津の寺で飯会開始。住職と事情を話しながら雑談。無料分がはけてしばらくすると長野家のお殿様がきた
津の寺の境内には、朝から人が集まっていた。
前回の飯会で食べ損ねた者。
鮪の噂を聞いた者。
魚のすり身がうまいと聞いて、半信半疑で来た者。
そして、ただ腹を空かせて来た者。
鍋からは鮪の出汁の匂いが立ちのぼり、揚げ場ではすり身が油の中で音を立てていた。
だが、いつもと少しだけ違うものがあった。
九鬼水軍の者が、寺の中にいる。
しかも、刀を帯びたままである
寺の住職は、それを見て少し困った顔をしながらも、博之の説明を聞いていた。
「住職様、すみません。本来でしたら、お寺の中で刀を帯びてもらうのは、あまりよいことでは
ないと思っております」
「まあ、そうですな」
「ただ、今回ばかりは事情が事情でして」
博之は、ちらりと九鬼の者たちを見た。
「長野のお殿様がお見えになるかもしれません」
「はい。それは伺っております」
「で、私は、ばっさりいかれるかもしれません」
住職は一瞬、言葉を失った。
「……ばっさり、ですか」
「はい。かなり現実味があります」
九鬼の若い衆が横で笑う。
「旦那、そんなに切られたいんですか」
「切られたくないからお願いしてるんです」
博之は真顔だった。
「私は今日、長野様に申し上げるつもりです。城へ飯は持っていけません、と」
住職は、少し目を細めた。
「それは、殿様がお怒りになるかもしれませんな」
「なると思います」
「それでも、ですか」
「はい」
博之は深く頭を下げた。
「私はまだ、津に店を持っておりません。横丁もありません。今日はこの寺をお借りして、
飯会をしているだけです。そこで城へ飯を持っていけば、長野様のお抱え料理人のように見えます。
それは、津の飯屋や商人に筋が通りません」
「なるほど」
「それに、飯は熱い方がうまいです。鮪も、すり身も、ここで作って、ここで食べていただくから
値打ちがあります。城まで運べば、味も落ちます」
「飯屋としての筋ですな」
「はい。飯屋としての筋です」
住職は、九鬼の者たちを見た。
「それで、九鬼様方に刀を帯びてもらっていると」
「はい。私が切られそうになった時に、せめて一呼吸置いていただければと」
「一呼吸ですか」
「その一呼吸で、謝るなり、逃げるなり、土下座するなりできます」
九鬼衆がげらげら笑った。
「旦那、土下座はするんか」
「命がかかってたらします」
「筋はどうしたんや」
「筋は命あってのものです」
住職もつい笑ってしまった。
「しかし、松坂屋さんも変わった方ですな。百人分を無料で振る舞い、さらに二百人分を売る。
その上で、殿様に怒られる準備をしている」
「私も、なんでこんなことになってるのか分かりません」
博之は少し遠い目をした。
「ただ、近所の方々が喜んでくださっているのはありがたいです」
実際、境内の外では、すでに人々がそわそわしていた。
「今日は百人無料らしいぞ」
「この前食えへんかったからな」
「鮪ってほんまにうまいんか」
「すり身の平たいのがええらしい」
住職はその様子を見て、静かに頷いた。
「皆、楽しみにしておりますな」
「はい。ですので、百人分はきっちり振る舞います。ただし」
博之は、店の者たちに声をかけた。
「無料分を食べ終わった方は、いったん外へ出てもらってください」
女衆の一人が頷く。
「承知しました」
「今日は後でお殿様が来られる可能性がある。境内が混みすぎても困るし、
何より飯が全部なくなったら困る」
ヨイチが横でぼそりと言う。
「飯がない状態で殿様が来られたら、確実に話がこじれますね」
「こじれるどころやない。まじで切られる」
「また切られる話ですか」
「今日はそれしか考えてへん」
博之は真剣だった。
「殿様との話は、飯があることが前提なんや。熱々の鮪とすり身を食べてもらった上で、
