津の長野方から1万文くれるなら端で商売やらせんことはないとの手紙が届く。津に進出したいが文面が嫌すぎて一回断るwww
釣りの会が無事に終わり、松坂本店に少しだけ穏やかな空気が戻っていた頃、
津方面――長野方から使いが来た。
文を受け取ったヨイチが、まず顔をしかめた。
「旦那、津の方からです」
「津?」
博之は布団の上で身体を起こした。
「長野様の方か」
「はい。読んでもよろしいですか」
「読んでくれ」
ヨイチは文を広げ、慎重に読み上げた。
内容は、要するにこうだった。
津の方でも、伊勢松坂屋の飯の評判を聞いている。
もし一万文ほど用立て、しかるべきところへ挨拶をするなら、端の方で
飯屋をやらせてやらんこともない。
興味があるなら、話を聞きに来い。
読み終わると、座敷にしばらく沈黙が落ちた。
「……どう思う?」
博之が古参たちに聞いた。
ヨイチは文をたたみながら言った。
「またとない機会ではありますね」
「津やからな」
松坂、伊勢、港、街道。そこへ津が加われば、伊勢湾沿いの線はさらに広がる。
港飯、鮪鍋、すり身天、あら汁。津の方でも使える飯はある。
だが、博之の顔はあまり明るくなかった。
「正直、断ろうと思ってる」
その一言に、古参たちが顔を上げた。
「断るんですか」
「うん」
「津ですよ?」
「津やからこそや」
博之は文を受け取り、もう一度眺めた。
「これ、向こうとしては多分、やってほしいんやと思う」
「そうでしょうね」
「一万文でええって言うてる。金額としては、うちから見たら安い。安いということは、
向こうも飯屋としての伊勢松坂屋を呼ぶ価値は見てる」
「はい」
「でも、頼み方が嫌や」
お花が静かに聞いた。
「言い方、ですか」
「そう。『やらせてやらんこともない』みたいな書き方やろ。こっちが頭下げて、
金持って、ありがたがって行く形に見える」
博之は少し苦い顔をした。
「もちろん、向こうは武家や。こっちは町人や。偉そうに言われるのは当たり前かもしれん。
でもな、こういう言い方で公式に文を出してくるのが、ちょっと嫌やねん」
古参の一人が頷いた。
「分かります。進出できれば大きいですが、最初からそういう扱いだと、後々振り回されそうです」
「そうやろ」
「金額の多い少ないではないですね」
「そう。金額だけ見れば、うちにとってはむしろ得や。津に一万文で足がかりを作れるなら安い。
でも、これは金の話やない」
博之は文を畳の上に置いた。
「筋の話や」
ヨイチが頷く。
「松坂にも伊勢にも、かなり頭を下げてきましたからね」
「そうや。松坂では怒られた。伊勢では諭された。九鬼様にも筋を通してる。寺社にも顔を出してる。
飯屋にしては、だいぶ丁寧にやってるつもりや」
「はい」
「そこへ、津から“金持って来たら端でやらせてやる”みたいな言い方をされたら、こっちとしては
乗りにくい」
お花が言った。
「旦那様としては、呼ばれて行くにしても、互いに利がある形にしたいのですね」
「そう。向こうのためにもなる。津の人にも飯が届く。うちも働き口が増える。
そういう話なら考える。でも、上から許してやるという形だけで入ったら、後で足元見られる気がする」
「たしかに、後から追加で寄進を求められるかもしれません」
ヨイチが言う。
「あるやろ」
「ありますね」
「港を使わせてやる。寺社にも顔を出せ。町の顔役にも挨拶しろ。さらに人を雇え。
さらに飯を振る舞え。そうやって、どんどん求められる」
「しかも断りにくい」
「そう」
博之は大きく息を吐いた。
「だから、一回は断ろうと思う」
「完全に断るのですか」
「完全にではない。北畠様の方には、まずお伺いを立てる。津の長野方からこういう文を
いただきました。こちらとしては、松坂と伊勢で手いっぱいですし、文面にも
少し戸惑っております。いったん控えようと思います、と」
「北畠様に話すのですね」
「話す。勝手に津へ行ったと思われたら、また松坂にも伊勢にも怒られる」
「それは大事です」
「それに、北畠様から長野方の内情を少し聞けるかもしれん」
古参が首をかしげる。
「内情ですか」
「そうや。長野様の方が、本当に飯屋を欲しがってるのか。単に金を引き出したいだけなのか。
津の港や街道がどういう状態なのか。誰が強いのか。誰に筋を通すべきなのか」
ヨイチが筆を取る。
「確認事項ですね」
「うん」
博之は指を折った。
「一つ、長野方が本気で伊勢松坂屋を呼びたいのか。二つ、津の港や城下の商人との関係。
