内宮から帰宅後昼寝をした博之が夜に報告会をする。女衆も興奮冷めやらぬようだ。お茶一杯30文の世界
夜になって、買い付け方の女衆が本店の奥座敷に集められた。
内宮での買い付けを終え、飯も食い、店々も見て回り、戻ってきたばかりである。
皆、少し疲れてはいるが、顔は明らかに高揚していた。
博之は布団に座り、麦茶を前に置いたまま、先に口を開いた。
「お前らの話を聞く前に、ちょっと聞いてくれ」
「はい」
「わしは今日、震えた」
女衆たちは少し笑った。
「旦那様、船の上でもずっと震えてはりましたよ」
「うるさい。いや、ほんまに震えたんや」
博之は手を広げた。
「今日出した鮪の煮込み、量で言うたらいつもの半分やぞ。半分の量やのに、
あの値段で売れて、しかもそれだけで九鬼様の船賃に化けるんやぞ。とんでもないわ」
ヨイチが横で頷く。
「実際、数字で見るとかなりおかしいです」
「おかしいやろ」
女衆の一人が身を乗り出した。
「それはほんまに思いました。だって、お参りして戻ってきたら、全部売り切れてるんですもん」
「ほんまですよ。私ら、最初に買って食べた時は、八十文とか百文って高いなって思ったんです。
でも戻ったら、もうないんですもん」
「松坂やったら、豚汁の定食とか、うちらまかないで普通に食べてますやん。横丁でも
しっかり二食食えますし。それを考えたら、あの量をあの値段で買う人がいるんやって、
びっくりしました」
博之は深く頷いた。
「伊勢神宮って、すごいな」
「すごいです」
「ほんまにすごいです」
「でも、中でいろいろ買って分かったんですけど、茶でも団子でも何でもめちゃ高いですわ」
別の女衆が興奮気味に言った。
「お茶飲みに行ったら、なんでお茶が三十文もするんやろって思いました」
「うちも飲んだ。三十文やった」
博之が顔をしかめる。
「しかも、そんなめちゃくちゃうまいか言うたら、そうでもない」
「そうなんです。でも座って休めるから、みんな払うんですよ」
「場所代やな」
ヨイチが言うと、博之は腕を組んだ。
「だからと言って、うちが調子乗って茶を出したら、近くの茶屋にめちゃくちゃ切れられる。
お茶一つでも注意せなあかん」
「お茶一つで、ですか」
「お茶一つでや。怖いやろ」
「でも、鮪食べてると、ちょっと飲みたくなりますよね。味が濃いですし」
お花が言うと、博之はうなずいた。
「そこなんよ。鮪には茶か水が欲しい。でも茶を出したら茶屋に喧嘩売ることになるかもしれん」
「水ならどうですか」
「内宮さんやぞ。近くの川の水ですら値段つきそうや」
その言葉に、座敷がどっと笑った。
「いやいや、さすがに川の水は」
「でも、笑いで済まないのが怖いですよね」
「そうそうそうそう」
博之は真顔で頷いた。
「ほんまに怖い。座る、飲む、包む、歩く。全部に値段がつく場所や」
そこで、博之はようやく本題に戻った。
「で、買い付けはどうやった」
女衆たちの顔がぱっと明るくなった。
「おおむね順調でした」
「前より、かなり馴染んできたと思います」
「向こうのお店の人も、“伊勢松坂屋さんの子らやろ”って感じで見てくれます」
「買い付けの額が、三万文から四万文に上がったじゃないですか。だからか、
向こうもかなり丁寧です」
「安くしてくれるわけではないんですけど、これもありますよ、こういうのは
松坂の女衆に喜ばれますよ、とか、こっちは数をそろえられますよ、とか教えてくれました」
「こっちが、いろんな商品を買って、松坂や伊勢の拠点に置きたいってことを分かってくれてる
みたいです」
お花が穏やかに聞いた。
「買っていて、やりやすかったですか」
「はい。すごく」
「私、自分の分も別で買ったんですけど、すごい丁寧に扱ってもらって、
なんか偉い人になった気分でした」
「分かる!」
「私もです。普段なら、あんなお店でゆっくり見られないですもん」
「こっちが紋付き袴で、しかもまとまった銭を使うって分かってるから、扱いが全然違うんです」
女衆たちはきゃあきゃあと話し始めた。
髪紐がどうだった。
香袋の匂いがよかった。
櫛の細工がきれいだった。
松坂の若い女衆はあれを欲しがる。
伊勢の港の子にはこっちが合う。
自分の分まで買ってしまった。
博之はその様子を見て、少し笑った。
「まあ、いろいろできてよかったな」
「はい」
「でも、今回いちばん大きいのは、内宮の端に、うちの店がちょっと出たことや」
女衆たちは、そこで少し静かになった。
「半月に一回だけ。五十個だけ。端っこだけ。けど、出た」
「はい」
「もしこれを毎日やってみい。どえらいことになるぞ」
ヨイチがぼそりと言う。
「帳簿が壊れますね」
「帳簿だけで済むかい」
博之は苦笑した。
「ほんまに、贅沢しても金が減らん病気に、みんなかかってまうわ」
女衆の一人が笑った。
「そんな病気、私かかってみたいですわ」
「私もです」
「金が減らん病気なら、ありがたいです」
座敷にまた笑いが広がる。
博之も笑ったが、すぐに少しだけ真面目な顔になった。
「それがな、夢物語で終わるならええねん」
「え?」
「笑い話で済むならええ。けど、今日の売れ方を見たら、夢で終わらん可能性がある。それが怖い」
女衆たちは互いに顔を見合わせた。
確かに、今日見たものは現実だった。
八十文、百文の飯が、内宮の端で一刻ほどで売り切れた。
自分たちが買って食べたものを、見知らぬ参拝客が次々と買っていった。
伊勢松坂屋の朱印の紙を持って歩く客を、確かに見た。
博之は静かに言った。
「だから、浮かれすぎるな。でも、見たものはちゃんと覚えとけ。値段も、客の顔も、
店の人の扱いも、茶が三十文したことも」
「はい」
「次にどう動くかは、それを聞いて決める」
お花が微笑む。
「旦那様、今日は珍しく真面目ですね」
「怖いからな」
ヨイチがすぐに言う。
「怖い時の旦那は、たまにまともです」
「たまに言うな」
また笑いが起きた。
その夜は、遅くまで話が続いた。
内宮で何を見たか。
どの店が混んでいたか。
何が高かったか。
どの客が足を止めたか。
すり身はどの味が先に消えたか。
鮪を食べた客が、どんな顔をしたか。
話せば話すほど、博之の中で、今日の出来事が現実として沈んでいった。
内宮の端に、伊勢松阪屋の飯は立った。
そして、売れた。
その事実だけで、座敷の空気はいつもより少し熱かった。
最後に博之は、麦茶を飲み干して呟いた。
「ほんま、伊勢神宮って怖いな」
女衆の一人が笑って答えた。
「でも、また行きたいです」
「そらそうやろな」
博之は苦笑した。
「わしも怖いけど、また行きたいわ」
その言葉に、皆が笑った。
怖さと嬉しさが混ざった、妙に明るい夜だった。




