松坂の城の方が怒っていたのは松坂をないがしろにされたと思ったから。10万文伊勢に使ったら10万文松坂に使え。布団を16万文かいます
松坂の屋形で待っていた城方の者は、怒鳴るわけではなかった。
ただ、機嫌は明らかに悪かった。
「松坂屋」
「はい」
「最近、伊勢にずいぶん銭を使っておるそうやな」
博之は、頭を下げたまま返事をした。
「はい。伊勢港、伊勢郊外、寺社への寄進、それから買い付け方の初回手配などで、
いくらか使わせていただきました」
「いくらか、ではないやろう」
城方の者は、じろりと博之を見た。
「聞いた話では、十万文ほど伊勢にぶち込んだそうやないか」
博之は内心で、ああ、そこか、と思った。
怒っている理由は、九鬼との付き合いでも、女衆を船に乗せたことでも、
伊勢へ手を伸ばしたことそのものでもない。
松坂を内がしろにしているように見えたのだ。
「松坂屋。お前は松坂で始めた店やろう」
「はい」
「松坂で人を拾い、松坂で飯を売り、松坂で大きくなった。にもかかわらず、
伊勢にばかり銭を落としておるように見える」
「……おっしゃる通りでございます」
博之は素直に頭を下げた。
「別に伊勢へ出るなとは言わん。商いが広がるのは結構や。九鬼と付き合うのも、
港で飯を出すのも、うまくやれるならよい。だがな、松坂に銭が落ちぬようになっては困る」
「はい」
「端的に言う。伊勢に十万文使うなら、松坂にも十万文ほど使え」
部屋の空気が、少し張り詰めた。
ヨイチが横で息を止める。
博之は一瞬だけ考えた。
そして、すぐに答えた。
「わかりました」
「ほう」
「では、布団を二百組買います」
あまりに即答だったため、城方の者の方が少し目を丸くした。
「……布団?」
「はい。うちも所帯が増えておりまして、松坂、伊勢、港、街道と人を置くとなると、
布団はいくらあっても足りません」
博之は淡々と続けた。
「新品の上等なものを二百となると、かなり値が張ります。ですが中古の一式でしたら、
だいたい一組八百文ほどで見込めます」
「八百文」
「はい。二百組で十六万文になります」
ヨイチが横で目を見開いた。
博之はそのまま頭を下げた。
「まずは、松坂の布団屋、古道具屋、布屋に話を通し、二百組、十六万文分を松坂の町で
購入することをお約束します」
城方の者はしばらく黙った。
博之はさらに続ける。
「もちろん、買った布団をそのまま町に振る舞うわけにはまいりません。うちの者に使わせるものです。ですが、銭は松坂の町に落ちます。布団屋、古道具屋、仕立て直しの者、運ぶ者にも仕事が出ます」
「……即決か」
「はい」
「十六万文やぞ」
「必要なものですので」
「お前、少しは悩まんのか」
「悩んでいると、また松坂をないがしろにしているように見えてしまいますので」
城方の者は、少しだけ口元を緩めた。
「そういう割り切りは、小気味よいな」
「恐れ入ります」
「伊勢に十万文使ったから、松坂に十六万文か」
「まずは、でございます」
「まずは?」
「はい。傘、雨拭き布、草履、手ぬぐい、作業用の布、帳面用の紙なども、
松坂で買えるものは松坂で買います。ただ、初手として一番分かりやすく銭が
落ちるのは布団かと思いました」
「なるほどな」
さっきまで固かった空気が、少しずつほぐれていく。
城方の者は、ふっと息を吐いた。
「まあよい。そこまで言うなら、今回のことはいったん腹に収めよう」
「ありがとうございます」
「ただし、松坂屋」
「はい」
「お前はもう、ただの飯屋ではない。松坂で大きくなった以上、松坂の顔も立てろ」
「肝に銘じます」
そこでようやく、城方の者は弁当の方へ目をやった。
「……ほな、飯でも食おうか」
博之は内心で、助かった、と思った。
「はい。今日は、混ぜ飯の握り、田楽、すり身天、それから新しく試しております
焼き飯をお持ちしました」
「焼き飯?」
城方の者が眉を上げる。
「飯を焼くのか」
「正確には、混ぜ飯を油で炒めます」
「炒める?」
「はい。白飯ではなく、たくあんや梅しそを混ぜた飯玉を使います。
