4月後半の帳簿の時間と思いきや長野家の家臣が訪問。従業員向けの定期便を回してほしい。まずは小さく1万文から
数日経っても、博之は相変わらず屋敷でごろごろしていた。
津の寺で長野の殿様と向き合った時の緊張が、まだ体の奥に残っている。
あの時、言葉を一つ間違えれば、本当に斬られていたかもしれない。九鬼水軍を呼んでおいて
よかった。住職がいてくれてよかった。飯がうまくてよかった。
そんなことを考えながら、博之は布団の上で麦茶をすすっていた。
そこへ、ヨイチが帳面を抱えて入ってきた。
「旦那様、楽しい楽しい帳簿の時間ですよ」
「楽しくない」
博之は即答した。
「俺はこの前まで殺されそうになっとったんやぞ」
「でも、結局、津が開いちゃったじゃないですか」
「その言い方やめろ」
「港と郊外の横丁、許可が出ましたね。また帳簿が増えます」
「ほんま嫌や」
「しかも、津の港と津の郊外に拠点を作らないといけません。また金が動きますね」
「動かしたくて動かしてるんちゃう」
「でも動きます」
ヨイチは淡々と帳面をめくった。
「それに、次回からすり身と鮪の値段も見直しますし」
「ああ、それな。次から上げるからな」
「もう上がってます」
「は?」
「伊勢城下の方で、すり身は七十文にそろえる方向で話が進んでおります。鮪鍋も量を調整して五十文。
津も次からその流れを見て調整します」
「なんで話が進んでんねん」
「内宮さんに怒られる前に、さっさと整えた方がいいと思いまして」
「怖い。俺の知らんところで値段が上がってる」
「旦那様が寝ている間にも、飯は動きます」
「嫌な名言みたいに言うな」
博之が頭を抱えていると、表から来客の知らせがあった。
長野家からの使いである。
「またか」
「今回は、お礼の挨拶のようです」
「ほんまか。斬り直しちゃうやろな」
「たぶん違います」
通されたのは、いつも博之との間を取り持っている長野家の家臣だった。先日の寺の一件では、
冷や汗を流しながら殿様の横に立っていた男である。
博之は座り直し、苦笑して迎えた。
「先日は大変でしたな」
家臣は深く頭を下げた。
「いえ、こちらこそ、本当に申し訳ございませんでした。殿のことで手いっぱいで、
松坂屋殿への配慮が足りませんでした」
「いやいや。切られずに済んだので、よかったです」
「本当に、切られていたらとんでもないことになっておりました」
家臣は真顔で言った。
「下手をすれば、港の者や飯を食べた領民たちが、騒ぎを起こしていたかもしれません」
博之は思わず笑った。
「いやいや、そんな大げさな」
「笑いごとではございません」
「まあ、殿様おらへんし、ちょっとくらい笑っても」
「松坂屋殿は、本当に肝が太いのか、危ういのか分かりませんな」
ヨイチが横から小声で言う。
「危うい方です」
「うるさい」
博之は咳払いした。
「それで、本日はお礼参りということで?」
「それもございます。ただ、それだけではございません」
家臣は少し姿勢を正した。
「先だって、津の港と郊外に横丁を開いていただける話になりました。殿も、
あの後はだいぶ考えられたようです」
「そうですか」
「元々、こちらからは、津の物を買い付けてほしいというような話をしておりました。
しかし、あれは考えてみれば、こちらに都合のよい話でした。伊勢松坂屋殿に買わせるだけでは、
こちらばかりが得をいたします」
「まあ、そういう面はありますね」
「そこで、殿が申されまして。横丁を開いてもらうなら、こちらも何かせねばならぬ、と」
「ほう」
「ありていに申せば、定期便を津にも回してほしいのです」
博之はヨイチを見た。ヨイチはすぐに帳面を開いた。
「定期便ですか」
「はい。松坂や伊勢で買い付けている品、伊勢松坂屋殿が従業員向けに売っている品を、
津の港や郊外にも回していただきたい。値段は、そちらの言い値で買います」
博之は手を振った。
「いや、うちは値段を変えませんよ」
「変えない、とは」
「うちは従業員向けに、元値の一・五倍で売ってます。運ぶ手間、売れ残りの危険、見立ての手間込みで
その値段です。津だから高くする、長野様だから安くする、ということはしません」
家臣は少し驚いたようだったが、すぐ頷いた。
「それで構いません。むしろ、その方がありがたいです。筋が見えますので」
