博之43歳3月後半。伊勢定期便・松阪定期便がうわさになる。松阪で久しぶりに採用出すと無駄に高スペックがキラキラした顔で来るwww
伊勢定期便、松坂定期便。
各拠点に店棚を置き、松坂や伊勢で買い付けた品を一・五倍で売る。従業員向けの購買であり、
近所の者にも便利賃込みで売る。そういう形が少しずつ動き始めると、当然のように噂になった
「伊勢松坂屋は、飯だけやないらしい」
「買付方いうのがあって、伊勢まで行けるらしい」
「帳面を見られる者は重宝されるらしい」
「購買の棚を任されたら、かなりええ仕事らしいぞ」
そんな話が、松坂の城下、郊外、港、街道筋に広がっていった。
ちょうど伊勢城下の端で横丁をやる話も出ている。拠点も増える。購買方も増やす。
ならば久しぶりに採用枠を設けようという話になった。
「松坂城下、郊外、港で、それぞれ二十人ぐらい枠を作るか」
博之がそう言うと、ヨイチは帳面を見ながら眉をひそめた。
「本当にやります?」
「やらなあかんやろ。伊勢もあるし、購買棚もあるし」
「ただ、変な人が増えそうですね」
「それはもう増えとる」
実際、集まってきた者たちは、以前とは少し様子が違っていた。
昔は、飯に困った者、身寄りのない者、働き口がない者が、恐る恐る手を挙げた。
薪をくべるでも、串を刺すでも、飯が食えるならありがたい。そういう者が多かった。
ところが今は違う。
「買い付け方をやりたいです」
「購買棚の帳面を見たいです」
「伊勢便に関わりたいです」
「大きな商いを触ってみたいです」
「警備でしたらできます」
「算術を教えられます」
「剣の免許があります」
博之は、面接の場で何度も額を押さえた。
「……うちは飯屋やぞ」
そう言っても、相手の目はどこかきらきらしている。
伊勢まで買い付けに行ける。
大きな帳面を触れる。
銭が動く商いに関われる。
警備なら楽そう。
算術なら重宝されそう。
そんな期待が透けて見えた。
博之は一人一人に、かなり丁寧に説明した。
「購買方はな、ご褒美みたいな職や。最初からできるもんちゃう」
「ですが、私は算術ができます」
「算術ができるのはありがたい。けど、うちは叩き上げやねん。最初は薪くべ、掃除、
串刺し、荷運び、仕込みや」
「帳面ではなく?」
「帳面を見るにも、現場の飯の匂いが分かってないとあかん。どの飯がどれだけ売れて、
どの具材が腐りやすくて、誰がごまかしそうか。それは現場を知らんと見えへん」
別の者が言う。
「警備ならできます。剣の免許もございます」
「うちの警備は、武張る仕事やない。酔った客をなだめる。女衆が困ってたら間に入る。
荷を運ぶ。夜に火の始末を見る。必要なら頭を下げる。斬る仕事やなく、揉め事を小さくする仕事や」
「しかし、私は腕には覚えが」
「それなら、もっとええところがあるやろ」
博之は本気で説得した。
「水軍衆でも、武家方でも、町の用心でも、腕を活かす場所はある。うちは飯屋や。
免許皆伝に近い人を、薪くべからやらせるのは失礼やし、たぶんあんたも続かへん」
算術の先生を名乗る者にも、同じように話した。
「先生が悪いわけやない。けど、うちは寺子屋やない。読み書き算術は欲しいけど、
それだけで人を置くにはまだ早い。外から教えに来てもらう形なら考える。でも、
店の者になるなら、まず現場や」
多くの者は、しょんぼりして帰っていった。
博之はその背中を見送りながら、ため息をついた。
「どないなってんねん、最近の人らは」
ヨイチが横で言った。
「それだけ、うちが大きくなったということですよ」
「飯屋やのに」
「もう、外からは飯屋に見えてません」
「見えててほしいんやけどな」
お花も静かに言った。
「でも、断ったのは正解だと思います」
「そうか」
「はい。算術ができる、剣ができる、そういう人は使い方を間違えると揉めます。
外部顧問として入れるほど腕や人当たりがある人なら、もうどこかに組み込まれているでしょう」
「それに漏れた人が来る」
「はい。腕はあっても、人と合わせるのが難しい人かもしれません」
ヨイチも頷いた。
「うちは、現場で飯を出す集団です。いきなり帳面や購買方に入れたら、古参が納得しません」
「それはそうやな」
「購買方は、今いる者が頑張った先の役目にした方がいいです。伊勢便に行ける、店棚を任される、
帳面を少し見られる。それがご褒美になるから、下働きにも意味が出ます」
「最初からそれ目当てで来たやつに渡したら、内部が腐るか」
「腐ります」
博之はまたため息をついた。
「しかし、人はいるんや」
「伊勢ですね」
