津から長野家の家臣が相談にきたwww津に簡単に店を出すといっても色んな筋があるwww
津の長野方から、今度は使いの者ではなく、家臣が直接やって来た。
本店の奥に通されたその男は、最初から少し腰が低かった。
「先だっては、少し不躾な文を差し上げてしまい、申し訳ございませんでした」
博之は、いったん首をかしげた。
「何のことでございますか」
ヨイチが横で、ああ、旦那がとぼけた、という顔をした。
長野方の家臣も、それがとぼけているのだと分かったらしく、苦笑した。
「いや、こちらも承知しております。あの文面では、伊勢松坂屋殿を軽く見ているように
受け取られても仕方がない。金を出すなら端で商いをさせてやる、というような書きぶりに
なっておりました」
「いえいえ、武家の方から町人にいただいたお話でございますので」
「そう言っていただけるとありがたいのですが、こちらにも事情がございます」
家臣は、少し言葉を選んだ。
「うちの領主は武家でございます。こちらから町人に対して、どうか津へ来てください、
と頭を下げる形を取りにくかった。けれど本音を申せば、来てほしいのです」
博之は黙って聞いていた。
「伊勢松坂屋殿の飯の評判は、津にも届いております。松坂、伊勢、港、九鬼水軍、買付方。
かなり大きく動いておられる。もし津にも足を運んでいただけるなら、町にとっても
利があるのではないかと考えております」
「ありがたいお話でございます」
「店をすぐ出すのが難しければ、まずは買い付けだけでもいかがでしょうか。
津の品を買っていただき、そちらの従業員の方々へ売っていただく。伊勢便や松坂便のような形で」
そこまで聞いて、博之は少し息を吐いた。
「私どもも、大人げなかったところはございます」
そう前置きしてから、静かに続けた。
「ただ、店を出すというのは、ものすごく難しいのです」
「難しい、ですか」
「はい。こちらが金を持って行き、場所をもらって、すぐ飯屋ができるという話ではありません」
博之は指を折った。
「まず、現地の者を雇わなければなりません。よその土地では、うちの名前が通らない。
松坂ではようやく三割辞める程度まで落ち着いてきましたが、伊勢では今でも、
新しく雇えば半月で半分辞めます」
「半分、ですか」
長野方の家臣は目を見開いた。
「はい。飯と寝床を確保しても、それでも半分辞めます。薪くべ、掃除、串刺し、仕込み、荷運び。
外から見れば地味でしんどい仕事が多い。うちは大きく見えますが、根っこの仕事は泥臭いのです」
「なるほど……」
「津で店を出すとなれば、松坂の者を丸ごと連れて行けば形にはできます。ですが、
それでは今ある拠点が薄くなる。伊勢もまだ人が足りない。そこへ津まで人を割けば、
全部が中途半端になります」
家臣は黙り込んだ。
博之はさらに続ける。
「港で流行っている鮪鍋やすり身天を津で出せば、たしかに目玉にはなるかもしれません。
ですが、売れたら売れたで、また周りから言われます」
「周りから」
「はい。既存の飯屋、魚を扱う者、港の顔役、寺社、町の商人。全部に筋を通さなければなりません。
勝手にうまい飯を出して、客を持っていくように見えれば、敵を作ります」
「それは……確かに」
「どこまでご存じか分かりませんが、私が伊勢で新しく動いた時、一日で十万文ほど使いました」
その言葉に、長野方の家臣は明らかに引いた。
「十万文、ですか」
「はい。顔役への挨拶、寺社への寄進、港の筋、船の段取り、拠点への物資、現地での振る舞い飯。
大きく見せたくて使ったわけではなく、よその町に入るには、それだけ仁義を切ることが
必要だったのです」
「一万文で、という話では済まないわけですね」
「済みません」
博之はきっぱり言った。
「長野様のところでやるとなれば、長野様へ筋を通すだけでは足りません。私は松坂と伊勢で
北畠様の筋をいただいております。九鬼水軍とも付き合いがあります。
港でやるなら九鬼方にも顔を立てる必要が出るかもしれません。寺社、顔役、地元の商人にも
話を通す必要があります」
そして少しだけ苦笑した。
「あの文面だけでは、そこが見えませんでした」
家臣は、深く息を吐いた。
「……私どもが分かっておりませんでした」
「いえ」
「いや、分かっておりませんでした。伊勢松坂屋殿が、ただ飯を作って売るだけの店ではないことは
聞いていたつもりでしたが、実際に動く時の規模が、想像より大きい」
博之は茶を差し出した。
「それと、買い付けだけの話ですが」
「はい」
「それも、正直申し上げると難しいです」
「買うだけでも、ですか」
「はい。伊勢便や松坂便は、従業員向けに買い、一・五倍で売っています。ですが、
それは伊勢や松坂にうちの拠点があり、顔をつなぎ、買う理由があるから成立しています」
「津の品を買う理由が薄い、と」
