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松坂郊外の住職に今後の伊勢松坂屋が松阪で嫌われないように金を使いながら大所帯を維持するか話を聞く

住職に促されて、博之はしばらく黙っていた。

揚げ出し豆腐と焼き飯の皿は、もうだいぶ空いている。外では寺の子らが野菜天ぷらを分けてもらい、

嬉しそうにしている声が聞こえていた。

その穏やかな声を聞きながら、博之はぽつりと漏らした。

「……従業員へのお口というか、方針で悩んでるんですわ」

「お口、ですか」

「はい。働き口の作り方です」

 住職は黙って続きを待った。

「今、松坂では郊外、本店、城下、街道、松坂港への道、港の横丁までやってます。

 伊勢方面にも街道を伸ばして、伊勢郊外と港に足をかけました。津の方にも、

 松坂と津の間の街道で少し始めてます」

「かなり広がりましたな」

「そうなんです。松坂に関しては、もう広げ切った感覚があるんです」

 博之は膝の上で手を組んだ。

「もちろん、今回の焼き飯みたいに、新しい飯は出せます。焼き飯屋を一つやるとか、

 雨の日に傘と布を売るとか、買い付け方を作るとか、そういう工夫はできます。

 でも、飯単品で従業員をどんどん増やしていくのは、もう限界が見えてきました」

「なるほど」

「今は三百人を超えて、下手したら三百八十、四百に届くかもしれない。飯屋としては、

 明らかにおかしい人数です」

 住職は少し笑った。

「ご自覚はあるのですね」

「あります。ありすぎて困ってます」

 博之は苦笑した。

「今回、松坂に金を落とせと言われて、布団二百組を買うと即答しました。十六万文使う。

 これはこれで意味があります。松坂の布団屋、古道具屋、仕立て直しの者に銭が落ちるし、

 うちの者の寝床も整う」

「それは良い使い道でしょう」

「ただ、その次が思いつかないんです」

 博之は息を吐いた。

「布団を買う。傘を買う。手ぬぐいを買う。そういうのはできます。でも、そこから酒屋をやる、

 布団屋をやる、草履屋をやる、何でもうちでやるとなると、松坂の中の商売に入り込みすぎる」

「既存の商いを食ってしまう、ということですか」

「そうです」

 博之は頷いた。

「うちは人数が多い。飯と寝床があるから、従業員の銭も貯まる。そうなると、うちの中で

 買わせれば回ってしまうんです。布団も、櫛も、髪紐も、甘味も、傘も、酒も、何でもうちで

 仕入れて、うちの者に売る。そうなったら、伊勢松坂屋の中だけで銭が回る」

「それは強いですが、怖くもありますな」

「そうなんです。外から見たら、松坂屋が町の商いを吸い込んで、内側だけで大きくなってるように

 見える。そんなもん、嫌われるに決まってるでしょう」

 住職は静かに頷いた。

 博之は続ける。

「だから、今考えてるのは、炊き出しです。蔵にある米や味噌や調味料を使って、市の日に

 振る舞い飯をする。機会型の振る舞い飯です。常に無料にするんじゃなくて、折を見てやる」

「それは町の者にも分かりやすいでしょう」

「はい。うちは儲けてる分、返してます、という形にはなる。でも、そればっかりやと、

 今度は施し屋みたいになる。それも違う」

「ふむ」

「もう一つは、交流です」

「交流」

「もともとうちは、身寄りがない者、働き口がない者、老後の当てがない者を拾ってきました。

 だから、うちの中だけで固まるより、松坂の人たちとつながってもらった方がいいと思ってます」

「縁を結ぶ、ということですな」

「はい。お見合いもどきというか、飯イベントというか。若い衆や女衆が、町の者と一緒に飯を食う。

 そこで縁ができれば、松坂に根づける」

 博之は少し声を落とした。

「逆に、うちの従業員同士だけで付き合って、結婚して、子どもができて、全部うちの中で

 完結すると、なんか宗教みたいになる気がするんです」

 住職の眉が少し動いた。

「宗教みたい、ですか」

「はい。飯も寝床も仕事も結婚も子どもも、全部伊勢松坂屋の中。そうなったら、

 もう町から見て気持ち悪いでしょう。敵を作ると思うんです」

「なるほど。閉じた共同体になることを恐れておられる」

「そうです」

 博之は深く頷いた。

「だから、うちの者はできるだけ町に出したい。松坂の男と縁ができてもいい。

 松坂の女と縁ができてもいい。町の人とつながって、うちから出ても暮らせるようになってほしい。

 だけど、それをどう仕組みにするかが難しい」

 住職は箸を置き、ゆっくり茶を飲んだ。

「それで、伊勢へ広げたのですな」

「はい」

 博之は正直に答えた。

「松坂だけでは、もう受け止めきれない。飯だけで雇い続けるには狭い。だから伊勢に広げる。

