長野側の文書が嫌すぎて松坂城下の寺で寄進と炊き出しがてら愚痴と住職の見立てを聞く
松坂城下の寺へ、博之は五千文ほどの寄進を持って出向いた。
ただ寄進だけではない。いつものように飯も持っていく。混ぜ飯の握り、焼き飯、野菜天、
すり身天、それに大鍋で温め直せる汁物。寺の者や近所の子らにも少し振る舞えるようにしていた。
「また飯を持ってきてしまいました」
博之がそう言って頭を下げると、住職は笑った。
「松坂屋さんが来る時は、銭と飯が一緒に来ますな」
「愚痴も一緒に来ます」
「それが本命でしょう」
「お見通しですか」
「顔に書いてあります」
寺の庭先では、持ってきた飯が温められ、近所の者に少しずつ振る舞われていく。
焼き飯の香ばしい匂いが広がる中、博之は住職の前に座った。
「実は、津の長野様の方から書状が来まして」
「ほう」
「一万文寄進するなら、津の端で横丁めいた商売をやらせてやらんこともない、というような話でした」
「なるほど」
「で、突っ返しました」
住職は少し目を丸くしたあと、静かに笑った。
「突っ返した、とはまた」
「正確には、保留です。今は松坂と伊勢で手いっぱいなので、上筋に伺ってから改めて、
という形にはしました」
「ふむ」
「でも本音を言うと、文面が気に入らなかったんです」
博之は少し顔をしかめた。
「一万文で津に足がかりを作れるなら、商いとしては破格です。十万文、二十万文出してでも、
いずれは行きたい気持ちはあります。けど、“金を出すならやらせてやる”みたいな言い方をされると、
今のうちの所帯では乗りにくい」
「四百人近い食い口を背負っておられるわけですからな」
「そうなんです。私一人なら、喜んで行ってました。でも今は違う。最初に軽く扱われると、
あとでずっと軽く扱われます」
住職は頷いた。
「よい判断かもしれませんな」
「長野様の領地、津の方について、何かご存じのことはありますか」
博之が尋ねると、住職は茶を一口飲み、少し考え込んだ。
「私の知っている範囲でよければ」
「ぜひお願いします」
「まず、長野様は暗君ではないと思います」
「ほう」
「ただし、大大名になるほどの器かと言われると、そこまでは見えませぬ」
住職は穏やかな口調で続けた。
「一方、北畠様の領地は、昔ながらの勢いと格式がございます。気位も高い。長野様を滅ぼそうと
思えば、力としてはできなくもないでしょう」
「そんなにですか」
「ええ。ただ、滅ぼして領地を増やせば、その分、経営せねばなりません。人も要ります。
寺社、港、町、武士、農村、全部を見ることになる。北畠様は、そういうところに無理にこだわらず、
今の形で余裕を持っておられるように見えます」
「なるほど」
「北畠様には、古い家としての余裕があります。無理に噛みつかずとも、立っていられる」
「一方の長野様は」
「そこが難しい」
住職は少し声を落とした。
「長野様は南に北畠様を抱え、北には国人衆が幅を利かせている。尾張との緩衝地帯にも近い。
簡単に伸びられる立地ではありません」
「津という場所は魅力的ですよね」
「魅力的です。港があります。街道もあります。人も物も動く。使い方次第では、
かなり面白い土地です」
「ですよね」
「しかし、本当に有能で、強く押し出す力があれば、北の国人衆を切り崩しにかかるでしょう。
港や漁場からの収入に頼る者たちも多い。その筋を押さえれば、津はさらに伸びます」
「でも、それができていない」
「そう見えます」
住職は静かに言った。
「つまり、津という魅力的な場所を持ちながら、それを最大限に使い切れているわけではない。
だからこそ、松坂屋さんのような存在に声をかけたのかもしれません」
博之は腕を組んだ。
「うちに来てほしい気持ちはある」
「あるでしょうな」
「でも文面が偉そう」
「武家ですから、旦那様のところに頭を下げるわけにはいかないのでしょう」
「それは分かるんです」
「けれど、来てほしいなら、来てほしい形にしなければならない」
「そうなんです」
