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3月2週目末。楽しい帳簿の時間。収支トータルプラス。伊勢も利益17万文。現金138万6千文まで増えてしまう。

三月一週目から二週間分の帳簿が、また本店の奥座敷に運び込まれた。

「旦那様、帳簿の時間ですよ」

 その一言を聞いただけで、博之は布団の中に半分潜った。

「もうええやろ。わしは散々寄進もしたし、挨拶回りもした。松坂にも伊勢にも頭下げたし、

飯も持って行った。俺の仕事はそれで終わりでええやろ」

「終わりません」

 ヨイチが即答した。

「なんでやねん。あとはお前らがよろしくやってくれて、食いっぱぐれが出んように回して

 くれたらええやんけ」

「それを確認するのが帳簿です」

「嫌な言葉や」

 博之は枕を抱えながら、さらにぼやく。

「そろそろな、町や寺社への寄進の仕方とか、城主への挨拶とか、その辺もお前らで

できるようになってくれよ。わし毎回行くの、胃が痛いんや」

 古参の一人が苦笑した。

「いや、それは無理です」

「なんでや」

「旦那の代わりに、私ら古参が松坂の城主へ伺いに行って、“伊勢城下で横丁やりますので

 よろしくお願いします”って言うたら、普通に怒られます」

「そうですよ」

 別の者も続ける

「向こうからしたら、“なんで旦那本人が来ないんや”ってなります。お殿様相手に何ちゅう扱いや、

 とまた怒られます」

「住職さんや神社の方なら代理でもいけるやろ」

「それは一部ならできます。伊勢の寺社は、買い付け方や港の者が代理で行けるように

 なってきました。でも、肝心なところは旦那が出ないと」

「肝心なところばっかり増えてるんや」

「旦那が増やしてます」

「それを言うな」

 お花が茶を置きながら笑った。

「でも、旦那様が顔を出すから、相手も安心するのだと思います」

「顔出したら怒られるんや」

「怒られる時もあります」

「慰めになってへん」

 そんなやり取りをしていると、ヨイチが帳面を開いた。

「では、話を戻します」

「戻さんでええ」

「戻します」

 初期の帳簿方が読み上げる。

「まず松坂側でございます。基本の売上は大きく変わっておりません。横丁、街道、港方面、

 湯浴み、焼き飯屋、いずれも安定しております」

「焼き飯はまだ売れとるか」

「はい。特に昼時と雨の日が強いです。混ぜ飯の残りを使えるので、利益率も悪くありません」

「それはええ」

「さらに、傘と雨拭き布の売上も想定通り立っております。雨の日に急に売れます」

「セブンイレブン方式やな」

「何ですかそれ」

「いや、こっちの話や」

「加えて、買い付け方の伊勢小物も売れ続けております。髪紐、香袋、櫛、髪油、洗い粉、

 手ぬぐい。女衆向けだけでなく、男衆の贈り物向けにも動いております」

「やっぱり色恋やな」

「そこはもういいです」

 ヨイチは淡々と続ける。

「そして、今回大きいのは布団です」

「来たか」

「はい。布団二百組、売れました」

「ほんまに買うんやな、みんな」

「買います。寝具は生活の質に直結しますから。特に分割払いにしたことで、若い者も

 手を出しやすくなりました」

「それでいくらや」

「布団関係だけで二十二万文の売上が立っております」

 博之は天井を見た。

「……怖いわ」

「運搬、手入れ、仕立て直し、見繕いの手間を引いても、かなり残っております」

「怖いわ」

「松坂側全体では、利益が八十七万六千文でございます」

「八十七万……」

「はい」

「飯屋やぞ」

「はい」

「もう言うの疲れてきたわ」

「皆も聞き慣れてきました」

 部屋に小さな笑いが起きた。

「そこから、人件費、諸経費、仕入れ、寄進代、寺社への挨拶、運搬費、買い付け方の経費を

 差し引きまして、松坂側は三十二万文のプラスです」

 博之は完全に起き上がった。

「三十二万?」

「はい」

「布団の売上込みやろ」

「込みです」

「布団抜きなら?」

「それでも十万文ほどプラスです」

「怖すぎるやろ」

「かなり強いです」

「いや、強いとか言うてる場合ちゃうねん」

 博之は頭を抱えた。

「これまた睨まれるやつやんけ。松坂に金落とすために布団買ったのに、松坂の者に

 売ってまた増えるって、何なんや」

「商売です」

「商売が怖い」

 ヨイチは次の帳面を開いた。

「次に伊勢側でございます」

「伊勢はまだ聞いてられる数字で頼むぞ」

「伊勢は、利益が十七万七千文です」

「うん、まだ聞いてられる」

「郊外の二つ目の横丁が立ち上がってきました。混ぜ飯と焼き飯が旅人に受けています。港町も順調です。鮪鍋とすり身天は、少しずつ港の飯として認識され始めています」