 港に広げる。津にも少し伸ばす。そうすれば、働き口も増えるし、銭の流れも外へ出せる」

「伊勢に派手に使った理由も、それですか」

「そうです。伊勢に金を落とすことで、伊勢に受け入れてもらう。松坂の中で膨らみすぎるより、

 外に広げる方がまだ健全かなと思ったんです」

「しかし、それもまた敵を作るかもしれない」

「そこなんです」

 博之は少し笑ったが、目は笑っていなかった。

「よその土地へ行けば、そこの商売を食うかもしれない。かといって、ただ寄進するだけでは変です。

 飯屋が金だけ撒いて回るのも、不気味でしょう」

「そうですな」

「だから悩んでるんです。どういうやり方が中庸なのか」

 部屋は少し静かになった。

 外の子どもたちの声も遠くなる。

 住職は、しばらく考えてから言った。

「松坂屋さん」

「はい」

「まず、全部を自分の店にしようとしないことです」

 博之は顔を上げた。

「全部を、ですか」

「はい。酒屋をやる、布団屋をやる、草履屋をやる。そうすれば確かに儲かるでしょう。

 しかし、それは町の商いを奪います。ならば、買う側に回るのがよい」

「買う側」

「布団は松坂の布団屋から買う。傘は松坂や伊勢の笠屋から買う。小物は伊勢の店から買う。

 松坂屋さんは、それを従業員へ回す。手間賃は取る。だが、作り手や売り手を潰さない」

「今やってる購買方ですね」

「それを徹底するのです。自分で作るのは、飯と、飯に直結するものまでにする。あとは町から買う」

 博之は黙って聞いていた。

「次に、施しは日を決めることです」

「日を決める」

「常に施せば、施される側も施す側も歪みます。市の日、祭りの日、寒い日、雨の日、年越し、

 飢えが出た時。折を決めて振る舞う。それなら町の祝いにもなります」

「なるほど」

「三つ目は、外へ出る道を作ることです」

「従業員を、ですか」

「はい。松坂屋の中で一生抱えるのではなく、町の家に嫁ぐ、婿に行く、小さな店を持つ、

 寺社や町の手伝いに出る。そういう道を作る。焼印や紋付きの話も、その一つでしょう」

「はい」

「ただし、出た者からも吸い上げようとしすぎないことです」

 その言葉に、博之は少し苦笑した。

「痛いところを」

「縁は残す。だが、首輪にはしない」

 住職の声は穏やかだったが、はっきりしていた。

「そして最後に、店の中だけで縁を閉じないことです。お見合いもどき、飯会、町との交流。

 それは大事です。町に笑われながらでも、町と混ざる方がよい」

「やっぱり、そうですか」

「はい。閉じた集団は強いですが、恐れられます。開いた集団は面倒ですが、長持ちします」

 博之は、その言葉をゆっくり噛みしめた。

「開いた集団、ですか」

「松坂屋さんは、飯で人を集める力を持っています。ならば、その飯を使って、町とつなげばよい」

「飯会をやる」

「はい。炊き出しだけではなく、町の若い衆、職人、商人、寺社の手伝い、漁師、そういう者たちと一緒に食べる場を作る。食べれば、話ができます」

 博之は小さく笑った。

「結局、飯ですか」

「結局、飯です」

 住職も笑った。

 博之は少し肩の力が抜けた。

「じゃあ、方針としては、うちで全部作らない。町から買う。施しは日を決める。

 従業員は外へ出す道を作る。縁は閉じない。飯で町と混ぜる」

「そうですな」

「伊勢や津に広げるのは」

「広げるなら、その土地で買い、その土地に挨拶し、その土地の者を雇い、

 その土地に返すことです。松坂屋が土地を飲み込むのではなく、土地に根を下ろす」

「難しいなあ」

「難しいですが、松坂屋さんならできるでしょう」

「なんでそう思うんですか」

「愚痴を言いに来るだけの分別があるからです」

 博之は思わず笑った。

「そこですか」

「はい。悩んでいるうちは、まだ大丈夫です」

 住職は、揚げ出し豆腐の残りを見ながら言った。

「悩まなくなったら、怖い」

 博之はその言葉に、少しだけ背筋を伸ばした。

「……覚えときます」

「では、焼き飯をもう少しいただいても?」

「もちろんです。愚痴代です」

「それはよい取引ですな」

 住職が笑い、博之も笑った。

 悩みが消えたわけではない。

 松坂で膨らみすぎた所帯をどうするのか。

 伊勢へ広げても敵を作らないか。

 従業員を抱えすぎて、閉じた国のようにならないか。

 答えはまだ途中だった。

 だが、少なくとも一つ見えた。

 銭は止めない。

 人も閉じ込めない。

 飯で町とつなぐ。

 博之は帰り道、その三つを何度も頭の中で繰り返していた。

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