2月2週分の帳簿の時間。あれだけ・・・10万文寄進したのに全然減らない。伊勢の赤字と集計してもマイナス0.5万文の98万文残り
「はい、旦那様。楽しい楽しい帳簿の時間でございます」
そう言われた瞬間、博之は露骨に嫌な顔をした。
「……伊勢行って、女衆が楽しかった楽しかった言うてる話聞いてる時は、
あんなに気分よかったのにな」
「現実に戻ってきてください」
書記の者が、帳面を何冊も抱えて座る。ヨイチも横に控え、お花も少し離れて茶を用意していた。
「今回は、二月一週目からの二週間でございます。ただし、今回から伊勢港の横丁が増えましたので、
松坂側と伊勢側で分けております」
「とうとう分けるようになったか」
「分けないと、もう何が何だか分かりません」
「分けても分からんぞ」
「旦那様がそれを言わないでください」
そう言われ、博之は麦茶をすすった。
「まあ、始めてくれ」
「まず松坂側でございます。売上は大きく変わらず、湯浴みも相変わらずそこそこ入りまして、
合計で五十七万文ほどでございます」
「相変わらず、よう売れとるな」
「はい。ただし、今回は出費も多うございました」
「知ってる。めっちゃ銭撒いた」
「寄進が十万文です」
「ほらな」
「伊勢郊外への追加支援が一万文」
「うん」
「それから人件費が二十八万文。諸経費が十万文」
「高いなあ」
「高いですが、所帯が所帯ですので」
「それは分かっとる」
「それに加えて、細かい支出が三万文ほどございます。
買い出し、雨支度の手配、拠点間の移動、細かい備品などです」
「三万文って、細かいって言うにはでかいな」
「もう旦那様の金銭感覚が壊れております」
「否定できへん」
書記の者は、帳面を指でなぞりながら続けた。
「もろもろ差し引きまして、松坂側はまさかの四万文プラスでございました」
博之は思わず顔を上げた。
「……は?」
「四万文プラスです」
「いや、待て。十万文以上、銭撒いたよな」
「撒きました」
「寄進だけで十一万文やろ」
「はい」
「伊勢にも出したやろ」
「はい」
「九鬼様にも払ったやろ」
「それは全体計算に入れております」
「なんで増えるねん」
ヨイチが笑った。
「旦那、また増えましたね」
「なんでやねん」
「理由はいくつかございます」
初期の者が落ち着いて説明する。
「まず、伊勢方面に何人か振り分けたことで、松坂側の人件費の伸びが少し抑えられております」
「なるほど……いや、それだけで説明できるかい」
「それだけではありません。傘と雨拭き布です」
「ああ」
「旦那様が言い出した雨支度ですが、手配してすぐに利益が出ました。雨が続いた日がございまして、
街道沿いで思ったより売れました」
「売れたか」
「売れました。しかも、傘と布を買った客が、握り飯や汁も買っております」
「ええやん」
「ただ、その利益で、雨宿りと腰掛けの場所も作ってしまいましたので、
傘単体ではほぼトントンに近い扱いです」
「儲かったらすぐ使うなあ」
「旦那様の指示でございます」
「そうやったな」
「それでも、松坂側は四万文プラスです」
博之は腕を組み、しばらく黙った。
「……減らへんな」
「減りません」
「わし、銭を撒いてるつもりなんやけどな」
「撒いた先から戻ってきております」
「怖いな」
お花が笑う。
「それだけ店が回っているということではありませんか」
「ありがたいけど、帳簿が怖い」
「では次、伊勢側でございます」
初期の者が別の帳面を開いた。
「伊勢側は、郊外と港を合わせまして、収入が七万二千文でございました」
「おお」
「特に港の立ち上がりが、思いのほか良うございました」
「鮪鍋か」
「はい。鮪鍋とすり身天がかなり効いております。最初の一週間はトントンかと思われましたが、
七日目あたりから客がつき始めました」
「やっぱり食うたら分かるんやな」
「はい。港の者が『あれは食える』と言い始めたのが大きいようです」
「ほう」
「この調子なら、次の二週間は伊勢側だけで十万文を超える可能性がございます」
博之は少し身を乗り出した。
「伊勢、立ち上がってきたな」
「ただし、まだ支出も多うございます」
「そらそうやろ」
「人件費と諸経費を引くと、通常運営では三千文ほどの赤字です」
「まあ、立ち上げやしな」
