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博之の店で購買方持つ更なる理由。近々は伊勢で金を落とす上お得意様になれる。進出先への楔につかえるかも

博之は、松坂本店の奥で麦茶を飲みながら、まだ購買方の話を続けていた。

 伊勢で小物を仕入れ、松坂の従業員に一・五倍で売る。

 最初は、女衆向けの香袋や髪紐、櫛、手ぬぐい、甘味の話だった。だが、考えれば考えるほど、

 それはただの店内従業員売店では済まなかった。

「この話の、もう一つええところがある」

 博之が言うと、ヨイチが筆を止めた。

「何ですか」

「伊勢に金を落とせる」

 お花が小さく頷く。

「それは大事ですね」

「そうや。うちは今、伊勢の城下町と神宮を狙っとる。港と郊外には足をかけた。

 けど、本丸はまだや。そこで必要なのは、伊勢に貢献してるという形やと思うねん」

「貢献の形が、買い物ですか」

「そうや」

 博之は麦茶を一口飲んだ。

「寄進ももちろん一つや。寺社に銭を置く。神社に頭を下げる。それも大事や。けど、

 それだけやと、うちが偉そうに銭を配ってるようにも見える」

「確かに」

「でも、伊勢松坂屋が伊勢の商人から大量に物を買うとなったら、話が違うやろ」

 ヨイチが少し考え込む。

「伊勢の商人からすれば、客になるわけですね」

「そうや」

 博之は指で机を叩いた。

「例えば、伊勢の城下町で横丁を出したいとする。その時に紋付き袴で挨拶に行くやろ。

 そこで向こうが、“ああ、いつも買ってくれる松坂屋さんやな”となれば、入りやすいやんか」

「初対面ではなくなる」

「そう。金を落とした相手になる」

 お花が続ける。

「伊勢神宮の周りでも、同じですね」

「そうや。もし神宮の端で、うちのすり身天や練り物天ぷらを売ることになったとしても、

 うちは紋付き袴で行く。その時、周りの小物屋、甘味屋、布屋、櫛屋が、“あそこは

 買ってくれる店や”と思ってくれたら、空気が変わる」

「よそ者が売りに来た、ではなく」

「買いにも来てくれる相手、になる」

 博之はそこを強調した。

「これがでかいと思うねん」

 ヨイチが唸る。

「確かに、ただ店を出すだけなら警戒されますけど、先に得意先になっていれば、見方は変わりますね」

「やろ」

 博之は少し勢いづいた。

「普通の参拝客が三百人ぞろぞろ来て、何か買って帰ったとしても、それはただの客や。

 けど、伊勢松坂屋の紋付き袴を着た買い付け方が、“今月は一万文分、香袋と髪紐を

 買わせてもらいます”と言うたら、だいぶ印象に残るやろ」

「衝撃でしょうね」

 お花が言った。

「城下の小物屋で一万文単位の買い付けは、そう多くないと思います」

「そうやろ」

「布団屋や布屋ならまだ大口はあるかもしれませんが、香袋や櫛、髪紐で一万文となると、

 かなり大きいでしょう」

「しかも一回やない。定期的にやる」

 博之は紙に丸をつけた。

「伊勢便。月に二回か、月に一回でもええ。決まった日に行って、決まった額を買う。

 そうすれば向こうも待つようになる」

「得意先ですね」

「そうや。なんなら、“松坂屋さん、今月はこれどうですか”と向こうから出してくるかもしれん」

 ヨイチが笑う。

「旦那、仕入れ先に提案営業させる気ですか」

「ええやろ。向こうも売りたい。うちも買いたい。うちは三百人抱えとる。買う理由がある」

「それは強いですね」

 古参の一人が言った。

「確かに、うちが定期的に買うとなると、向こうも在庫を抱えずに済みます。作ったものが動くと分かれば、少し安くしてくれるかもしれません」

「そこや」

 博之が指を鳴らす。

「最初は定価で買う。礼儀や。けど、毎月一万文、二万文買う得意先になれば、そのうち少し

 割安で買わせてくれるかもしれん」

 ヨイチがすかさず言う。

「握りまでしだすんですか」

「するやろ」

「福利厚生から始まって、買い付け交渉まで行きましたね」

「商いはそういうもんや」

「都合のいい時だけ商人になりますね」

「ずっと商人や」

 博之はそう言って笑った。

