表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

123/256

3月上旬。伊勢城下に横丁許可が出たことで松坂城主に挨拶しないといけない。嫌になっているので古参と雑談

伊勢城下の端で横丁を試してみないか

その話をもらってから、博之はずっと落ち着かなかった。

嬉しくないわけがない。伊勢郊外、伊勢港に続いて、伊勢城下である。ここがつながれば、

松坂から伊勢へ、陸と海の両方で線が見えてくる。

 だが、だからこそ怖かった。

「やる時期は考えなあかんな」

 本店の奥で、博之は茶を飲みながら呟いた。

「伊勢に何か出すにしても、古参の者を何人か読んで動かす必要がある。そしたら空いた枠を、

 また松坂で雇うのか、伊勢の港や郊外で雇うのか。その辺も考えなあかん」

 ヨイチが帳面を閉じながら言う。

「伊勢の定期便で聞く限り、向こうはまだ半月で半分辞めるような状態ですからね」

「そうやねん。まだよちよち歩きや」

 松坂は名前が通ってきたので、半月で三割辞める程度には落ち着いてきた。だが、伊勢は違う。

 伊勢郊外も港も、まだ伊勢松坂屋の名が十分には通っていない。飯と寝床があるとはいえ、

 薪くべ、掃除、串刺し、仕込み、帳面の下働きを嫌がる者は多い。

「その状態で城下へ出しても、足元が弱い」

「ですね」

「でも、話をもらった以上、松坂の城主には挨拶に行かなあかん。一万文か、場合によっては二万文

 持って」

 博之は露骨に嫌そうな顔をした。

「ああ、嫌や」

「行くしかないでしょう」

「分かってる。分かってるから嫌なんや」

 そう言って、博之は逃げるように古参の者たちを集めた。

 名目は打ち合わせ。

 実態は、茶を飲みながらの雑談である。

「というわけで、どうするよ」

 博之が布団の上でごろごろしながら言うと、古参たちは最初ぽかんとしていた。

「伊勢の城下、ですか」

「そうや。端っこの方で横丁をやってみいひんか、と言われた」

「めちゃめちゃすごいじゃないですか」

 古参の一人が思わず身を乗り出した。

「松坂の郊外から始まって、伊勢郊外、伊勢港、そこから伊勢城下までつながったら、

 もうほぼ道ができますやん」

「まだできてへん」

「でも、見えてます。だって港から買い付けに行くでしょう。内宮さんの近くを通って、

 帰りに伊勢城下の横丁を通り、伊勢郊外を通って松坂へ戻る。船で帰らなくても陸路で

 戻れる形になります」

「内宮さんは素通りやけどな」

「素通りでも大きいですよ。内宮さんに用があれば寄れますし、拠点はなくても道中の店が

 つながるんですから」

 別の古参が言った。

「それ、ほんまに伊勢松坂屋の線になりますね」

「そうやな」

 博之は少しだけ嬉しそうにしたが、すぐに首を振った。

「ただ、内宮に関しては、横丁を作りたいというほどではない。現実的やないし、怖すぎる」

「でも、一軒ぐらいなら?」

「出せるとしても、魚のすり身を揚げた串を一軒やな。それで十分や。あそこで一軒当たったら、

 それだけでどえらい利益になる」

「内宮値段ですもんね」

「そうや。だからこそ、怖い」

 博之は茶をすすった。

「伊勢で根付いたら百年続くかもしれん、と言われた」

 その言葉に、古参たちは一瞬黙り、それから誰かが吹き出した。

「そらそうですよ」

「笑うな」

「いや、旦那。なんぼほど稼いでると思ってるんですか」

「それを言うな」

「なんぼほど従業員が金使ってると思ってるんですか。伊勢便で小物買って、

 松坂便で布団買って、飯は毎日食って、湯浴みもあって。そら領主様も怖がりますよ」

「怖がらせるつもりはないんや」

「でも、結果として怖いんですよ」

 ヨイチが横で苦笑する。

「旦那、もう飯屋というより、食い口を作る仕組みになってますからね」

「それが怖いんやろうな」

「はい。飯で人を集め、仕事を与え、銭を回し、町と港に顔を出す。侍から見れば、得体が知れません」

 古参たちがまた笑った。