「そうです。津に店がない。津に従業員がいない。津で飯を売っているわけでもない。
その状態で、津の品を何百人分買ってくださいと言われても、こちらにとっての旨味が薄いのです」
家臣は唇を結んだ。
「津に銭は落ちますが」
「落ちます。ですが、うちは慈善で買い付けているわけではありません。伊勢で買うのは、
伊勢に根を張るためでもある。松坂で買うのは、松坂の顔を立てるためでもある。
買った品は従業員が喜び、店の信用にもつながる」
「津には、まだその土台がない」
「はい」
博之は穏やかに、しかしはっきり言った。
「せめて、津の郊外か港、街中のどこかに、うちが小さくでも入り込めていれば違います。
そこで飯を出し、津の品を買い、従業員や近所の者に売る理由ができます」
「ですが、今は人を割く余裕がない」
「はい。今は伊勢城下の話がございます。松坂と伊勢を固めるだけでも手いっぱいです。
津に向きたい気持ちはありますが、今動けば中途半端になります」
家臣は、しばらく黙っていた。
来てほしい。
だが、相手は簡単には動けない。
金で釣れば来る相手ではない。
かといって、こちらが全面的に頭を下げるのも難しい。
ようやく、長野方の家臣にも、その重さが見えてきた。
「では、どうすれば津の方を向いていただけますか」
思わず、そんな言葉が漏れた。
博之はすぐには答えなかった。
「……筋を整えていただくことだと思います」
「筋」
「場所だけではなく、顔役、寺社、地元の仕入れ先、港を使うなら港の者。
そういう方々との橋渡しです。こちらが勝手に入り込むのではなく、津の方が
受け入れる形を作っていただければ、こちらも考えやすい」
「なるほど」
「それと、最初から大きくは無理です。飯会、炊き出し、試食、港の魚を使った一日だけの振る舞い。
そういう小さなところからなら、まだ考えられるかもしれません」
「店ではなく、まず会」
「はい。飯を食べてもらい、反応を見る。うちも津の空気を見る。そこで互いに良さそうなら、
次に小さな棚か屋台。それでも良ければ横丁」
家臣は小さく頷いた。
「段階を踏む、ということですね」
「はい。いきなり横丁ではなく」
「こちらとしては、場所を用意すればすぐ来てもらえると思っておりました」
「昔の私なら、そうしたと思います」
博之は苦笑した。
「でも今は、四百人ほど抱えております。軽く動けば、その四百人に響きます」
「重いですね」
「重いです」
部屋に、静かな沈黙が落ちた。
やがて、長野方の家臣は深く頭を下げた。
「本日は、よく分かりました。こちらの考えが浅かった」
「いえ、こちらも言い方がきつくなっておりましたら申し訳ございません」
「いえ。むしろ、はっきり聞けてよかった」
家臣は少し疲れたように笑った。
「正直、どうしたらこちらを向いてもらえるのか、頭が痛いです」
「焦らなくてもよろしいかと」
「しかし、焦ります。松坂と伊勢でそれだけ根を張っているなら、津が声をかけても
遅れるばかりではないか、と」
「遅れることはございません。津は津で魅力があります」
「本当ですか」
「はい。港、街道、人の流れ。いずれ必ず考える場所です」
その言葉に、家臣の顔が少し明るくなった。
「なら、また改めて話を持ってきてもよろしいですか」
「もちろんでございます。ただ、次は場所や顔役、寺社への筋など、少し具体的なお話が
あると助かります」
「承知しました」
「それから、買い付けだけを先にするなら、津の名物や、従業員が欲しがる品をまず教えてください。
何を買うのか分からないと、こちらも動かしようがございません」
「それも調べます」
家臣はそう言って立ち上がった。
見送りに出るとき、博之は混ぜ飯の握りとすり身天を包ませた。
「帰り道にでもどうぞ」
「ありがとうございます」
「飯屋でございますので」
家臣はその言葉に、少し笑った。
「ただの飯屋ではない、ということはよく分かりました」
「飯屋でいたいんですけどね」
「それも、よく分かりました」
長野方の家臣が去った後、ヨイチがぼそりと言った。
「旦那、今回は完全に向こうが頭を抱えてましたね
「俺も頭抱えてるわ」
「でも、流れは変わりましたね」
「そうやな。向こうも、雑には呼べへんって分かったやろ」
お花が静かに言った。
「津へ行く道が閉じたわけではありませんね」
「うん。むしろ、ちゃんとした道になりそうや」
博之は少しだけ疲れた顔で、茶をすすった。
「ただ、今は伊勢や」
「はい」
「津は、飯会ぐらいからやな」
「また飯会ですか」
「飯で始めるのが一番安全や」
ヨイチが笑った。
「旦那らしいです」
津への道は、遠ざかったようで、むしろ形を変えて近づいていた。
ただし、もう一万文で飛びつく道ではない。
筋を通し、顔をつなぎ、飯から始める道である。




