長野家の家臣が苦心して手紙を書き伊勢松坂屋まで訪問に来る。津の飯会の細かな打ち合わせ
長野家の家臣は、ようやく話が通った文を前にして、深く息を吐いた。
「通った……」
半月に二回、津の港で飯会を行う。港の寺と神社で、それぞれ鮪の煮込みとすり身天を出す。
先着五十人は無料。その後は販売。九鬼水軍の船代五千文は、伊勢松坂屋と長野家で折半する。
さらに、津郊外では半月に一回、寺を借りて飯会を行う。こちらは混ぜ飯、焼き飯、田楽、
汁物など、松坂から持ち込める街道飯を中心にする。
寺社への寄進、顔役への挨拶、地元の手伝いの段取りは、長野家が橋渡しする。
これだけ見れば、悪くない話だった。
いや、かなり良い話だった。
だが、そこへ至るまでが長かった。何より、殿を説得するのが骨だった。
「五千文を渋られるとはな……」
家臣は小さく呟いた。
伊勢松坂屋からすれば、十万文単位で寄進や買い付けをするような商家である。
こちらが半月五千文を渋れば、すぐに見透かされる。津は本気ではない、
長野家は口では来てほしいと言うが、自分では銭も筋も出したくないのだ、と。
それだけは避けたかった。
だから、家臣は殿に食い下がった。
そして、なんとか通した。
「次は、こちらがしくじらんことやな」
彼は慎重に文をしたためた。
先日の提案について、長野家としてありがたく受けたいこと。
津港での飯会について、九鬼水軍の船代は半分負担すること。
港の寺と神社、郊外の寺への話は、こちらで筋を通すこと。
ついては、日を見て伊勢松坂屋へ正式に挨拶に伺いたいこと。
文面は、何度も見直した。
前回のような「やらせてやる」という匂いを出してはならない。
かといって、武家の体面を崩しすぎてもいけない。
あくまで、津の地で飯会を共に整えるための挨拶である。
それでも筆を置いた後、家臣はまたため息をついた。
「しかし、すぐには動けんやろうな」
津で飯会をするだけなら、長野家の領内の話で済む。だが、実際にはそう単純ではない。
伊勢松坂屋は松坂と伊勢に根を張っている。北畠家への義理がある。伊勢港や魚の飯には
九鬼水軍の影もある。津港で鮪やすり身天を出すなら、九鬼水軍にも筋を通さねばならない。
こちらからすれば、早くやりたい。
港で鮪鍋とすり身天が売れれば、津の魚にも新しい価値がつく。寺社には人が集まり、
顔役にも利が出る。うまくいけば、やがて津にも伊勢松坂屋の小さな店ができるかもしれない。
だが、伊勢松坂屋は軽く動かない。
それが分かってしまったからこそ、家臣はもどかしかった。
「せっかくの機会なんやがな……」
特に港は期待できる。
漁で出る小魚、値のつきにくい身、あら。そういうものをすり身にし、揚げて売る。
鮪も、捨てるような部位を煮込んで飯にする。港の者からすれば、今まで捨て値だったものに
銭がつくかもしれない。
伊勢松坂屋がやっているのは、ただの飯屋ではない。
魚の値段そのものを変えるかもしれない商いだ。
そう思うと、早く進めたい気持ちが強くなる。
しかし、焦ればまた失敗する。
家臣は自分に言い聞かせるように、文を使いに持たせた。
数日後、伊勢松坂屋から返事が届いた。
挨拶に来てよい。
ただし、こちらも北畠方、九鬼方へ筋を通しながら進めるため、すぐに日取りを決めるのではなく、
まずは打ち合わせとして来てほしい。
飯会の段取り、負担、寺社と顔役への橋渡しについて、細かく話したい。
家臣はその文を読み、ようやく少し笑った。
「よかった。門前払いではない」
そして、日を選び、伊勢松坂屋へ向かった。
松坂の本店に着くと、そこは噂通り活気があった。飯の匂い、働く者の声、荷を運ぶ音、
買い付け品の棚、帳面をつける若い者。飯屋というには、あまりに人と物が動いている。
案内されて奥へ入ると、博之はいつものように茶を飲みながら待っていた。
「ようお越しくださいました」
「こちらこそ、お時間をいただきありがとうございます」
