博之43歳三月初旬。松坂城の城主から普請のための寄進の代わりに飯で返せと言われて持参する。
三月初旬。
松坂の上司筋から、伊勢松坂屋へ使いが来た。
「普請がある」
それを聞いた瞬間、博之は少し背筋を伸ばした。
普請。城や町の普請仕事である。
去年の三月、博之は無一文に近い状態で、その普請に混じって働いた。
そこで得たわずかな銭を元手に、郊外のボロ小屋で豚汁屋を始めたのだ。
だから、その言葉には少し特別な響きがあった。
使いの者は続けた。
「今回は、いつもの五千文の寄進はいらん。代わりに飯を出せ。働く者らを元気づけてくれ、
とのことや」
「飯で、ですか」
「そうや。松坂屋なら、その方がええやろう、とのことや」
博之は少し黙り、やがて頷いた。
「承知しました。城下の店も使って、大量に用意します」
その日のうちに、伊勢松坂屋は動き出した。
混ぜ飯の握りを大量に作る。
たくあん混ぜ飯、梅しそ飯。
田楽、すり身天、野菜天。
大鍋では豚汁と、魚のあら汁を炊く。
新しい焼き飯も少し出す。
竹べらと器も用意する。
普請の現場で腹を満たせるように、熱い汁と腹にたまる飯を中心に整えた。
当日、博之は紋付き袴を着て、古参の者たちを連れ、飯を運び込んだ。
松坂の上司筋は、普請場の様子を見ながら博之を迎えた。
「来たか、松坂屋」
「お呼びいただき、ありがとうございます。本日は寄進の代わりに飯を、とのことでしたので、
できるだけ腹にたまるものを持ってまいりました」
「うむ。今の時期は普請があってな。働く者らも疲れておる。銭をもらうより、
今日は飯で元気づけてやってくれ」
「承知しました」
博之が頭を下げると、城主方は少し笑った。
「お前、去年の普請に来ておったそうやな」
博之は顔を上げた。
「はい。実は、去年の三月の普請に、無一文で参加しておりました」
「なんや、お前、あの時の普請におったんか」
周囲の者たちも、少しざわついた。
「はい。あの時いただいた給金を元手に、郊外のボロ小屋で豚汁屋を始めました」
「では、今の伊勢松坂屋は、あの普請の銭から始まったようなものか」
「まことに、その通りでございます」
城主は、目を細めた。
「世の中、分からんもんやな。去年は普請場で銭をもらう側だった者が、
今年は普請場に飯を振る舞う側か」
「本当に、ありがたい話でございます」
「去年の普請飯は、今の松坂屋の飯に比べたら、だいぶ貧相やったんちゃうか」
そう言われ、博之は少し苦笑した。
「正直に申し上げますと、まあ、そうでございますね」
周囲に笑いが起きる。
「失礼ながら、去年の私は何を食べてもありがたい状態でしたので、味がどうこうと
言える身ではありませんでした」
「今ではどうや」
「今では、うちの従業員の舌が肥えすぎて困っております」
その言葉に、城主が眉を上げた。
「舌が肥えすぎて困る?」
「はい」
博之は少し困ったように笑った。
「もともと私は、郊外で飯の食い口に困っていた者や、身寄りのない者を雇っておりました。
飯と寝床があればありがたい、という者たちです」
「うむ」
「それが今では、うちの混ぜ飯や豚汁や親子丼、すり身天、焼き飯に慣れてしまいまして」
「焼き飯とは何や」
「混ぜ飯を菜種油で炒め、野菜や卵を合わせた新しい食べ方でございます。後ほどお持ちします」
「また変な飯を考えたな」
「飯のことだけは、どうにも頭が動きますので」
博之は続けた。
「それで、最近は普通の白飯を出すと、うーん、という顔をする者まで出てきました」
「なんやそれは」
「いや、ありがたい話ではあります。ありがたい話ではあるのですが、元は飯に困っていた者たちが、
今では漬物を混ぜた飯でないと物足りないとか、汁に深みがないとか、
焼き飯の焦げが足りないとか言い出すのです」
城主は、たまらず笑い出した。
「お前、それは贅沢に育てすぎや」
「おっしゃる通りです」
「飯に困っていた者を拾ったはずが、舌の肥えた飯食いに育ててしまったわけか」
「はい。しかも、それを私は従業員に“呪い”とか“毒”とか言っております」
「不吉なことを言うな」
「いえ、私の飯がうますぎて、よそに行けなくなるのです」
普請場にいた者たちが、どっと笑った。
