2月3週目。伊勢松坂屋の買付方の周回がはじまり女衆の評判は上々、焼きめしのお披露目を従業員としていると松坂城主より連絡。嫌な予感がしながら参上すると機嫌が悪い
二月の三週目に入る頃、伊勢松坂屋の本店では、買い付け方の話で持ち切りになっていた。
伊勢便で運ばれてきた香袋、髪紐、櫛、巾着、手ぬぐい、髪油、洗い粉、香の物。
最初は本店の店棚に並べられ、そこから湯浴み場、松坂郊外、城下、街道沿いへと
少しずつ回されていった。
これが、思った以上に受けた。
「この髪紐、伊勢のやつやって」
「香袋、ええ匂いやなあ」
「次の伊勢便、いつなん?」
「買い付け方、ええなあ。伊勢神宮にお参りできるんやろ?」
「うちの店、働いとったら伊勢参りできるかもしれへんって、すごない?」
そんな声が、そこかしこで聞こえてくる。
博之は本店の奥でごろごろしながら、その話を聞いていた。
「なんや、えらい評判ええな」
少し嬉しそうに言うと、ヨイチが苦笑した。
「そらそうでしょう。伊勢の品が買えて、しかも買い付け方になったら伊勢神宮にも参れるんですから」
「女衆の評判がええな」
「かなりええです」
「ということは、わしもそろそろモテてくるかな」
「またそれ言う」
ヨイチは呆れたように言った。
「みんな旦那に惚れてるんやなくて、自分の財布で伊勢のもの買いたいんですよ」
「冷たいなあ」
「現実です」
お花も茶を運びながら、静かに笑った。
「でも、ありがたい話です。私たちは、もともと身寄りがなかったり、食い口がなかったりした
者が多いですから。伊勢神宮に参るという発想すら、なかった者も多いと思います」
博之は少し黙った。
「そうか」
「はい。この一年で、本当に人生が変わったと思っている者は多いです。私もそうです」
お花は穏やかに続けた。
「飯が食べられて、寝る場所があって、銭をもらえて、湯浴みにも行けて、伊勢の品を買える。
さらに働きが認められたら、伊勢へ買い付けに行けるかもしれない。これは大きいです」
ヨイチも頷いた。
「俺もそう思いますわ。旦那に拾われてなかったら、今ごろどうなってたか分かりませんから」
「なんや、急にええ話にするやん」
博之は照れ隠しのように言った。
「けど、ここでは止まらんやろうな」
「また広げるんですか」
「広げるというか、使わなあかんやろ」
博之は天井を見上げた。
「この百何万に近い銭を、わしが死ぬまでに使い切らんとさ。一文無しやった俺からしたら、
持ったまま死ぬのはもったいなさすぎる」
「とりあえず、焼き飯をみんなに教えようと思ってんねん」
「混ぜ飯の油焼きですか」
「そうや。あれ、店で出せる気がする」
以前、余った混ぜ飯に、刻んだ野菜や鶏、味噌、卵を入れて油で炒めたものだ。
白飯ではなく、たくあんや梅しその味が染みた混ぜ飯を使うから、油と卵に負けず、香りもよかった。
「あれ、めちゃくちゃうまかったっすよ」
ヨイチが即答する。
「やろ。親子丼ほど卵を使わんでも、温かい飯として出せる。余った飯玉も使える。
雨の日の客にもよさそうや」
「ただ、箸では食べにくいですね」
「そこや」
博之は指を立てた。
「竹のすくうやつを作らなあかん。匙というか、へらというか。使い捨てでもええ。
五千文ぐらいかけて作らせよう」
「また新しい備品ですか」
「いるもんはいる」
「容器もいりますね」
「そうやな。皿というか、椀というか、持ち歩き用の簡単な器もいる。とりあえず一万文使おう」
「一万五千文、即決ですか」
「松坂だけやなく、伊勢にもいるぞ」
ヨイチは帳面を押さえながらため息をついた。
「旦那、ほんま銭使う時だけ早いですね」
「飯のためや」
その日のうちに、松坂本店の調理場では、焼き飯の試作会が始まった。
余った混ぜ飯を崩す。刻んだ鶏を入れる。茄子、大根葉、葱、たくあん、梅しそ、
漬物の端を細かく切る。菜種油を熱し、具を炒め、味噌を落とし、卵を絡め、飯を入れて
