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内宮での完売から数日後、津の港で飯会を行う。内宮価格とはいかないが振る舞い飯50人前と販売100人前が即完売

内宮での初回が売り切れたことで、博之はすぐに津の飯会へ意識を移した。

内宮では、すり身棒と平丸を八十文、タコ足・イカ足入りを百文、鮪の煮込みを百文で売った。

あれは内宮価格である。津で同じ値をつけるわけにはいかない。

「津では、さすがに八十文、百文では出せへん」

 博之はそう言いながら、帳面の上に指を置いた。

「すり身は全部一つ五十文。棒串も平丸も同じ。マグロも量を減らして五十文や」

「かなり下げますね」

「津ではまず味を知ってもらうのが先や。内宮さんみたいに、場所そのものに

 値段がつくわけちゃうからな」

 ただし、安売りではない。

 先着五十人には無料で振る舞う。そこから先は販売。すり身も鮪も五十文。

 津の人間がどう見るか、博之はそれを知りたかった。

 材料は松坂の港で整えた。魚をすり、しょうがを入れ、しそを刻み、ごぼうを混ぜ、

 タコ足とイカ足も少しだけ用意する。内宮の時よりは種類を絞り、味を見せることを優先した。

 朝、荷を積み、九鬼の船へ乗り込むと、船員が笑いながら言った。

「こんなに軽い感じで船を使う旦那も珍しいですよ」

「軽い感じて」

「飯会や、内宮や、津や、言うて、船を買い物の足みたいに使う人、旦那しかおりませんわ」

「ちゃんと運賃は払ってるやろ」

「それはありがたいですけどね。またうち使ってくださいよ」

「もちろんです。今日うまくいったら、またお願いします」

「うまくいくこと願ってますわ」

 軽口を交わしながら、船は津へ向かった。

 津の港に着くと、まず顔役のもとへ挨拶に行った。

「本日は、津の港で飯会をさせていただきます。まだ試しの段階ではございますが、

 どうぞよろしくお願いいたします」

 博之はそう言って、手付けとして五千文を差し出した。

 顔役は少し驚いた顔をした。

「飯会の前に、ここまでされますか」

「よその土地で飯を出させてもらうわけですから。筋だけは通したいのです」

「松坂屋さんは、噂通り丁寧ですな」

「噂が良い方ならありがたいです」

 次に、港近くの寺と神社へ参った。それぞれに五千文を寄進し、今日の飯会の場を借りる礼を述べる。

 寺の者は、包みを受け取ると目を丸くした。

「こんなことをしてくれる商人は、なかなかおりません」

「今回は、津の方々にうちの飯を知っていただくためです。場所をお借りできるだけでありがたいです」

 神社の方でも、同じように驚かれた。

「飯を振る舞うだけでなく、寄進までとは」

「飯だけ置いて帰るわけにはいきませんので」

 そうして、ようやく寺の境内に小さな飯場を整えた。

 大きな店ではない。長椅子も少し。鍋と揚げ場。油吸い紙。朱の印は、

 今回は控えめに使った。内宮ほど派手に見せるのではなく、伊勢松阪屋の品だと分かる程度である。

 まず、先着五十人に無料で配る。

 鮪の煮込み。

 すり身棒串。

 平丸のすり身。

 博之は声を張った。

「本日は、津の皆様へのご挨拶でございます。先着五十名様には、無料でお配りいたします。

 その後は、一つ五十文で販売いたします」

 最初は、遠巻きに見ている者が多かった。

「鮪やて」

「鮪なんか食えるんか」

「魚のすり身を揚げたやつらしいぞ」

 そんな声が聞こえる。

 だが、無料となると人は寄ってくる。

 最初に食べた若い男が、すり身棒をかじって目を見開いた。

「……うまい」

「ほんまか」

「熱い。けど、うまい。なんやこれ、魚臭くない」

 次に、年配の女が平丸を受け取った。

「紙で持てるのがええな」

「手が汚れにくいようにしております」

「これ、しその匂いがする」

「はい。しそ入りでございます」

「上品やな」

 鮪の煮込みは、最初こそ警戒された。

「鮪は捨てるもんやろ」

 そう言った男に、博之は何度もした説明をする。

「血抜きと下ごしらえをしっかりして、生姜や薬味で煮ております。臭みはできるだけ抜いております」

「ほな、話の種に」

 男が椀を受け取り、一口すする。

 しばらく黙ってから、彼は言った。

「……なんや、深い味やな」

「ありがとうございます」

「鮪って、食えるんやな」

 その一言で、周りの者の空気が変わった。

「わしも」