漬物の味が染みておりますので、油と卵を絡めると、味がぼやけず、香りも立ちます」
博之は、持参した器を開いた。
焼き飯は冷めきらぬように包まれており、まだ少し湯気を立てていた。たくあんの黄色、
梅しその赤、卵の淡い色、刻んだ葱や茄子が混じり、見た目にも賑やかだった。
「箸では少し食べにくいので、竹のへらで掬って食べます」
「変わったものを考えるな」
「うちの余った飯玉を、別の飯として出せないかと思いまして」
城方の者は、竹のへらでひと口掬い、口に入れた。
少し沈黙があった。
「……うまいな」
博之は、ほっと息を吐きそうになるのをこらえた。
「ありがとうございます」
「飯なのに、いつもの握り飯とは違う。漬物の味が油に合うのか」
「はい。白飯よりも、混ぜ飯の方が合うようです」
「卵も入っておるのか」
「少しだけでございます。親子丼ほどは使いませんので、卵が少ない時にも出せるかと」
「なるほどな」
城方の者は、もう一口食べた。
次にすり身天へ手を伸ばす。
「これは、例の魚の練り物か」
「はい。アジやイワシなどをすり身にして、生姜や大葉、ごぼうなどを混ぜ、油で揚げたものです」
「九鬼のところでやっているというやつやな」
「はい。港飯として始めましたが、松坂でも評判がよく」
城方の者は、すり身天を噛みしめて、少し悔しそうに言った。
「これも、うまいな」
「ありがとうございます」
「うまいから困る」
博之は一瞬、返事に詰まった。
「困りますか」
「私はな、少し怒りに来ておるのだ。松坂を忘れるなと言うために呼んだ。
なのに、お前は十六万文使いますと即答し、飯を出せばうまい」
城方の者は、半ば呆れたように笑った。
「そういうところが怖いわ」
「怖い、でございますか」
「怖い。怒る気を削ぐのがうますぎる。銭の返しも早い。飯もうまい。
しかも下手に隠さず、伊勢に顔をつなぎたいと正直に言う」
博之は深く頭を下げた。
「私は、もともと一文無しでございます。松坂で飯を食わせてもらい、
松坂で始めさせてもらった身です。松坂を忘れるつもりはございません」
「なら、忘れるな」
「はい」
「伊勢に出るのはよい。九鬼と付き合うのもよい。だが、松坂に銭を落とせ。
松坂の者に仕事を出せ。松坂の町が、お前の店が大きくなってよかったと思えるようにせよ」
「必ず」
城方の者は、焼き飯をまた一口食べた。
「この焼き飯も、松坂で出すのか」
「はい。まずは松坂で教え、そこから伊勢にも持っていこうかと」
「また広げるのか」
「飯ですので」
「便利な言葉やな」
場に少し笑いが戻った。
その後、混ぜ飯の握りも、田楽も、すり身天も、持参した弁当はきれいに食べられた。
最初の不機嫌さは、もうかなり薄れていた。
「布団二百組の件、早めに動け」
「はい。松坂の布団屋、古道具屋に話を通します」
「帳面も残せ」
「もちろんでございます」
「また伊勢に大きく使う時は、松坂にも先に使え」
「心得ました」
博之は深々と頭を下げた。
屋形を出ると、ヨイチが小さく息を吐いた。
「なんとかなりましたね」
「なんとかなったな」
「十六万文、即決しましたけど」
「必要な布団や。いずれ買う」
「まあ、そうですけど」
「それに、松坂に金を落とせっていうのは筋が通ってる。伊勢ばっかりやったら、そら面白くない」
ヨイチは少し笑った。
「旦那、怒られてもすぐ商売に変えますね」
「怒られたからこそや」
「しかも飯で丸め込む」
「飯屋やからな」
博之はそう言って、少しだけ肩の力を抜いた。
伊勢へ出るには、松坂を忘れてはならない。
それを、改めて思い知らされた一日だった。
ただし、事なきは得た。
代償は、松坂で布団二百組、十六万文。
けれどそれもまた、松坂の町に銭を落とし、従業員の寝床を整える、次の一手になる。
博之は歩きながら、ぼそりと呟いた。
「……また金使うなあ」
ヨイチがすぐに返した。
「どうせまた戻ってきますよ」
「それが怖いねん」
そう言いながらも、博之の顔には少しだけ笑みが浮かんでいた。