「津に横丁を作るなら、港と郊外には定期便を回す形になります。半月で伊勢便、
松坂便、それぞれ四万文ほど買い付けている。その一部を津にも流すことになりますね」
「はい。その中で、津の者や、こちらの者にも買わせていただきたいのです」
「金額はどれぐらいを見ています?」
家臣は少し考え、それから言った。
「まずは一万文からでいかがでしょうか」
「一万文」
「はい。いきなり大きくやるより、まずは津の港と郊外で、どのような品が
喜ばれるのかを見たいのです」
「それは現実的ですね」
ヨイチが頷いた。
「一万文分であれば、定期便に乗せることはできます」
博之も頷いた。
「分かりました。では、一万文分仕入れて、こちらの一・五倍の売値で回せる品を津へ送ります」
「ありがとうございます」
「ただ、津の方々が欲しいのは、松坂の日用品というより、名産品の方ですかね」
「おそらく、そうです」
家臣は少し身を乗り出した。
「松坂の木綿、良い布、草履、手ぬぐい。そういうものももちろんありがたいです。
ただ、やはり伊勢の品は喜ばれます」
「内宮さんで買えるようなものですか」
「はい。お札そのものは扱いが難しいでしょうが、お札以外の小物、香袋、紙、櫛、菊の飾り、
ちょっとした土産のようなもの。伊勢神宮は、同じ伊勢国にあるとはいえ、普段行けぬ者も
多いのです」
「なるほどな」
「そこに、伊勢松坂屋殿の便で“伊勢のもの”が来る。それだけで楽しみになります」
博之は少し遠い目をした。
「うちの女衆が買い付けで喜んでたのと同じやな」
「おそらく」
「じゃあ、津便は最初、伊勢の小物と松坂の実用品を混ぜましょう。伊勢の小物で気分を上げて、
松坂の布や日用品で実用を取る」
ヨイチが書き留める。
「品目は、香袋、櫛、紙、小さな飾り、手ぬぐい、布、草履、簡単な器あたりでしょうか」
「あと、食べ物はどうしますか」
「乾き物ならありです。饅頭は日持ちが怖い。漬物は少し。味噌玉や調味料は試してもいい」
家臣は何度も頷いた。
「それで十分です。こちらでも、まずは港と郊外で欲しいものを聞きます」
「逆に、津からその便に乗せたいものはありますか」
「それもお願いしたいところです」
家臣は言った。
「魚そのものは難しいでしょうが、干したもの、塩をしたもの、網、縄、港の道具、あるいは
津で作れる小物。そういうものを、松坂や伊勢へ少し流していただければ」
「なるほど。片道で空にせず、戻りにも荷を乗せる」
ヨイチがすぐ反応した。
「それなら運賃の筋がよくなります」
「そうやな」
博之は頷いた。
「とりあえず、津便は一万文から始めましょう。こちらから伊勢と松坂の品を一万文分。
戻りに津の品も試しで乗せる。売れたら増やす。売れなかったら、うちで使うか、まかないに回す」
「まかないに回せない物もありますよ」
「それは購買棚に置く」
「便利ですね、購買棚」
「便利や」
家臣は、少しほっとしたように笑った。
「正直、殿の話でまた揉めるかと思っておりました」
「揉めたくはないです。私も切られたくないので」
「こちらも、もう胃が痛いのはこりごりです」
博之は笑った。
「では、小さく始めましょう。津の港と郊外に横丁を作る。その準備と並行して、
定期便を一万文から回す」
「はい」
「それで、津にも銭が落ちる。うちの者も買う。長野様の顔も立つ」
「ありがたいです」
ヨイチがぼそりと言った。
「旦那様、また帳簿が増えましたね」
「言うな」
「津便一万文、港横丁、郊外横丁、戻り荷、購買棚」
「言うなって」
長野家臣は申し訳なさそうに笑った。
「ご面倒をおかけします」
「いや、ええんです。飯屋は面倒で大きくなるみたいなんで」
ヨイチが冷静に言う。
「旦那様の場合だけです」
こうして、津との新しい定期便の話はまとまった。
最初は一万文。
伊勢と松坂の品を津へ。
津の品を松坂と伊勢へ。
値段は一・五倍。
港と郊外の横丁準備と並行して、小さく始める。
博之は見送りながら、ぽつりと言った。
「また道ができたな」
ヨイチが帳面を抱えて答えた。
「はい。また帳簿も増えました」
「そこは言わんでええねん」
津の飯会から、津の横丁へ。
そして津の定期便へ。
飯を食わせたことで、また銭の流れが一つ増えてしまった。




