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博之43歳3月上旬。伊勢の城主から城下町で横丁をやらないかと話を受ける。嬉しいがまた松坂で怒られるか不安になる

伊勢の城主から、「城下で少し横丁をやってみいひんか」と言われたあと、

博之はその場でしばらく言葉を選んでいた。ありがたい話である。

 伊勢郊外、伊勢港に続いて、ついに伊勢城下への道が開きかけている。

 内宮はまだ早いと言われたが、城下の端でよいなら、十分すぎる前進だった。

 しかし同時に、頭の隅で別の不安が膨らんでいた。

「……それにしても、松坂のご領主様は怒りますかね」

 博之がぽつりと言うと、伊勢の城主は少し笑った。

「気になるか」

「そら気になります。先だって、伊勢に銭を使いすぎやと怒られたばかりでございますので」

「まあ、怒るかもしれんな」

「やっぱりですか」

「お前の動き方が、そもそも普通やない」

 城方は、焼き飯の器を置いて、少し真面目な顔になった。

 博之は頭を下げる。

「ただ、私はどちらのおっしゃることも、ごもっともやと思っております。伊勢でやるなら伊勢に

 銭を落とせというのも、その通りでございます。松坂で始めた以上、松坂に銭を落とせというのも、

 その通りでございます」

「うむ」

「ただ、どちらも北畠様のお家の中で、両方のご領主筋から怒られる、というのは、なかなか珍しい

 経験やなと思っております」

 その言い方に、城主は少し吹き出した。

「まあ、珍しいやろな」

「私は飯屋のつもりなんですけども」

「それがまず怪しい」

「怪しいですか」

「怪しい」

 城主はあっさり言った。

「同じ北畠家の中ではある。交流もある。だが、松坂には松坂の領分があり、伊勢には伊勢の

 領分がある。大きな家の中とはいえ、それぞれ自治領に近いところがある。お互い、そう簡単に

 干渉はせん」

「はい」

「だからこそ、自分たちの領分を守ろうとする。そこへ、お前のようにふらふらと飯屋が動き回ると、

 目立つ」

「ふらふら」

「ふらふらやろう」

 城主は指を折って数える。

「松坂の郊外で始めた。城下に出た。街道沿いに出た。松坂港へ伸びた。

 伊勢郊外に出た。伊勢港に出た。九鬼水軍を使って買い付け方を出した。

 内宮近くで三万文買い付ける。今度は伊勢城下を見ている」

「並べられると、確かに……」

「普通の飯屋は、同じ飯を二、三軒出せたら御の字や」

「そうかもしれません」

「お前は横丁を作る。横丁を街道沿いに広げる。港飯を作る。買い付け方を作る。

 従業員を四百人近く抱える。しかも布団二百組を即決で買う」

「それは怒られたので」

「怒られたから十六万文使う町人がおってたまるか」

 城主がそう言うと、周囲にいた者たちが笑った。

 博之は困ったように頭をかいた。

「必要な布団でございましたので」

「必要でも、普通は即決せん」

「そうですか」

「そうや」

 城主は笑いを収めて、声を少し低くした。

「要はな、びびっておるのだ」

「びびっている、でございますか」

「そうや。松坂の方も、伊勢の方も、お前をどう扱えばよいか、まだ見えておらん」

 博之は黙った。

「国人衆より怖い、というのは少し言い過ぎかもしれん。だが、下手な商人よりは厄介や」

「厄介」

「商人なら銭を追う。飯屋なら飯を売る。寺なら施す。武家なら兵を持つ。だが、

 お前は飯を売り、銭を撒き、寺社に寄進し、人を雇い、買い付け、縁談まがいの交流まで考える」

「……」

「しかも、地元の民の胃袋をつかんでおる」

 その言葉に、博之は少し背筋を伸ばした。

「胃袋、でございますか」

「そうや。松坂で普請の時に飯を振る舞ったそうやな」

「はい」

「働く者らは喜んだやろう」

「ありがたいことに」

「それが怖いのだ」

 城主は博之を見た。

「上がどれだけ偉くとも、腹を満たしてくれる者は民に近い。うまい飯を食わせ、

 寒い時に汁を出し、雨の日に傘を売り、布団まで用意し、女衆に伊勢参りの機会を与える。

 そんな者が地元に根を張れば、民はそちらに親しみを持つ」

「そこまでのつもりは」

「つもりの有無ではない。そう見える」

 博之は返す言葉がなかった。

 城主は続ける。

「この世は、上がころころ変わる。戦もある。領主も変わる。だが、

 下の飯屋が百年単位で残ることもある」

