博之が1年前、自分は無一文だった話をする。1年で人は代われるが諦めたやつを拾う気はない。取りあえず明日伊勢いこう。
六人が麦茶と饅頭に手を伸ばしかけた時、博之はふと思い出したように手を上げた。
「飯に入る前に、もう一つだけ話を聞いてくれ」
年かさの地侍が、少し警戒した顔をした。
「まだあるんか」
「ある。これを言わんと、たぶんわしの話は薄っぺらく聞こえる」
博之は、湯気の立つ豚汁の鍋を見ながら、少しだけ遠い目をした。
「わしな、去年の三月までは無一文やった」
六人の顔が変わった。
「無一文?」
「そうや。食うに困って、松坂の普請に行った。二週間、冷や飯と薄い味噌汁で
なんとか食いつないだ。普請が終わったら、さあどうしようかなと。腹は減るし、
寝る場所もないし、金もない」
ヨイチは黙って聞いていた。
「で、松坂の郊外にあったぼろ小屋で、豚汁屋を始めた。米を炊いて、豚汁を作って、
まあ一人食う分にはなんとかなるかなっていう程度や」
博之はヨイチを指さした。
「その時、じーっと飯を見てたのが、こいつや」
ヨイチが少し顔をしかめる。
「旦那様、その話は何度もされると、少し恥ずかしいです」
「ええやろ。大事な話や」
博之は続けた。
「ヨイチは、飯を見てた。何も言わんと、じーっとな。だから、飯と寝床だけ用意するから、
とりあえず薪持ってこい、手伝えって言うた。最初は十文やったかな。そんなもんや」
「十文……」
若い地侍がつぶやいた。
「それが今、こいつは一日百八十文や。帳面を見て、わしに文句を言う係になってる」
「文句ではなく、管理です」
「文句や」
「管理です」
座敷に少しだけ笑いが起きた。
博之は六人を見た。
「つまりな。一年で変わることはある。もちろん、わしはたまたま人に恵まれた。
飯を食ってくれる人がいて、働いてくれる人がいて、怒ってくれる人がいて、
笑ってくれる人がいた。だからここまで来た。けど、変われるか変われへんかで言えば、変われる」
地侍たちは、先ほどよりも静かに聞いていた。
「なあ、ヨイチ。わし、この一年でどれだけ寄進した?」
「めちゃくちゃしております」
「言い方」
「事実です。寺、神社、港、郊外、伊勢、津、あちこちです」
「お花さん、わし、お殿様たちとどれぐらい会うてる?」
お花が苦笑した。
「松坂の上の方、九鬼水軍の方、長野様、内宮さん、いろいろな方とお話されていますね」
「茶飲み感覚で会ってるって言われたな」
「実際、九鬼水軍さんとはかなり気安くなっています。釣りの会までされましたし」
博之は笑った。
「そうや。この前、松坂の者と港町の横丁の者と九鬼水軍に銭を包んで、
釣りイベントをしたんや。わけ分からんやろ」
地侍の一人が思わず言った。
「ほんまにわけ分からん」
「やろ。わしも分からん。金の使い方が分からなさすぎて、飯会、釣り、寄進、買い付け、
いろいろやってる」
博之は一度、言葉を切った。
「けどな、これだけは言える。一年で変われる。わしはそれを知ってる」
その声は、少し低かった。
「ただし、人生を投げ出したやつを救う気はない。諦めきって、誰かが何とかしてくれるやろ
って座り込んだやつを、わざわざ背負う気はない」
名張の者と上野の者が、少し姿勢を正した。
「この話は、名張の者にも、上野の者にもした。助けてくれと言うなら、何か作れ。何か持ってこい。
何に失敗したか報告しろ。読み書きでも、品物でも、情報でもええ。とにかく動けと」
博之は、名張の者たちが持ってきた荷を見た。
「それで、この二人は一か月分の成果を持ってきてくれた。たぶん大した量ではない。
失敗もあるやろ。けど、持ってきた。それが大事や」
六人は黙っていた。
博之は、座敷の真ん中に置いた一万文を指さした。
「この一万文が怖かったら、あんたらが握っといたらええ。刀も持ったままでええ。
風呂も三人ずつ、半分半分で入ればええ。こっちは別に取って食う気はない」
お花が静かに頷いた。
「湯浴みの間に、今の服は洗っておきます。替えの服もございます」
「うちの新入り用の服があるやろ。今日はそれを着たらええ。明日、服が乾いたら、
自分のを着ればええ」
博之は、さらに続けた。
「飯を食う。湯に入る。麦茶と饅頭を食う。服を洗う。今日はここで寝る。それで、
明日、九鬼水軍に話を通して、伊勢へ行く準備をしよう」
「ほんまに行くんか」
「行く。お参りする。内宮でうちの飯がどう売れるか見る。魚のすり身が百文になるところを見る。
朱印の紙を持った客が歩くところを見る」
年かさの男が低く聞いた。
「それを見て、わしらに何をしろと」
「その後で決めろ」
博之は即答した。
「護衛になるのか。買い付けになるのか。伊賀の道を調べるのか。信楽焼を持ってくるのか。
大和の細麺を探すのか。うちとは合わんと言って帰るのか。見てから決めればええ」
和尚が静かに口を開いた。
「見てから決める、というのはよいことですな。人は、知らぬものを選ぶことはできません」
「そういうことです」
博之は頷いた
「わしは一年前、寝なし草で、食うに困ってた。そこから今ここにいる。だから、
変われることは知ってる。けど、変わる気のないやつを引っ張るほど、わしはできた人間やない」
六人は、ようやく少しだけ視線を落とした。
目の前には飯がある。
一万文もある。
湯もある。
替えの服もある。
そして、明日には伊勢へ行く話がある。
あまりにも話が大きすぎて、すぐには飲み込めない。
だが、さっきまでの「一万文を取って帰る」だけの空気では、もうなくなっていた。
若い地侍が、小さく言った。
「……飯、食ってええか」
博之は笑った。
「もちろんや。冷める前に食え」
年かさの男が、一万文の包みを見てから、博之を見た。
「これは」
「置いとく。怖いなら、あんたらの横に置いとけ」
「逃げたら?」
「逃げたら、それまでや。わしの見る目がなかっただけや」
ヨイチが小さくため息をついた。
「旦那様、それは高い勉強代です」
「一万文で済むなら安いやろ」
「最近、感覚がおかしいです」
「元からや」
少しだけ笑いが起きた。
六人は、まだ警戒を解いてはいない。
刀も手放さない。
一万文も横目で見ている。
けれど、箸を取った。
豚汁をすすり、混ぜ飯を食い、すり身天を口に運ぶ。
その顔が、少しずつ変わっていく。
和尚は、その様子を静かに見ていた。
物語として残れば儲けものだと、博之は言った。
たしかに、これは一つの物語になりそうだった。
無一文の豚汁屋から始まった男が、身代金を持ってきた地侍に飯を食わせ、
湯を用意し、伊勢を見に行こうと言っている。
馬鹿げている。
だが、飯の匂いは本物だった。
博之は、六人が飯を食べる姿を見ながら、静かに言った。
「見てからも遅くないやろ」
誰も、すぐには答えなかった。
けれど、箸の動きだけは止まらなかった。




