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4月前半の帳簿。実は前回は資金が減っていた。今回、名張方面の施しまでしたのにまた増えてトントン。137万9千文

旦那様、楽しい楽しい帳簿の時間でございます。

 ヨイチがそう言って帳面を抱えて入ってきた瞬間、博之は布団の上で顔をしかめた。

「楽しいのはお前だけや言うてるやろ」

「いえいえ、今回はかなり楽しいですよ」

「その言い方が一番怖いねん」

「では、四月前半の帳簿を見てまいりましょう」

 博之はごろりと横になったまま、麦茶をすすった。

「その前に、三月末は結局どうやったんや。なんか帳簿から逃げ回ってた気がするけど」

「逃げ回っていたのは旦那様です」

「それは認める」

「で、三月末ですが、実は松坂はマイナスでございます」

「は?」

 博之が起き上がった。

「マイナス?」

「はい。松坂単体では、マイナス八万四千七百文ほどでございます」

「なんでや。あれだけ回ってたやろ」

「回ってはいました。むしろ通常の商いではプラスです。ただ、寄進をかなりされましたよね」

「ああ……」

「それに、印を作りました。焼印、木印、朱印判、油吸い紙、その他諸々。あのあたりが

まとまって乗っております」

「丸に井戸の井のやつか」

「はい。あれは飯の道具ではなく看板だと旦那様が言い張ったやつです」

「言い張ったんちゃう。実際看板や」

「看板は高うございました」

 ヨイチは淡々と言った。

「その結果、松坂はマイナス八万四千七百文。伊勢はプラス三万文ほど。合わせて見ると、

 三月末時点では少し減っております」

「いくら残ったんや」

「百三十二万三千五百文でございます」

「おお……少し減っとったんかい」

「はい」

「まあ、それぐらいやったらええな。むしろ減って安心するわ」

 ヨイチが帳面をめくった。

「まだ聞いてください」

「まだあるんか」

「まず、今回の数字には、内宮さんで売った分の売上を入れておりません」

「なんで入れへんねや」

「入れてもよかったのですが、初回は諸経費と試作費、運搬、紙、準備、手間でほぼ消える扱いに

 しています」

「ああ、まあそれならええか。内宮の初回は宣伝やしな」

「そうです。ただし、あの初回のおかげで、次の飯市場が大きく変わります」

 ヨイチの声が少し低くなった。

「内宮で、鮪とすり身が売れました。しかも八十文、百文で売れました」

「売れたな」

「一刻で売り切れました」

「売れたな」

「すると、必ず言われます」

「何を」

「普段売っているすり身棒は、量が多すぎる。値段が安すぎる、と」

 博之は黙った。

「内宮さんで量半分、値段倍が通った以上、伊勢港、伊勢城下、松坂、津の値段と大きさを

 見直す必要があります。そうしなければ、買って転がす者が出るかもしれません」

「それは船の上でも話した」

「はい。ですので、来期以降がやばいです」

「やばいって言い方やめろ」

「数字がやばいです」

「もっとやめろ」

 ヨイチは構わず続けた。

「すり身は、原価が低い。しかも大きさを少し小さくできる。値段は上げられる。

 味違いで複数買わせることもできる。普通、しそ、ごぼう、しょうが、イカ足、タコ足。

 これで回転が増えます」

「うん」

「ざっくり、利益率は二・五倍から三倍を見てもよいかと」

「……怖いな」

「怖いのは来期以降です」

「二回言うな」

「大事なので」

 お花が横でくすりと笑った。

 ヨイチは次の帳面を開く。

「さて、四月前半です。三月末に一度減りましたが、その後の計算を入れます。

 伊賀・名張方面に施した分も入れました」

「あの二万五千文とか、袴とか、食料とかか」

「はい。それも入れました」

「ほな、また減ったやろ」