住職は少し笑った。
「おそらく、長野方の中にも、やらかしたな、と思っている者はいるでしょう」
「やらかした」
「はい。勘の鋭い家臣なら分かるはずです。今の伊勢松坂屋は、一万文で飛びつくような
一介の飯屋ではない。松坂と伊勢で筋を通し、九鬼ともつながり、寺社に寄進し、
町から買い、普請場で飯を振る舞う。そういう商家になりつつある」
「飯屋ですけどね」
「飯屋でございますな」
住職は笑いながら続けた。
「その相手に、“金を払えば端でやらせてやる”という文を出せば、嫌がられる。そこに気づく者は、
長野方にもいると思います」
「当主様は?」
「そこが、ちぐはぐなのでしょう」
「ちぐはぐ」
「周りには、松坂屋さんに気を使った方がよい、筋を整えて呼んだ方がよい、と思う者がいる。
一方で、当主筋は武家としての顔を崩せない。町人に下手に出るわけにはいかない」
「なるほど」
「だから、呼びたいのに、偉そうな文になる。来てほしいのに、来させてやるという形になる」
博之は思わず笑った。
「それ、めちゃくちゃ人間くさいですね」
「世の中、だいたいそういうものです」
「つまり、長野様のところは、私に来てほしいけど、頭は下げられへん」
「そう見えます」
「でも、私も今は軽く扱われるわけにはいかん」
「それも当然です」
住職は少し真面目な顔になった。
「松坂屋さん。津に行くこと自体は、悪い話ではないと思います。むしろ、
いずれは必要になるかもしれません」
「はい」
「ただし、今の文面で飛びつけば、後々苦しくなるでしょう。行くなら、場所、顔役、寺社、仕入れ、
地元への銭の落とし方。その筋を整えてもらってからです」
「北畠様にも同じようなことを言われました」
「でしょうな」
「やっぱり、断ってよかったんですかね」
「一度引いたのは、よかったと思います」
その言葉に、博之は少し肩の力を抜いた。
「なんか、ほっとしました」
「ただし、断る言葉は柔らかく」
「文面が嫌でした、とは書きません」
「書いてはいけません」
二人は笑った。
庭先では、寺の子らが焼き飯を食べている。竹べらで不器用にすくいながら、
「うまい」と笑っている。その声を聞きながら、博之は茶を飲んだ。
「津かあ。魅力的なんですよね」
「ええ」
「港飯は絶対いけると思うんです。鮪は無理でも、すり身天、あら汁、焼き飯、混ぜ飯。
いくらでもやりようはある」
「だからこそ、急がぬことです」
「急いだら揉めますか」
「揉めるでしょうな」
「ですよね」
博之は苦笑した。
「最近、ようやく学びました。飯屋でも筋を通さなあかん」
「旦那様の飯屋は、もう飯だけでは済みませんから」
「みんなそれ言う」
「事実です」
住職はにこりと笑った。
「でも、今日こうして相談に来た時点で、まだ大丈夫です」
「またそれですか」
「悩んでいるうちは、大丈夫です」
博之は頭をかいた。
「悩みすぎて禿げそうです」
「その時は、また飯を持って愚痴りに来てください」
「飯代で愚痴を聞いてくれる住職、ありがたいですわ」
「焼き飯代としては、十分です」
住職は焼き飯を一口食べ、満足そうに頷いた。
長野の内情は、はっきり見えたわけではない。
だが、少なくとも分かったことがある。
津は魅力的だ。
長野方も、伊勢松坂屋に興味を持っている。
しかし、呼び方を間違えた。
その内側にも、たぶん分かっている者はいる。
ならば、今は待つ。
松坂と伊勢を固め、九鬼との縁を深め、飯と銭の流れを整える。
その上で、長野方が改めて筋を通してくるなら、その時に考えればいい。
博之は寺を出る時、住職に深く頭を下げた。
「ありがとうございました。少し楽になりました」
「こちらこそ、飯をありがとうございました」
「また来ます」
「愚痴と飯を持って、ですな」
「はい」
そう言って、博之は笑った。
津へ行く日は、まだ少し先でよい。
焦らず、筋を通し、軽く扱われず、しかし敵を作らない。
飯屋としてはややこしすぎる道を、博之はまた少しだけ学んだのだった。