「そう。松坂はもう、野放図に採るのはやめた方がええ。でも伊勢の郊外と港は、
まだ働き口を探しとる。半月で半分辞めるけど、それでも数がいる」
伊勢はまだよちよち歩きだ。郊外も港も、店は回り始めたが人が足りない。新しく雇っても
半分が辞める。だからこそ、数を入れて、残った者を育てるしかない。
「松坂で手を挙げた者の中で、本当に下働きからやる覚悟があるなら、伊勢へ行けと
言うのはありかもしれん」
博之はそう言った。
「伊勢の郊外と港なら、まだ働き口がある。買い付け方や購買棚に近い仕事も、松坂より
早く触れる可能性がある。ただし、きつい。半分辞める。飯と寝床があるから楽やと
思って来るならやめとけ、と」
ヨイチが帳面に書く。
「松坂採用の一部を伊勢希望に回す。ただし、条件を明示」
「そうや」
「下働き、半月試用、残れば給金上げ。購買方は遠いが、伊勢は人が少ない分、
早く役目が回る可能性あり」
「そんな感じやな」
お花が言った。
「昔のように、飯に困って松坂で手を挙げる人たちとは、少し違ってきましたね」
「そこが難しいんよ」
博之は腕を組んだ。
「今は、伊勢松坂屋の名前が広がってる。飯が食える、給金がええ、伊勢へ行ける、
買付方がある、帳面に触れる。そういう“よさそうなところ”を見て手を挙げる者が増えてる」
「悪いことではありませんが」
「悪くはない。でも素地が違う。がっつき方も違うし、諦め方も違う。思ってたんと違う、
で辞めるやつが増える」
古参の一人が苦笑した。
「旦那、昔は“来る者はなるべく拾う”でしたけど、今は“誰を入れないか”を考えてますね」
「嫌な話やな」
「でも必要です」
「そうやな」
博之は少し寂しそうに笑った。
「一文無しで始めた頃は、飯食えへんやつに飯を食わせるだけでよかった。今は、店に合うか、
町に迷惑かけへんか、古参が納得するか、伊勢に回せるか、帳簿が見られるか、
変な野心がないか、そこまで見なあかん」
「それだけ大きくなったんです」
「大きくなりすぎたな」
ヨイチが言う。
「でも、購買方を増やすなら、今いる中から選ぶ方針でよいと思います」
「うん」
「新しく来た者には、まず飯屋としての仕事をやってもらう。購買方や帳面は、半年、一年残ってから」
「半年は長いか?」
「長くありません。むしろ短いです」
「そうか」
「伊勢なら三か月で役目が回るかもしれませんが、それでも最初からではありません」
博之は頷いた。
「じゃあ、採用の場でちゃんと言おう」
そして次の日から、面接の場で博之ははっきり言うようにした。
「うちは飯屋や。買い付け方になりたい、帳面を見たい、伊勢へ行きたい。それは分かる。
でも最初は薪くべ、掃除、串刺し、仕込み、荷運びや」
「半月で三割辞める。伊勢なら半分辞める。それは数字で出てる」
「それでも残った者に、購買方や棚番の道があるかもしれん。最初からそこに行けると思うな」
「算術ができる者、武芸がある者はありがたい。けど、それだけで採るわけやない。現場で飯の
匂いを知る気がないなら、他の方が向いてる」
そう説明すると、やはり多くは顔を曇らせた。
だが、中には目の色を変えずに残る者もいた。
「それでもやります」
「飯屋の仕事からで構いません」
「伊勢でも行きます」
そういう者を、少しずつ拾うことにした。
博之はその様子を見ながら、ぼやいた。
「なかなか噛み合わへんなあ」
お花が言う。
「でも、噛み合う人は残ります」
「そうやな」
ヨイチが帳面を閉じる。
「昔より選ぶのは難しくなりました。でも、選べるようになったとも言えます」
「それがまた怖いんやけどな」
「怖がりながらやるぐらいで、ちょうどいいです」
博之は苦笑した。
伊勢松坂屋の名前は広がった。
そのぶん、集まる人間も変わった。
飯を求める者だけでなく、役目を求める者、銭を求める者、大きな商いに触れたい者まで
来るようになった。
それを全部抱えることはできない。
だが、全部拒むわけにもいかない。
松坂では絞る。
伊勢では広めに受ける。
購買方はご褒美の役目にする。
帳面は現場を知った者に任せる。
腕だけ、知恵だけの者は、必要なら外で頼む。
ようやく、そんな方針が見えてきた。
博之は最後にぽつりと言った。
「飯屋の採用って、こんな難しいんか」
ヨイチがすぐ返した。
「旦那の飯屋だけです」
お花は笑いながら茶を差し出した。
「でも、まだちゃんと飯屋です」
「ほんまか?」
「たぶん」
「たぶんかい」
笑いが起きる。
けれど、その笑いの向こうで、伊勢松坂屋はまた一つ、大きくなった店なりの悩みを抱え始めていた。