三つ、九鬼方との絡み。四つ、北畠家として松坂屋が津へ入ることをどう見るか。
五つ、今は断った場合に角が立つか」
「かなり慎重ですね」
「怒られたからな」
「それ、便利な言葉になってますね」
「本当に怒られたんや」
お花が少し笑った。
「断り方も大事ですね」
「そうやな」
博之は考えながら言った。
「『ありがたいお話ですが、今は松坂、伊勢、港、街道の拠点整備で手いっぱいでございます。
中途半端に入ってご迷惑をおかけするより、今の拠点を固めてから改めてご相談させてください』
ぐらいやな」
「相手の文面に腹を立てているとは書かない」
「書けるか」
「旦那なら言いそうなので」
「言わんわ」
古参たちが笑う。
博之は文をもう一度見つめた。
「ただ、向こうが本気なら、もうちょっとええ条件で話が来るかもしれん」
「例えば?」
「津の港の顔役を紹介する。寺社への筋を一緒に通す。最初の場所を用意する。
地元の野菜や魚を使う段取りをつける。そういう話や」
「ただ一万文持ってこい、ではなく」
「そう。こちらにも利があり、向こうにも利がある形や。伊勢の城主は、伊勢でやるなら伊勢に
銭を落とせと筋を言うてきた。松坂の城主も、松坂を忘れるなと言うてきた。どちらも怖いけど、
言うてることは筋が通ってる」
「長野方の文には、その筋が薄い」
「そう見える」
お花が静かに言った。
「なら、一度引くのはよいと思います。旦那様は、今は広げすぎない方がよい時期です」
「そうやな」
「松坂にも伊勢にも、やっと筋が通り始めたところです。津まで同時に広げると、
支える人が足りません」
「人も足りん」
博之は頷いた。
「松坂はまだ三割辞める。伊勢は半分辞める。津に出す古参を抜いたら、本店も伊勢も薄くなる。
いくら鮪鍋やすり身天が強い言うても、人がいなけりゃ回らん」
ヨイチが言った。
「しかも津は、長野様の領分です。松坂や伊勢とはまた空気が違うでしょう」
「そこも怖い」
「行くなら九鬼方経由で港から、という話もありましたが、それも筋を間違えると揉めますね」
「そう。だから焦らん」
博之は文を畳んだ。
「まず、北畠様に伺う。長野方から話が来ました。ありがたいが、今は控えたい。
もし北畠様としてお考えがあればお聞かせください、と」
「一万文は持っていきますか」
「持っていく。飯も持っていく」
「また飯ですか」
「飯屋やからな」
「その言葉、万能ですね」
「飯で頭下げるんや」
古参の一人が言った。
「旦那、断るのに一万文持っていくんですか」
「断るからこそや。手ぶらで断ったら角が立つ。『勝手に判断せず、お伺いに来ました』
という形にする」
「なるほど」
「それに、北畠様から見ても、勝手に長野へ行かずに相談に来た、というのは悪くないやろ」
「たしかに」
ヨイチが文を下書きし始める。
「長野方への返事は、すぐ出しますか」
「北畠様に伺ってからやな。返事は少し待ってもらう。『上筋に確認し、
改めてご返答いたします』でええ」
「分かりました」
博之は布団にごろりと転がった。
「しかし、津かあ」
「行きたいんですね」
「行きたい気持ちはある」
「でも嫌なんですね」
「文面が嫌や」
「子どもみたいですね」
「大事やぞ、最初の扱いは」
お花が微笑む。
「それは本当に大事です。最初に安く見られると、あとで直すのは難しいですから」
「そうやろ」
博之は少し安心したように頷いた。
「こっちは飯屋やけど、もう四百人近い食い口を背負ってる。足元見られる形では入れん」
ヨイチが静かに言った。
「旦那、だいぶ大将らしくなってきましたね」
「やめろ。そう言われると逃げたくなる」
「でも、今回はかなりまともな判断です」
「珍しくな」
「自分で言いますか」
座敷に笑いが起きた。
津は魅力的だった。
だが、今は飛びつかない。
松坂と伊勢を固める。
人を育てる。
筋を通す。
北畠家の中での長野方の立ち位置を探る。
そして、条件が整えば改めて考える。
博之は、長野方の文を見ながらぽつりと言った。
「飯屋でも、断る勇気いるんやな」
ヨイチが頷く。
「飯屋というより、もう商家ですからね」
「飯屋や」
「はいはい」
お花が茶を注ぎながら言った。
「でも、今はそれでよいと思います」
博之は茶を受け取り、少しだけ笑った。
「ほな、まず北畠様に相談やな」
津への道は、開きかけた。
しかし、伊勢松坂屋は今度ばかりは、すぐには飛びつかなかった。
それは、怒られ続けてようやく身につき始めた、慎重さの表れでもあった。