「よその飯が物足りなくなる。うちの飯を食った者は、もう普通の握り飯では満足しにくくなる。
だからこれは、飯屋の呪いでございます」
「言い方が悪すぎる」
「ですが、少し本気で思っております」
城主は笑いながら、持ってこられた混ぜ飯の握りを一つ取った。
「これが、その呪いの飯か」
「たくあん混ぜ飯でございます」
ひと口食べる。
少しして、城主は頷いた。
「……うまいな」
「ありがとうございます」
「塩気がちょうどよい。普請場ではこういう飯がええ」
「梅しその方もございます。こちらは少しさっぱりしております」
「なるほどな」
次に豚汁が配られた。大鍋から立つ湯気に、働いていた者たちの顔がほころぶ。
寒さの残る三月初旬、熱い汁は何よりありがたい。
「おお、うまい」
「これは腹にたまる」
「松坂屋の飯か」
「去年とえらい違いや」
そんな声があちこちから上がる。
城主は、その様子を見ながら言った。
「今日は寄進の金代わりに、飯を吐き出してもらおうと思ったのだ」
「はい」
「この前は、少し私も拗ねていた」
博之は一瞬、言葉を止めた。
「……そのように言っていただけると、ありがたいです」
「お前も思うところはあったやろう」
「正直に申し上げますと、ございました」
「怖かったか」
「怖かったです」
博之は素直に答えた。
「松坂をないがしろにするつもりはなかったのですが、そう見えたこと自体が怖かったです。
私は去年、無一文でこの松坂の普請に拾っていただいたような身ですので」
「うむ」
「ここまで来られたのは、松坂で始めさせてもらえたからでございます。その感謝は忘れておりません」
城主は、静かに頷いた。
「ならよい。伊勢へ広げるのは止めん。だが、松坂を忘れるな」
「はい」
「今日は、その気持ちを飯で見せてもらう」
「精一杯、振る舞わせていただきます」
そこへ、焼き飯が運ばれてきた。
竹べらで掬って食べる、少し珍しい飯である。混ぜ飯を炒めているため、香ばしい匂いが立つ。
「これが焼き飯か」
「はい。普通の白飯ではなく、漬物を混ぜた飯を油で炒めております。野菜の端、卵、少しの
味噌を合わせ、竹べらで食べます」
城主が口に運ぶ。
「……これも面白いな」
「ありがとうございます」
「握り飯でもなく、雑炊でもなく、焼いた飯か」
「余った飯玉を、別の飯に変える工夫でございます」
「飯のことに関しては、本当によう考える」
「飯屋でございますので」
「それを言えば何でも許されると思うなよ」
「気をつけます」
また笑いが起きた。
すり身天も評判がよかった。魚のすり身を揚げたものは、普請で働く男たちにも食べやすく、
腹にたまる。
「これも九鬼の方で出しておるやつか」
「はい。港飯として始めましたが、松坂でも使えると思いまして」
「うまいから困る」
上司筋の者は、以前と同じようなことを言った。
「怒るにも、飯がうまいと気が削がれる」
「それは、飯屋としてはありがたいことでございます」
「怖い男や」
博之は苦笑して頭を下げた。
普請場では、飯が次々と配られていった。
混ぜ飯の握り。
豚汁。
あら汁。
田楽。
すり身天。
焼き飯。
働いていた者たちが、湯気の中で笑い、食べ、また力を取り戻していく。
その光景を見ながら、城主は言った。
「この一年で、松坂の飯はだいぶ変わったかもしれんな」
「そう言っていただけると、ありがたいです」
「よい方に変わったのなら、よい。ただし、お前の飯の毒とやらで、町の者まで舌が肥えたら困るぞ」
「それはもう、少しずつ回っているかもしれません」
「おい」
「申し訳ございません」
博之が頭を下げると、また笑いが起きた。
その日の振る舞い飯は、普請場を大いに沸かせた。
寄進の五千文はなかった。
だが、その代わりに出した飯は、五千文以上に働く者の腹と心を満たした。
博之は、普請場の端に立ちながら、去年の自分を少し思い出していた。
無一文で働いた三月。
腹を空かせていた自分。
そこから一年。
今は、飯を振る舞う側にいる。
それがありがたくもあり、少し怖くもあった。
けれど、湯気の向こうで笑う者たちを見ていると、こう思えた。
やはり、飯で返すのが一番いい。
松坂に受けた恩は、松坂の腹を満たすことで返す。
博之はそっと頭を下げ、また大鍋の方へ向かった。




