一方そのそのころ、津の長野の城主は伊勢松坂屋が津進出を保留にしたことで変な空気が流れていた。
その頃、津の長野方では、少しばかり妙な空気が流れていた。
伊勢松坂屋へ送った文に対して、返ってきた答えは、やんわりとした保留であった。
表向きの文面は丁寧だった。
ありがたい話ではある。
しかし、いまは松坂と伊勢の拠点整備で手いっぱいである。
中途半端に入ってご迷惑をかけるより、時期を改めて相談したい。
まずは上筋へお伺いを立てたうえで、改めて返答したい。
つまり、すぐには来ない、ということである。
それを読んだ長野方の城主は、眉をひそめた。
「……断るのか」
まさか、一介の商人が、津への進出を保留にするとは思っていなかった。
伊勢松坂屋の評判は聞いている。松坂で大きくなり、伊勢にも出て、港では鮪を煮て売り、
魚のすり身を揚げ、内宮近くで買い付けまでしているという。
勢いのある商人だ。
だからこそ、津の端で商いをさせてやると言えば、喜んで飛びつくと思っていた。
「条件は悪くなかったはずや」
城主が、やや不機嫌そうに言う。
「一万文で、端とはいえ津に足をかけられる。普通ならありがたがる話ではないのか」
家老格の男は、静かに文を読み返した。
「おそらく、北畠家への義理立てがあるのでしょう」
「義理立て?」
「はい。伊勢松坂屋は、もともと松坂で始まった店。今は伊勢の方にも出ておりますが、
松坂、伊勢、九鬼、それぞれにかなり筋を通していると聞きます」
「ふむ」
「津に入るとなれば、長野方だけに一万文を払って終わり、というわけにはいかないのでしょう。
松坂の上筋にも話を通し、伊勢の方にも顔を立て、寺社にも寄進し、港や町の顔役にも挨拶がいる。
あの規模で動いている者なら、実際には一万文どころか、数万文、あるいはもっと使うことに
なるはずです」
当主筋の者は、少し黙った。
家老はさらに続ける。
「加えて、こちらの文面でございます」
「文面?」
「少し、上からの言い方が過ぎたかもしれません」
「武家が町人に文を出すのだ。多少は当然であろう」
「もちろんでございます。ただ、相手はすでに、ただの小商いではありません」
家老は、慎重に言葉を選んだ。
「伊勢松坂屋は、従業員を数百人抱えていると聞きます。飯と寝床を与え、買い付け方を作り、
伊勢で三万文単位の買い物をし、松坂では布団を二百組買ったとも」
「それは聞いた」
「そのような相手に対して、“金を出すなら端でやらせてやらんこともない”という形に
見える文を送れば、相手としては足元を見られたと感じるかもしれません」
当主筋の者は、不満そうに鼻を鳴らした。
「では、こちらから頭を下げろと言うのか」
「そこが難しいところでございます」
家老は小さく息を吐いた。
「こちらにも立場がございます。長野方から、飯屋に対して“ぜひ来てください、
津の飯事情を良くしてください”とは、なかなか書きにくい」
「当然や」
「ですが、実際には、来てほしいのでしょう」
その言葉に、城主は何も言わなかった。
沈黙が、答えのようなものだった。
長野方にとっても、伊勢松坂屋は魅力的だった。
津の端に置けば、人が集まるかもしれない。
港の魚が飯になるかもしれない。
旅人が足を止めるかもしれない。
町に銭が落ちるかもしれない。
何より、松坂と伊勢で勢いを持つ商人とつながれる。
だが、素直に「来てほしい」とは言えない。
武家の面子がある。
領主としての立場がある。
町人に頭を下げるわけにはいかない。
その結果が、あの文面になった。
金を出せば、端でやらせてやる。
家老は内心で、これは少しまずかったかもしれない、と思っていた。
「伊勢松坂屋は、行きたくないわけではないと思います」
「そう見えるか」
「はい。松坂から伊勢へ広げ、港へも出ております。津に興味がないはずはありません」
「なら、なぜ断る」
「だからこそ、扱いを気にしたのではないでしょうか」
家老は文をそっと置いた。
「一文無しの頃なら、飛びついたかもしれません。ですが、今の伊勢松坂屋は、数百人の食い口を