長野家の家臣は深く頭を下げた。
「先日は、ご提案をいただきありがとうございました。ようやく、当家でも話が通りました」
「それはよかったです」
「ただ……」
家臣は少し苦笑した。
「正直、殿を説得するのが一番大変でございました」
博之は思わず笑った。
「そこ、言うてしまってええんですか」
「本日は、少し愚痴も聞いていただきたく」
「うちは飯屋ですけど、最近は愚痴聞きも多いです」
「ありがたいことです」
お花が茶を出し、ヨイチが帳面を開く。
家臣は茶を一口飲み、肩の力を抜いた。
「最初、殿は船代の半分を出すことを渋りました」
「でしょうね」
「ええ。飯屋が売るのだから飯屋が払えばよい、と」
「それは分かります」
「ですが、それではまた断られると思いました。伊勢松坂屋殿は、すでに一万文で飛びつく
商いではない。津へ来てほしいなら、こちらも受け入れる形を見せなければならない。
そう申し上げました」
博之は静かに頷いた。
「ありがたいです。そこを分かっていただけると、こちらも動きやすい」
「ただ、殿としては、町人に下手に出るようで気に入らなかったのでしょう」
「それも分かります。武家の方ですから」
「分かっていただけますか」
「私も、松坂や伊勢で散々学びました。向こうには向こうの面子があると」
家臣は少し安心したように息を吐いた。
「正直、私は焦っております。港の飯会は、うまくいくと思うのです」
「鮪とすり身ですか」
「はい。津の港にも、値がつきにくい魚や部位があります。それを飯にできるなら、
港の者にも利がある。寺社にも人が集まる。町にも話題ができる」
「そこは私も同じ見立てです」
博之は身を乗り出した。
「ただ、だからこそ急げません。北畠様にも筋を通します。九鬼様にも話をします。
津の寺社、顔役、港の者にも、長野家からきちんと橋渡ししてもらわないと困ります」
「承知しております」
「うちは、勝手に津へ飯を売りに行く形にはしたくありません」
「はい。そこは当家としても、今回はしっかり整えます」
家臣は少し頭を下げた。
「前回の文で、こちらが軽く見すぎたことは、私も反省しております」
「こちらも大人げなく保留にしました」
「いえ、あれでよかったのだと思います。あのまま来られていたら、たぶん後で揉めておりました」
博之は笑った。
「それはありそうですね」
「ですので、今回は飯会から。まずは小さく、けれど筋を通して進めたい」
「ええ」
ヨイチが口を挟んだ。
「確認します。港は半月に二回。神社と寺で一回ずつ。鮪の煮込みとすり身天のみ。先着五十人無料、
その後販売。船代は都度五千文、長野家と折半。郊外は半月に一回、寺で飯会。先着五十人無料、
その後販売」
「その認識でございます」
「寺社への初回寄進は?」
「港の寺と神社、郊外の寺、それぞれ五千文。こちらでも先に話を通します」
「顔役は?」
「こちらで紹介いたします。港の魚の仕入れについても、候補を見繕います」
博之は頷いた。
「では、こちらは人を最小限にします。料理のできる古参、帳面役、運び手。地元の手伝いも
使わせてもらいます」
「お願いします」
話が進むにつれ、長野家の家臣の顔にも少し明るさが戻った。
最後に彼は、ぽつりと漏らした。
「しかし、殿を説得するのは本当に骨でした」
博之は笑う。
「うちも城主に挨拶に行くたびに胃が痛いです」
「お互い、上に苦労しますな」
「飯屋と家臣が同じ愚痴言うてるの、おかしいですけどね」
お花が微笑んだ。
「でも、こうして愚痴を言い合えるなら、少しはよい関係になれそうですね」
家臣は深く頷いた。
「そう願います」
津への道は、まだ遠い。
だが、長野家の家臣が自ら足を運び、殿の愚痴までこぼしたことで、
少しだけ人間味のある道になった。
博之は茶を飲みながら、静かに言った。
「ほな、飯から始めましょう」
家臣も頷いた。
「はい。飯から、よろしくお願いいたします」