“城へ運ぶより、ここで食べた方がうまいでしょう”って話をする。飯が売り切れました、
では終わりや」
「殿様も食べられず、領民だけが食べた、と」
「そうなったら、わし何しに来たんやってなるやろ」
「なるでしょうね」
「しかも、そこでわしが“城へは持っていきません”って言うんやぞ。最悪や」
九鬼の若い衆が笑いながら言う。
「旦那、未来が見えすぎてますね」
「見えてるんや。見えてるから怖いねん」
博之は指を折りながら言った。
「まず、長野様が来る。なんで松坂の飯屋が、普通なら城へ持ってくるべき飯を、
寺まで食いに来させるんや、と怒る」
「はい」
「わしは、筋を通すためです、と言う。城へ運べば、長野様のお抱え飯屋に見える。
津の店でもないのに、それはできません、と言う」
「はい」
「周りの人は、飯を持ってきてくれただけなのに、なんでそんなひどい言い方をするんや、
って思うかもしれん」
「ありえますね」
「それで長野様がさらに怒る。領民の前で恥をかかされた、みたいになる」
「かなり危ないですね」
「そこで、九鬼様がいる」
博之は九鬼衆を見た。
「私と九鬼様、まとめて切られそうになる」
「なんでうちまでや」
「一緒におるからです」
「巻き込み方が雑やな」
「すみません」
住職が、少し青ざめた顔で言った。
「何それ、怖いですね」
「怖いです」
博之は即答した。
「でも、やらないといけません。ここで城へ飯を持っていくと、今後ずっと“飯を持ってこい”
になります。長野様だけではありません。別のところからも言われます。うちは飯会を
したいのであって、殿様専用の台所になりたいわけではありません」
住職はしばらく考え、それから静かに頷いた。
「分かりました。寺としても、場は整えます。無料分を召し上がった方には、
外へ出ていただきましょう。殿様が来られるなら、席も空けておきます」
「ありがとうございます」
「ただし、松坂屋さん」
「はい」
「本当に、言葉にはお気をつけください」
「はい」
「飯がうまいからといって、言葉まで熱くしすぎると危のうございます」
九鬼衆が笑う。
「住職、うまいこと言うな」
「笑いごとではありません」
「ほんまです」
博之は深く頷いた。
やがて、飯会が始まった。
先着百人に、鮪の煮込みとすり身の天ぷらが振る舞われる。
受け取った者たちは、最初は遠慮がちに、次第に夢中になって食べた。
「うまい」
「鮪ってこんな味するんか」
「このすり身、熱いけどうまいな」
「前回食えへんかったから、今日来てよかったわ」
喜ぶ声が境内に広がる。
博之はそれを見て、少しだけ安心した。
しかしすぐに、ヨイチが横から言った。
「旦那様、無料分がもう半分ほど出ています」
「早いな」
「早いです」
「販売分は?」
「残しています。殿様用も別に確保しています」
「絶対に守れ」
「はい」
無料分を食べ終えた人々には、寺の者と伊勢松坂屋の女衆が丁寧に声をかけた。
「申し訳ありません。後ほど殿様がお見えになるため、いったん外へお願いいたします」
「外で販売もございますので、よろしければそちらへ」
「今日は混み合いますので、ご協力ください」
不満を言う者も少しはいたが、腹が満たされた者は、おおむね素直に外へ出ていった。
それでも寺の外には、まだ人が多い。
そして、そのざわめきの向こうから、長野家の一行が近づいてくる気配がした。
博之は、思わず深呼吸した。
「来たか」
ヨイチが小さく言う。
「来ましたね」
九鬼衆が刀を帯びたまま、少しだけ姿勢を正す。
住職も衣を整える。
博之は手を合わせ、心の中で呟いた。
切られませんように。
飯が冷めませんように。
言葉を間違えませんように。
その横で、ヨイチが低く言った。
「旦那様」
「なんや」
「まずは飯です」
博之は小さく笑った。
「そうやな。飯屋やからな」
鮪の鍋が、まだ熱く湯気を立てていた。