背負う商家です。最初に軽く扱われれば、その後も軽く扱われる。それを恐れたのかもしれません」
城主は、しばらく考え込んだ。
「面倒な町人やな」
「はい。ですが、面倒だからこそ、価値があります」
その言葉に、城主は家老を見た。
「価値がある?」
「はい。何も考えずに飛びつく商人なら、使いやすくはありますが、長くは持たないでしょう。
伊勢松坂屋は、筋と扱いを気にしている。つまり、領内で長く根を張るつもりがあるということです」
「ふむ」
「もし本当に呼ぶなら、こちらも少し形を整えた方がよろしいかと」
「例えば」
「場所の候補を示す。町の顔役を紹介する。寺社への挨拶筋を用意する。
港の魚や地元の野菜を使う形を提案する。そうすれば、向こうも入りやすいでしょう」
「こちらが段取りをつけてやるのか」
「“やってやる”ではなく、領内に入る商いとして筋を整える、という形でございます」
城主は、まだ納得しきらないようだったが、完全に否定もしなかった。
「考えておく」
「はい」
その場はそれで終わった。
やがて、下の者たちは退出した。
だが、廊下に出た途端、家臣の一人が小さくため息をついた。
「そら、あんな書きぶりやったら来んわな」
隣の若い家臣が、苦笑する。
「思いましたか」
「思うやろ」
彼は、声を潜めながらも吐き出すように言った。
「伊勢の方まで三万文の買い付けをさせるような商人やぞ。従業員向けにや。
松坂では布団二百組買ったとかいう話もある。そんな相手に、金を持ってきたら端でやらせてやる、
みたいな文を出したら、そら嫌がるわ」
「けれど、上としては頭を下げにくいのでしょう」
「それは分かる。分かるけど、来てほしいなら来てほしいように書かなあかん」
若い家臣は、少し考えて言った。
「伊勢松坂屋が津に来れば、実際に助かるところはあるでしょうね」
「あるやろ。港の魚を飯にして売るのは上手いらしい。鮪まで食わせるとかいう話やし、
すり身天も評判や。旅人向けの飯も強い。あれが津に来たら、人は寄る」
「ただ、来たら来たで怖いですね」
「怖い。だから扱いが難しい」
年かさの家臣は、またため息をついた。
「うちのお殿様は、その辺の町人感覚が分かってへん。相手がどのぐらいの銭を動かして、
どのぐらいの人を抱えて、どのぐらい顔を立てながら動いてるか。そこを見ずに、
ただの飯屋扱いしとる」
「ただの飯屋では、ないですね」
「ない。少なくとも、普通の飯屋なら断らん。津でやれると言われたら、尻尾振ってくる」
「でも、伊勢松坂屋は断った」
「そこが怖いんや」
彼は窓の外を見た。
津の町も、港も、決して悪い場所ではない。だが松坂や伊勢に比べて、今の勢いは弱い。
そこに伊勢松坂屋が来れば、流れが変わるかもしれない。
だからこそ、呼びたい。
だが、呼び方を間違えた。
「本当に来てほしいなら、こっちがもう少し頭を下げるぐらいの覚悟がいると思うけどな」
「お殿様にそれを言えますか」
「言えるか」
二人は苦笑した。
長野方の内側でも、伊勢松坂屋の扱いに迷いが生まれていた。
一介の商人のはずである。
だが、ただの商人ではない。
飯屋のはずである。
だが、飯屋というには動かす銭と人が大きすぎる。
上から呼びつければ来ると思っていた相手が、来なかった。
その事実は、長野方の者たちに、少なからぬ動揺を与えていた。
廊下を歩きながら、年かさの家臣はもう一度ため息をついた。
「次に文を出すなら、もう少し考えなあかんな」
「条件を整えて、ですか」
「そうや。場所も、顔役も、寺社も、地元の仕入れも。せめて“来てくれたらこちらにも利がある”
という形を出さんと」
「伊勢松坂屋が、それで来ますかね」
「分からん」
彼は苦笑した。
「けど、あの飯屋は、筋を通せば来る気はする」
「筋を通せば」
「そうや。銭より筋や。たぶん、今のあそこはそういう段階なんやろ」
ただの飯屋を呼ぶつもりだった。
しかし、相手はすでに、呼び方を誤れば逃げるだけの力を持つ商家になっていた。
長野方は、そのことを少し遅れて理解し始めていた。