「下手な武士より怖いって言われたんでしょう?」

「笑うな。ほんまにお侍様に聞かれたら、俺の首が飛ぶぞ」

「旦那の首は困りますね」

「困るで済むか」

 部屋に笑いが広がった。

 それでも、話はすぐ現実に戻る。

「問題は人や」

 博之は言った。

「松坂は雇えば三割辞める。最近は、もう野放図に採用するのも止めてる。

 これ以上、飯屋だけででかくなれへんからな」

「はい」

「伊勢郊外と伊勢港は、雇ったら半分辞める」

「まあ、そんなもんですよね」

 古参の一人が頷いた。

「下働きが思ったよりきついんです。薪くべ、掃除、串刺し、仕込み。外から見ると、飯と

 寝床があるくせに給金が低い、と見られがちです」

「そうなんよ」

「でも、半月残ったら給金が上がるし、飯も寝床も安定する。そこまで踏ん張れるかどうかですね」

「伊勢の城下でいきなりそれをやるには、ちょっと弱い」

 博之は腕を組んだ。

「だから、やるなら、向こうで雇った者だけに任せへん。松坂の古参を何人か出す。伊勢郊外や

 港で残った者も混ぜる。そこで一気に横丁を立ち上げる形がええ」

「松坂組、伊勢郊外組、港組の混成ですか」

「そうや」

「それなら動けます。ただ、松坂の古参が抜けると、本店側が少し薄くなります」

「そこをまた松坂で採用するか、今いる中堅を上げるかやな」

「買い付け方の女衆も少し使えますよ。伊勢の道に慣れてますし」

「それもありやな」

 ヨイチが書き留める。

「伊勢城下横丁の候補人員。松坂古参数名、伊勢郊外残留組、伊勢港残留組、買い付け方経験者」

「うん。ただ、まだすぐには出さん」

「なぜです」

「タイミングを見る。今は怒られた直後やし、松坂に布団二百組落としたばっかりや。

 ここでまた伊勢城下やりますと言うたら、松坂の城主がまた眉をひそめる」

「確かに」

「だから、まず松坂城へ挨拶に行く。一万文か二万文持って。『伊勢の城方よりお声がけをいただき、

 小さく飯を出す話がございます。松坂の漬物や味噌だれも使い、伊勢でも物を買い、双方に銭を

 落とします』と話す」

「言い方が大事ですね」

「伊勢を攻めます、とは絶対言わん」

「旦那、言いそうですからね」

「言わんわ」

 お花が静かに笑った。

「でも、その挨拶が嫌で、今日皆を呼んだのですね」

 博之は顔をそむけた。

「……まあな」

 古参たちが一斉に笑った。

「わしら慰め要員ですか」

「緩衝材ですか」

「旦那、嫌なことがあるとすぐ人を集めて茶を飲みますよね」

「うるさい」

 博之は枕を抱えた。

「一人で考えたら嫌になるやろ。お前らと喋ってたら、なんか案が出るし、気も紛れる」

「それなら、もっと早くそう言ってください」

「かっこ悪いやろ」

「今さらです」

「ひどいな」

 また笑いが起きた。

 けれど、その笑いの中で、伊勢城下への形は少しずつ見えてきた。

 すぐには動かない。

 まず松坂へ筋を通す。

 伊勢へも筋を通す。

 松坂の味を持ち込むが、伊勢のものも買う。

 松坂古参と伊勢残留組を混ぜる。

 買い付け方の道も活かす。

 内宮はまだ狙わない。

 城下の端で、小さく始める。

「まあ、やるなら慎重にやな」

 博之が言うと、ヨイチが頷いた。

「旦那にしては珍しく慎重です」

「怒られたからな」

「それ、最近ずっと言ってますね」

「怒られるの嫌いやねん」

「誰でも嫌です」

 博之は茶を飲み干し、少しだけ息を吐いた。

「伊勢城下かあ」

「いよいよですね」

「嬉しいけど、胃が痛いな」

「飯屋なのに胃が痛いんですか」

「うまいこと言うな」

 古参たちがまた笑う。

 その笑い声の中で、博之は少しだけ覚悟を決めた。

 まずは松坂へ挨拶。

 それから人選。

 そして伊勢城下の端へ。

 飯屋のようで、飯屋では済まなくなってきた伊勢松坂屋は、また一つ大きな節目の前に立っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