へらでがちゃがちゃと崩す。
香ばしい匂いが調理場に広がった。
「これ、まかないでもいけますね」
「魚の塩焼きのほぐし身を入れてもええんちゃいます?」
「すり身天の端を刻んだら、港焼き飯になりますよ」
「鮪鍋の残り身でもいけるかも」
古参たちは次々と案を出した。
「具材は何でもええ」
博之は言った。
「大事なのは、飯玉を温かい別の飯に変えることや。白飯より混ぜ飯がええ。漬物の味が
染みとるからな。これをまかないで練習して、うまい形を探せ」
お花が味見して頷く。
「これは売れます。特に寒い日や雨の日には喜ばれると思います」
「やろ」
「ただ、油の量と味噌の加減は人によってばらつきそうです」
「そこは研究やな。感覚でやるとあかんから、何杯に対して味噌どれぐらい、卵どれぐらい、
油どれぐらいか、誰か書いといてくれ」
ヨイチが即座に反応した。
「また帳面ですか」
「飯の帳面や。大事やろ」
「大事ですけど、また増えます」
「それはお前が頑張れ」
「ひどい」
そんなふうに笑いながら、焼き飯の話は進んでいった。
ところが、その日の昼過ぎである。
松坂の城主から、手紙が届いた。
内容は短かった。
――一度、挨拶に来い。
博之はその文を見て、顔をしかめた
「……嫌な予感がするなあ」
ヨイチも覗き込む。
「何か怒らせましたかね」
「心当たりが多すぎる」
「多すぎるんですか」
「寄進しすぎ、店増やしすぎ、伊勢行きすぎ、九鬼様と仲良くしすぎ、
女衆を船に乗せすぎ、買い付け方作りすぎ、傘売りすぎ」
「最後の方、言いがかりみたいですけど」
「でも、目立ってるのは間違いないやろ」
お花が少し心配そうに言う。
「手土産はどうされますか」
「五千文持っていく。あと弁当」
「親子丼ですか」
「いや、今回は持ち運びしやすい方がええ。混ぜ飯の握り、田楽、すり身天、
焼き飯もちょっと持っていくか」
「焼き飯、もう持っていくんですか」
「試食や。怒られに行くなら、飯で機嫌を取るしかない」
ヨイチが苦笑した。
「旦那の基本戦術ですね」
「飯屋やからな」
そうして博之は、紋付き袴を整え、五千文の包みと弁当を持って、松坂の上司筋の屋形へ向かった。
屋形に入ると、いつもより空気が重かった。
通された部屋で待っていた相手は、明らかに少し不機嫌だった。
「松坂屋」
「はい」
博之は深々と頭を下げた。
「お呼びと聞きまして参りました。ささやかですが、年始からの御礼と、ご挨拶として五千文、
それからうちの飯を少しお持ちしております」
「飯は後でよい」
その一言で、博之の背筋に冷たいものが走った。
――あ、これはほんまにちょっと機嫌悪いやつや。
ヨイチが横で小さく息を止める。
相手は、じっと博之を見た。
「最近、ずいぶん派手に動いておるようやな」
博之は頭を下げたまま、慎重に口を開いた。
「はい。おかげさまで、松坂と伊勢の間で少しずつ商いを広げさせていただいております」
「九鬼の船で伊勢へ女衆を送ったそうやな」
「はい。伊勢の品を仕入れ、松坂の従業員に売るための買い付けでございます」
「飯屋が、今度は小間物か」
「飯屋でございます。ただ、三百人ほどの所帯になりますと、飯と寝床だけでは足りません。
従業員の銭を松坂や伊勢に落とし、町の商いにもつなげたいと考えております」
相手は黙って聞いていたが、表情はまだ固い。
「伊勢に銭を落とすのは結構。九鬼と付き合うのも、まあ分かる。だが、松坂屋」
「はい」
「お前、自分がどれほど目立っておるか、分かっておるか」
博之は、そこでようやく顔を上げた。
嫌な予感は、当たっていた。
ただ、怒りというより、警戒だった。
飯屋のつもりで広げてきたものが、周りからはもう、ただの飯屋に見えなくなっている。
博之は一度、深く息を吸った。
「……分かっているつもりでしたが、まだ足りなかったかもしれません」
そう答えた。
持ってきた弁当の湯気が、部屋の隅で静かに立っていた。