「こっちも一つ」

「その平たいの、まだあるか」

「棒もくれ」

 無料の五十人分は、あっという間になくなった。

 博之は、用意していた販売分を出す。今回は、無料分も含めておおよそ百五十人前を用意していた。

 そのうち五十人前を配り終えたので、残りは百人前ほどである。

「ここからは一つ五十文でございます」

 そう言っても、客足は止まらなかった。

「五十文か。まあ、さっき食うたらうまかったしな」

「時々のご褒美にはええな」

「子どもにも食わせたい」

「鮪をもう一つ」

 すり身棒も平丸も、次々と消えていく。

 博之は内心で首をかしげた。

 こんなにばくばく食われるものなのか。

 津の食事情は大丈夫なのか。

 そんなことを思っていると、寺の者が笑った。

「松坂屋さん、それは食事情が悪いのではなく、お宅の飯がうまいだけでしょう」

「そういうものですかね」

「そうです。初めて食べる味で、しかもうまい。そりゃ人は寄ります」

 博之は、まだ津では店を出していないことを思い出した。

 松坂や伊勢では、自分の飯に慣れている者が多い。けれど津では、まだこの味は初めてなのだ。

 だから驚かれる。

 だから食われる。

 やがて、長野家の家臣が境内に姿を見せた。

「どうですか、様子は」

 博之は少し苦笑して答えた。

「申し訳ありません。もう全部売り切れてしまいました」

「全部?」

「はい。無料分五十人前を配ったあと、百人前ほど販売したのですが、それもなくなりました」

 長野家の家臣は、目を丸くした。

「百五十人前を、この短時間でですか」

「もっと持ってくればよかったかもしれません。ただ、拠点がないので、

 今日用意できるのはこのくらいが限界でした」

「いや、十分すごいです」

 家臣は、周囲の者たちに声をかけて回った。

「どうだった」

「うまかったです」

「魚のすり身で、あんなにうまいものができるとは思いませんでした」

「鮪は驚きました。捨てるもんやと思ってましたから」

「五十文は安くはないけど、また来たら買います」

「時々の楽しみならええですな」

「子どもが喜んでました」

 評判は、上々だった。

 長野家の家臣は、ほっとしたように肩の力を抜いた。

「これは……やはり港でやる意味がありますね」

「はい。津の魚を使えるようになれば、もっと意味が出ます」

「顔役にも話がしやすくなります。実際に食べた者が、これだけ喜んでいるなら」

「次は、もう少し津の魚を使いたいですね」

「こちらで漁師衆にも話を通します」

 博之は頷いた。

「ただし、急ぎすぎないようにします。今日はあくまで飯会です」

「分かっております」

 家臣は、売り切れた揚げ場を見て、しみじみと言った。

「しかし、一回目でこれほどとは」

「私も驚いています」

「殿にも、この様子をきちんと伝えます」

「よろしくお願いします。できれば、船代の話も前向きに」

 家臣は苦笑した。

「そこも、今日の結果があれば話しやすくなります」

 境内では、まだ余韻が残っていた。

「もうないのか」

「次はいつや」

「半月後らしいで」

「今度は早めに来なあかんな」

 そんな声が聞こえる。

 博之は、それを静かに聞いていた。

 津でも、飯は刺さった。

 内宮とは違う。値段も違う。客も違う。けれど、鮪とすり身は、ここでも人の足を止めた。

 長野家の家臣は、最後に深く頭を下げた。

「本日はありがとうございました。これは、津にとって大きい一歩になるかもしれません」

 博之も頭を下げ返した。

「こちらこそ、場を整えていただきありがとうございました。飯は、まず食べてもらわないと

 始まりませんので」

 その日、津の港の寺で行われた最初の飯会は、予定より早く、そして強い手応えを残して終わった。

 百五十人前。

 無料分五十人。

 販売分百人。

 すべて売り切れ。

 津の人々は、鮪が食えることを知った。

 魚のすり身が、ただのつなぎではなく飯になることを知った。

 そして、伊勢松阪屋という飯屋の名を、少しだけ覚えた。

 博之は空になった鍋を見ながら、ぽつりと言った。

「……また、次が怖くなったな」

 ヨイチが横で答える。

「でも、これは良い怖さです」

「そうやとええけどな」

 港の風が、油と生姜の香りを少しだけ遠くへ運んでいった。

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