「よしよし」

「ただし、伊勢はまだ人が安定しません。半月で半分近く辞める傾向は続いております。

 その分、新しく雇った者の面倒代、屋敷代、人件費、教育費、湯浴みや寝具の整備費が

 かかっております」

「そこはしゃあない。まだよちよち歩きや」

「それでも、伊勢側は最終的に四万七千文のプラスです」

「おお」

「これはかなり上出来です」

「伊勢が黒になってきたか」

「はい。港が強いです。郊外も焼き飯で支えられています」

「焼き飯、よう働くな」

「旦那の飯の勘は当たってますね」

「飯だけはな」

「飯以外も当たってます。だから問題なんです」

「やめろ」

 ヨイチが最後の数字を読み上げた。

「松坂側、三十二万文プラス。伊勢側、四万七千文プラス。前回残高、百一万六千文。今回分を合わせまして、ざっくり百三十八万六千文でございます」

 書記の者が少し笑って言った。

「おめでとうございます。百三十八万六千文です」

「おめでたいか?」

 博之は真顔で言った。

「取り潰しになったら、みんな路頭に迷うぞ」

「急に縁起でもないこと言わないでください」

「いや、ほんまやぞ。飯屋のくせにこんなに蓄えてるって見られたら、“なんやこいつら”ってなるやろ。

 取り潰したら取り潰したで、とんでもない金が出てきて、相手がさらにびっくりするやろ。

 そんで、俺ら打ち首になるかもしれへん」

「発想が極端です」

「でも怖いやんけ」

 ヨイチが少し真面目な顔で言った。

「だからこそ、帳簿と筋を通すことが大事です。松坂にも伊勢にも銭を落としている。

 寺社にも寄進している。従業員に飯と寝床を与えている。町の店から買っている。そこを

 きちんと示せるようにしておくべきです」

「それは分かる」

「あと、安く売れと言われる可能性もありますね」

「それも怖い」

 博之は頷いた。

「でも、安く売ったらまたバランス崩れるんよな」

「はい」

 お花が静かに言った。

「伊勢松坂屋だけが安く飯を出しすぎると、他の飯屋や商いが成り立ちません。

 従業員の給金や仕入れも維持できなくなります」

「そうやねん」

 博之は少し身を乗り出した。

「うちが安売りしまくったら、客は喜ぶ。でも周りの店が死ぬ。そしたらまた恨まれる。

 逆に高すぎたら、銭を吸い上げてると思われる」

「だから、適正に売るしかありません」

「適正が難しいんや」

「だから帳簿です」

「結局そこか」

「そこです」

 ヨイチは帳面を軽く叩いた。

「布団もそうです。八百文で買って千二百文で売る。高いように見えて、見繕い、運搬、

 分割、手入れ込みです。そこを説明できれば、ただのぼったくりではありません」

「説明できるようにせなあかんか」

「はい」

「飯もそうやな。安すぎず、高すぎず。振る舞い飯は日を決める。普段はちゃんと売る」

「その方が長続きします」

 博之は深く息を吐いた。

「百三十八万六千文か……」

「はい」

「百万超えただけでも怖かったのに、もう四十万近く増えとるやんけ」

「今回、布団の売上が大きいですから」

「次はどうなる」

「伊勢城下が始まれば、また増える可能性があります」

「言うな」

「焼き飯も安定しています」

「言うな」

「伊勢便も続いています」

「言うな」

「布団の販売もあります」

「やめろ」

 場に笑いが起きた。

 だが、博之の不安は本物だった。

 銭が増えるのはありがたい。

 従業員を守れる。

 新しい拠点を作れる。

 寺社にも町にも返せる。

 だが、増えすぎれば怖い。

 飯屋が飯屋でいられなくなる。

「まあ、当面は派手に使わん」

 博之は言った。

「松坂にも伊勢にも、ちょこちょこ落とす。寺社にも顔を出す。交流会をする。

 伊勢城下は小さく始める。安売りはしない。買う時は町から買う」

「よい方針だと思います」

「でもな」

「はい」

「帳簿を見るたびに胃が痛い」

 ヨイチが即答した。

「旦那、飯屋なのに胃が弱いですね」

「うまいこと言うな」

 お花が笑い、古参たちも笑った。

 三月前半の帳簿は、伊勢松坂屋がさらに強くなっていることを示していた。

 松坂は盤石。

 伊勢は立ち上がりつつある。

 布団、傘、買い付け方、焼き飯、港飯。

 どれも金を生み始めている。

 博之は布団に倒れ込み、天井を見上げた。

「……なんか、また金使う理由考えなあかんな」

 ヨイチが苦笑する。

「でも、使うほど増えるんですよね」

「それが一番怖いんや」

 そう言って、博之は帳簿から目をそらした。

 百三十八万六千文。

 飯屋の数字としては、あまりにも重い数字だった。

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