「さらに、伊勢郊外に簡易の湯浴みを二つ、港にも二つ作りました」
「作ったな」
「それで三万文ほど出ております」
「それはしゃあない。人を残すためや」
「その結果、伊勢側全体では一万五千文ほどのマイナス……と見ておりましたが、
細かい戻りや売上計上のずれもあり、最終的には五千文前後のマイナスと見るのが妥当です」
「もうごちゃごちゃやな」
「ごちゃごちゃです」
ヨイチが苦笑した。
「旦那、そろそろ帳簿方を本気で増やさないと死にますよ」
「俺が死ぬんか」
「帳簿を見る者が死にます」
「それは困る」
書記の者が話をまとめる。
「松坂側が四万文プラス。伊勢側が五千文ほどマイナス。さらに、
九鬼水軍への船代とご挨拶分として一万五千文を支払っております」
「そこ漏れてたな」
「はい。そこを入れると、全体ではおおむね五千文ほど減った形になります」
「つまり?」
「ざっくり、手元残りは九十八万文ほどでございます」
博之は天井を見上げた。
「……減らへんな」
「減ってはおります」
「五千文やろ」
「はい」
「九十八万文残ってるんやろ」
「はい」
「減ってへんやん」
「帳簿上は減っております」
「屁理屈や」
部屋に笑いが起きた。
ヨイチが言う。
「しかも、来期から傘と雨拭き布の利益が本格的に乗ります」
「そうやった」
「さらに、伊勢便の買い付け分も乗ります」
「三万文仕入れて四万五千文で売るやつか」
「はい。うまく売れれば、粗利一万五千文。船代や人件費、売れ残りを見ても、一万文前後は残るかと」
「そうなると、また増えるな」
「増えます」
「怖いな」
「旦那様が考えた仕組みです」
「俺、金減らすために使ってるつもりやねんけど」
「使い方が全部、次の売上につながっております」
お花が茶を差し出しながら言った。
「寄進も、買い付けも、傘も、湯浴みも、人を残すため、信用を作るための出費ですから」
「そう言われると、ええことしてるみたいやな」
「実際、悪いことではありません」
博之は麦茶を飲みながら、少し困ったように笑った。
「二月の前半だけで、伊勢港が立ち上がり、傘が売れ、購買方が始まり、
湯浴みが増えて、それでも九十八万文か」
「はい」
「もうすぐ百万文やん」
「ほぼ百万文です」
「飯屋やぞ、うち」
ヨイチが即座に返す。
「もう誰も普通の飯屋とは思ってません」
「わしは飯屋のつもりや」
「旦那だけです」
また笑いが起きた。
博之は帳面を見て、しばらく黙った。
松坂は強い。
伊勢は立ち上がった。
港飯は売れ始めた。
雨の日商売も動き始めた。
購買方は、まだ売上が乗る前から話題になっている。
銭は撒いた。
だが、撒いた銭が道になり、人を呼び、また銭を連れて戻ってくる。
「ほんま、変な流れになってきたな」
博之がつぶやくと、初期の者が言った。
「変ですが、強い流れです」
「ほな、次はどうなる」
「次の二週間で、伊勢側が黒字化する可能性がございます。傘、布、伊勢便の販売も入ります。
松坂側が大崩れしなければ、百万文を超えるかもしれません」
「超えるなあ」
「超えますね」
「超えたらまた寄進せなあかんな」
ヨイチが笑った。
「そしてまた増えるんでしょうね」
「やめてくれ」
博之はそう言いながらも、どこか楽しそうだった。
帳簿は面倒くさい。
数字は頭が痛い。
けれど、その数字の奥には、人と飯と商いが確かに動いている。
松坂と伊勢が、少しずつつながっていく。
博之は帳面を閉じさせ、麦茶を飲み干した。
「まあ、無事やったな」
「はい。無事どころか、順調です」
「ほな、次も気ぃつけていこか」
そう言って、博之は畳にごろりと転がった。
「旦那様、まだ終わってません」
「終わったやろ」
「細かい帳尻合わせが残っております」
「それは明日や」
「また逃げた」
「今日は九十八万文残ってるって聞いて、もう十分働いた」
ヨイチとお花が顔を見合わせて笑う。
伊勢松坂屋の二月前半は、銭を撒き、港を動かし、雨具を売り、伊勢便を始め、
それでもほとんど減らずに終わった。
帳簿の上では、ざっくり九十八万文。
そして次の帳面には、さらに新しい売上が乗ってくる。
博之は目を閉じながら、ぽつりと呟いた。
「……ほんまに、飯屋なんやけどなあ」
誰も、すぐには肯定しなかった。




