松坂から伊勢買付の定期便兼内宮の店立ち上げや諸々のついでに地侍に小遣い1万文を渡して伊勢見物させに九鬼水軍に挨拶に行く
翌朝、伊勢松坂屋の奥では、朝から銭と荷の準備が進んでいた。
買付方には、いつも通り四万文を持たせる。伊勢での買い付け、小物、紙、布、香袋、櫛、
その他もろもろ。今回は内宮の常設の話もあるため、いつもより皆の顔つきも引き締まっている。
そして別に、博之は一万文の包みを用意させた。
「これは九鬼様への分やな」
ヨイチが帳面に書き込む。
「九鬼水軍への挨拶、定期便および伊勢行き立ち会い分、一万文」
「書き方が固いな」
「帳簿ですから」
「まあええわ」
そこへ、昨日の地侍六人がやってきた。
昨日とはだいぶ様子が違う。
飯を食い、風呂に入り、服を洗われ、新入り用の着物を着て、寝床で一晩眠った。
まだ目つきの荒さは残っているが、最初に店へ入ってきた時のような、ぎらぎらした
毒気はかなり抜けている。
年かさの男は、昨日受け取った一万文の包みを抱えていた。
「……ほんまに行くんか」
「行く」
博之はあっさり答えた。
「ただ、もし本当に怖いなら、一人だけ残ってもええ。一人がこの一万文を持って帰ってもええ」
「ええんか」
「止めはせん。全員来ない、というのも止めへん」
六人が少し顔を見合わせる。
博之は続けた。
「ただし、全員来ないのは、ちょっとかっこ悪いぞ」
年かさの男が、むっとした顔をした。
「煽るな」
「煽ってへん。事実や」
「分かった。行く。俺らは全員逃げへん」
若い地侍が、少し笑いながら言った。
「まあ、もらったもんはもらったもんやから、返さんけどな」
「返さんでええ」
博之は笑った。
「それは昨日の分や。名張と上野の二人を連れてきた分。終わりの銭にするか、
始まりの銭にするかは、これからや」
六人は、完全には意味を飲み込めていない顔をした。
その横で、名張と上野の代表たちも荷を整えていた。昨日話した漬物混ぜ飯、
山菜の天ぷら、うなぎ飯、信楽焼、大和の乾麺。その種を、これからどう育てるか。
まだ何も始まってはいないが、少なくとも昨日よりは顔が明るい。
出発前、博之はふと思い出したように手を叩いた。
「あ、そうそう」
ヨイチが警戒した目を向ける。
「旦那様の“そうそう”は、だいたい銭が飛びます」
「正解や」
「嫌な正解です」
博之はお花に言った。
「もう一万文、用意して」
「はい」
地侍たちがぎょっとした。
「また一万文?」
「そうや。あんたらにも一万文渡す」
「……は?」
年かさの男が、今度こそ間の抜けた声を出した。
「伊勢へ行くんやぞ。お伊勢さんなんて、あんたらも一生に一度行くか行かんか分からんやろ。
せっかく行くなら、買い食いでもして、周りの店も見て、何が高いか、何が売れてるか、
自分の目で見てこい」
「いや、なんでわしらに」
「見てもらうためや。腹減ったまま、何も買わずに歩いても分からん。自分で銭出して、
食って、見て、驚け」
「余ったら?」
「余ったら、それはあげる」
「使い切ったら?」
「それはそれでええ。見物代や」
六人は完全にぽかんとしていた。
昨日、身代金として一万文を受け取った。
飯を食った。
湯に入った。
寝床をもらった。
服も洗ってもらった。
そして今日、さらに伊勢での買い食い用に一万文を渡される。
年かさの男は、仲間と顔を見合わせた。
「……俺ら、夢でも見てんのか」
若い男が小声で言った。
「分からん。けど、夢にしては飯がうまかった」
博之は、その毒気の抜けた顔を見て、少しだけ笑った。
「ほな行くぞ。夢かどうかは、九鬼様の船に乗ったら分かる」
こうして一行は、九鬼水軍のところへ向かった。
買い付け隊が四万文。
九鬼水軍への一万文。
地侍たちの伊勢見物用の一万文。
昨日渡した身代金の一万文。
ヨイチは道中、帳面を抱えながらぶつぶつ言っていた。
「旦那様、朝から銭の飛び方がおかしいです」
「投げてるんちゃう。道を作ってるんや」
「便利な言葉ですね」
「便利や」
九鬼水軍の屋形に着くと、いつものごつい男が博之たちを迎えた。
「おう、来たか。今日はまた大人数やな」
「お世話になります」
博之は一万文の包みを差し出した。
「定期便と、今回の伊勢行き、よろしくお願いいたします」
「また律儀に包んできたな」
「船を動かしてもらうので」
九鬼の男は包みを受け取りながら、地侍たちを見た。
「で、そこの荒っぽいのは何や」
六人の地侍は、九鬼水軍の男たちを前にして、さすがに少し身構えた。海の男たちは、
地侍とはまた違う荒さを持っている。刀よりも、船と潮と揉め事で鍛えられた顔だった。
博之は、さらりと事情を説明した。
「昨日、名張と上野の者を連れてきまして。護衛料という名の身代金で一万文を求められました」
九鬼の男が吹き出した。
「いきなりやな」
「払いました」
「払ったんかい」
「はい。その後、飯を食わせて、風呂に入れて、泊めました」
「お前、何してんねん」
「今日は伊勢に連れていきます。内宮でうちのすり身が売れるところを見せようと思いまして」
九鬼の男は、地侍たちを見て、にやにや笑った。
「お前ら、身代金取りに来て、伊勢参りに連れていかれるんか」
年かさの地侍は、気まずそうに言った。
「……そうみたいや」
「しかも銭までもろた顔しとるな」
地侍たちは黙った。
九鬼の男は大笑いした。
「絡む相手を間違えたな。こいつは斬るより、飯食わせて船に乗せる方を選ぶ変な飯屋や」
「飯屋です」
博之が言うと、九鬼の男はさらに笑った。
「普通の飯屋は、地侍に身代金払ってから伊勢見物代まで渡さんわ」
地侍たちは、ますます居心地悪そうにしていた。
だが、その顔には昨日のような敵意はない。
あるのは、困惑と、少しの期待だった。
これから本当に伊勢へ行くのか。
内宮で百文のすり身が売れるのか。
九鬼水軍の船に乗るのか。
自分たちは、いったい何に巻き込まれているのか。
博之は、その顔を見て言った。
「見てから決めたらええ。戻るもよし、つながるもよしや」
九鬼の男が肩を叩く。
「ほな、船に乗れ。海は広いぞ。山の道しか知らんやつには、ええ薬や」
地侍の若い一人が、ごくりと唾を飲んだ。
そして一行は、伊勢へ向かう船に乗り込んだ。
昨日まで身代金をせびっていた六人が、今日は一万文を抱え、伊勢参りへ向かう。
ヨイチはその後ろ姿を見ながら、呆れたようにつぶやいた。
「旦那様、また変な縁が増えましたね」
「縁は飯からや」
「今回は身代金からです」
「飯で上書きした」
「便利ですね、飯」
「ほんまにな」
船が動き出す。
松坂の港を離れ、伊勢へ向かって水面が開けていく。
六人の地侍は、潮の匂いと船の揺れに、ただ黙っていた。
彼らの知っていた道とは違う道が、目の前に広がっていた。