「松坂は、プラス二万八千文でございます」

「なんでや」

 博之がまた起き上がった。

「今、施し入れた言うたやん」

「入れました。それでもプラスです」

「おかしいやろ」

「松坂の売上自体は大きく変わっていません。ただ、買い付け品の利益が安定して乗り始めています。

 布団、伊勢小物、購買棚、傘、焼き飯、その他細かいもの。これらが地味に効いております」

「地味にって額ちゃうやろ」

「松坂の利益は七十三万三千文ほど出ております」

「何それ怖い」

「はい。怖いのは来期以降です」

「また言うた」

「伊勢もございます」

「もう聞きたくない」

「聞いてください。伊勢は、港、郊外、内宮準備、伊勢城下立ち上げの前段階を入れた上で、

 プラス二万七千六百文です」

「伊勢もプラスなんか」

「はい」

「立ち上げで金使ってるのに?」

「使っています。ただ、港がかなり回り始めています。鮪とすり身の評判が出ていますし、

 内宮効果で“あの伊勢松坂屋の品”という見方が出始めています」

「まだ名物とは言うてへんぞ」

「言っていないからこそ、周りが勝手に言い始める段階です」

 博之は頭を抱えた。

「嫌な段階やな」

「良い段階です」

「お前、ほんま怖いな」

 ヨイチは帳面の最後を指で叩いた。

「松坂プラス二万八千文。伊勢プラス二万七千六百文。合わせて、四月前半はプラス

 五万五千六百文ほどでございます」

「つまり?」

「三月末に減った分が、ほぼ戻りました」

「いくら残った」

「百三十七万九千百文でございます」

「……増えとるやんけ」

「戻っただけです。三月末から見れば、ほぼプラスマイナス一万文程度です」

「その言い方でごまかすな。寄進して、印作って、伊賀と名張に施して、内宮で試して、

 津で飯会して、それで戻るんか」

「戻りました」

「なんでや」

「旦那様がいろんな口を作ったからです」

 ヨイチは珍しく、少しだけ真面目な顔をした。

「松坂は安定しています。伊勢は伸び始めています。津は飯会で手応えがあります。伊賀・名張は

 まだ施しですが、信楽焼と三輪細麺の道が見えています。内宮では値段の上限が見えました。

 すり身は、これから利益構造そのものが変わります」

「やめろ。聞いてるだけで胃が痛い」

「旦那様」

「なんや」

「戦国大名になりますよ」

「ならんわ!」

 博之は即座に叫んだ。

「また睨まれるやんけ! 北畠様にも、長野様にも、九鬼様にも、内宮さんにも、

 周りの飯屋にも睨まれるやんけ!」

「すでに見られてはいます」

「もっと嫌や!」

 お花が笑いながら言った。

「でも、旦那様。これだけ金が動いているなら、使い方を考えないといけませんね」

「考えたらまた増えるやろ」

「考えなくても増えております」

「最悪や」

 ヨイチが帳面を閉じる。

「次の半月は、伊勢城下の立ち上げ、津の長野様対応、すり身の値段見直しが入ります」

「全部揉めそうやな」

「はい」

「帳簿から逃げてええか」

「だめです」

「ちょっとだけ」

「だめです」

 博之は布団に倒れ込んだ。

「飯屋やぞ……ただの飯屋やぞ……」

 ヨイチは冷静に言った。

「ただの飯屋は、百三十七万文も持ちません」

「言うな」

「ただの飯屋は、内宮で百文飯を売り切りません」

「言うな」

「ただの飯屋は、伊賀と名張に袴を渡して、信楽焼と三輪素麺の道を考えません」

「もう寝る」

「寝ても帳簿は残ります」

 座敷に笑いが起きた。

 だが、博之だけは本気で頭を抱えていた。

 金は減らない。

 むしろ使うたびに道ができる。

 道ができるたびに、また金が増える。

 嬉しいはずなのに、怖い。

 その怖さこそが、今の伊勢松坂屋の帳簿だった。

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