん、
こいつは変な飯屋やけど、付き合って損はないなってなる」
若い地侍が聞いた。
「殿様ともやり取りしてるってほんまか」
「ほんまや。この前なんか、津で長野の殿様を寺まで呼んで揉めてたぞ」
「殿様を寺まで?」
「城へ飯持ってこいって言われたのを、筋が違います言うて断ったんや。ほんで、
寺で食べてくださいって呼んだ」
「……斬られへんかったんか」
「斬られへんように、俺ら九鬼が用心棒で呼ばれた」
地侍たちは、さすがにぽかんとした。
「飯屋が、殿様に逆らって、水軍を用心棒にして、寺で飯を食わせたんか」
「そうや。わけ分からんやろ」
「わけ分からん」
「でも飯がうまかったから、なんやかんや話が通った。港と郊外に横丁作ってええって
話になったらしい」
年かさの地侍は、海を見たまま黙った。
清次は少し声を落とした。
「お前ら、悪いことしてたら、目覚め悪いやろ」
地侍の一人が、ぴくりとした。
「……別に」
「別に、って顔ちゃうぞ。名張と上野の人間連れてきて、一万文せびって、
それで気持ちよく寝られたか」
誰も答えなかった。
「俺らも荒いことはする。海はきれいごとだけでは生きられん。でもな、目覚め悪いことを
ずっと続けたら、顔に出る。道も細る。人も寄らん」
清次は、伊勢松坂屋の荷を見た。
「けど、あの旦那についていったら、とりあえず飯は出る。食いっぱぐれは少ない。
金になるか、大きく稼げるかは知らん。お前ら次第や。でも金回りは半端なくええ」
「……半年か一年ぐらい、ついてみろってことか」
「そうやな。人生、もう捨てたと思ってるなら、半年か一年ぐらい、あの変な飯屋に
ついてみても損はないやろ」
「その間に使い潰されたら?」
「使い潰すやつは、昨日の時点でお前らを縛って九鬼に売っとるわ」
「売るんか」
「冗談や」
「冗談に聞こえん」
清次は笑った。
「まあ、今日のところは難しいこと考えんでええ。船に酔うなら、遠くを見とけ。
海を見ろ。伊勢に着いたら、内宮を見ろ。百文の飯を見ろ。人が銭を出すところを見ろ」
若い地侍が、恐る恐る聞いた。
「海に落としたりはせんのか」
「せえへん。そんなことしても目覚め悪いだけや」
「ほんまか」
「ほんまや。お前らが刀抜いて暴れたら別やけどな」
六人は、互いに顔を見合わせた。
昨日までなら、ここで虚勢を張っていたかもしれない。
だが、今は不思議と張る気にならなかった。
飯を食った。
湯に入った。
銭を持っている。
船に乗っている。
海が広い。
知らないものが、多すぎた。
年かさの男は、ぽつりと言った。
「……とりあえず、見てからやな」
「そうや」
清次はうなずいた。
「見てから決めたらええ。切るにしても、逃げるにしても、ついていくにしてもな」
船は、伊勢へ向かって進んでいく。
遠くに陸の線が見え始めた。
六人の地侍は、黙って海を見た。
山の道とは違う道。
刀で奪う道ではなく、船で運ぶ道。
飯が銭になる道。
その先に何があるのか、まだ分からない。
けれど、少なくとも昨日までの自分たちが知っていた世界とは、まるで違っていた。