「百年ですか」

「内宮を見ておるのだろう」

「はい」

「内宮の近くに根を張れば、お前のところは下手をすれば百年続く。参拝客が絶えぬ限り、

 飯と茶と土産と宿の前後には必ず需要がある。そこにお前が入り、松坂から伊勢、

 港、街道をつなげば、ただの飯屋では済まん」

 博之は小さく息を吐いた。

「正直、内宮はまだ夢のようなものです」

「だが、見てはおる」

「見ております」

「ならば怖がられて当然や」

 城主の言葉は厳しかったが、責める響きではなかった。むしろ、忠告に近い。

「だからこそ、バランスがいる」

「バランス」

「松坂で始めたなら、松坂に銭を落とせ。伊勢でやるなら、伊勢に銭を落とせ。

 九鬼の船を使うなら、九鬼にも筋を通せ。寺社に顔を出せ。町の商人から買え。全部を

 自分の店で抱え込むな」

「はい」

「それを怠ると、飯屋ではなく、勝手に国を作っているように見られる」

 博之は思わず苦笑した。

「飯屋で国は作りたくありません」

「お前の動きは、時々そう見える」

「それは困ります」

「困るなら、気をつけろ」

 城方は焼き飯をもう一口食べた。

「飯に関しては、お前は本当に強い。これは認める。だから余計に気をつけねばならん」

「強いから、ですか」

「そうや。まずい飯屋なら誰も怖がらん。うまい飯屋だから怖い。人が寄る。噂が立つ。銭が動く。

 働き口ができる。婚姻まで起こる。そうなると、領主の目にも入る」

 ヨイチが横で小さく呟いた。

「旦那、完全に見られてますね」

「黙っとれ」

 城方は少し笑った。

「まあ、悪い話ではない。こちらとしても、伊勢城下にうまい飯が増えるのは悪くない。

 参拝客が喜べば町も潤う。お前が伊勢で買い物をし、伊勢の者を雇い、伊勢の寺社にも

 顔を出すなら、受け入れる余地はある」

「ありがとうございます」

「だが、急ぐな」

「はい」

「内宮はまだ早い。まず城下の端。小さくやれ。儲けすぎてもすぐ広げるな。地元の店を見ろ。

 誰が嫌がるか、誰が喜ぶかを見ろ」

「肝に銘じます」

「松坂にも話を通せ」

 その言葉に、博之は顔をしかめた。

「そこが一番怖いです」

「怖くても通せ。黙ってやる方が悪い」

「……はい」

「ただし、言い方は考えろ。伊勢城下を攻めます、などと言うな」

「言いません」

「伊勢でお声がけいただき、小さく飯を出すことになりました。松坂で仕入れた漬物や味噌だれも

 使い、伊勢の食材も使い、松坂にも伊勢にも銭を落とします。そう言え」

 博之は深く頷いた。

「その言い方、いただきます」

「飯はうまいのに、言葉は危なっかしいからな」

「自覚はあります」

「あるならよい」

 城主は少し笑った。

 博之は改めて頭を下げた。

「正直申し上げますと、私はただ飯を食わせたいだけでございます。飯に困っている者に飯を食わせ、

 働き口を作り、町にも返す。それだけのつもりが、気づけば大きくなりすぎました」

「大きくなった者は、“つもり”だけでは済まん」

「はい」

「飯屋にしては、妙なバランス感覚が求められておるな」

「本当にそう思います」

「だが、それができるなら、お前はもっと伸びる」

 城主は、少しだけ真面目な目で言った。

「ただし、伸びるほどに頭を下げろ。飯を出せ。銭を落とせ。敵を作るな。味方を作りすぎて閉じるな」

 博之は、その言葉をゆっくり飲み込んだ。

「はい」

「それができるなら、伊勢城下の端、試してみるがよい」

 静かな許しだった。

 博之は深く、深く頭を下げた。

 松坂で怒られ、伊勢で諭される。

 飯屋にしては、おかしな立場になったものだと思う。

 だが、それでも進むしかない。

 飯で人を集める以上、その人の流れと銭の流れまで背負わねばならない。

 帰り道、博之はぽつりと言った。

「飯屋って、こんなに政治いるんか」

 ヨイチが即答した。

「旦那の飯屋だけです」

 お花は静かに笑った。

「でも、旦那様なら、きっとできます」

 博之は少しだけ苦笑した。

「できるかどうかは知らんけど、頭下げるしかないな」

 松坂にも、伊勢にも。

 九鬼にも、寺社にも。

 町の者にも、働く者にも。

 そうやって、伊勢松坂屋はまた一歩、飯屋とは思えないほど慎重に、しかし確かに伊勢城下へ

 近づいていった。

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