「しかも、伊勢だけやない。これがうまくいったら、津でもやれる。志摩でもやれる。

 伊勢湾沿いの港町でもやれる」

「また広がりましたね」

「広がるやろ。次に攻めたいところへ、まず買い付け方を出す。紋付き袴で行って、金を落とす。

 米やら何やらはまだ分からんけど、小物、布、笠、香の物、甘味、道具。何でもええ。

 大量に買う姿を見せる」

「見せつける意味もあるわけですね」

「そうや」

 博之の目が少し鋭くなる。

「“伊勢松坂屋は金を使える”という印象を残す。しかも、ただ威張るのではなく、買う。

 相手の商売を助ける形で金を落とす」

 お花が静かに言った。

「それなら、嫌われにくいですね」

「そう。寄進だけやと、上から銭を置いてるように見えることもある。買い物なら、

 相手の商いを立てることになる」

「それでいて、こちらも従業員に一・五倍で売る」

「うちは手間賃を取る」

 ヨイチが苦笑する。

「抜け目ないですね」

「抜け目ないから続くんや」

 博之は麦茶を飲み干した。

 少し間を置いて、また話し始める。

「思うに、今のうちは大所帯や。三百人以上おる。そこに飯と寝床があって、給金が出る。

 つまり、内部に銭を使う力がある」

「購買力ですね」

「そうや。その購買力を、伊勢や松坂に向ける」

「町から見れば、伊勢松坂屋は大口客」

「そうや」

 博之は満足そうに頷いた。

「だから、伊勢の城下町に入る前に、伊勢の商人の得意先になっとく。神宮に入る前に、

 神宮周辺の店で買い物しとく。そうすれば、うちが店を出す時にも、“あそこならまあええか”

 という空気ができるかもしれん」

 ヨイチは腕を組んだ。

「効果はあると思いますよ」

「ほんまか」

「少なくとも、何もしないよりはかなりいいです。一万文単位で買う町人は目立ちます。

 紋付き袴で来て、礼儀正しく買って、また来ますと言って帰る。それを何度かやれば、覚えられます」

「やっぱりそうか」

「しかも、買い付け役が女衆なら、相手も話しやすい場合があります。小物や甘味なら特に」

 お花が頷いた。

「古参の女衆と若い女衆を混ぜた買い付け組は、よいと思います。買う目もありますし、

 売る時の説明もできます」

「それも大事やな」

「“これは伊勢のこの店で買った香袋です”と説明できれば、従業員も欲しがります」

「物語がつくわけや」

「はい」

 博之はにやりと笑った。

「ただの香袋やなく、伊勢の香袋。しかも、内宮近くで買ったもの。そら欲しくなるわな」

「ただし、神宮の名前を直接使いすぎない方がいいです」

「そこは触らん。あくまで伊勢の品や」

 ヨイチが紙に書く。

「では、購買方の役目は、単なる仕入れではなく、挨拶、顔つなぎ、定期購入、従業員向け販売、

 在庫管理ですね」

「帳簿もやな」

「はい。帳簿も増えます」

「そこだけ嫌やな」

「やらないと無理です」

「分かっとる」

 博之は不満そうに言いながらも、もう腹は決まっていた。

「最初は二万文分ぐらいや」

「伊勢でですか」

「伊勢で一万、松坂で一万でもええ。とにかく買う。買って、うちの者に一・五倍で売る。

 売れ残ったら褒美。甘味は予約。着物や帯は見本制」

「拠点を回すのに十日ほど」

「そうや。十人組で回す」

 ヨイチが頷いた。

「形になってきましたね」

「うん」

 博之は麦茶の椀を置き、少し遠くを見るような目をした。

「松坂と伊勢がつながったということは、飯が動くだけやない。銭が動く。物が動く。人の欲も動く」

「欲ですか」

「かわいいもんが欲しい。ええ香りが欲しい。新しい櫛が欲しい。甘いもんが欲しい。雨の日に傘が欲しい。そういう欲を、ちゃんと商いにする」

「本当に何でも商売にしますね」

「病気やからな」

 博之は自分でそう言って、少し笑った。

 だが、その笑いの奥には、確かな計算があった。

 伊勢の城下町と神宮へ入るために、まず伊勢で買う。

 買うことで、顔をつなぐ。

 顔をつなぐことで、店を出す土台を作る。

 店を出したら、今度は飯で人を呼ぶ。

 その流れの中で、伊勢松坂屋は一・五倍の手間賃を取りながら、さらに大きくなっていく。

「よし」

 博之は言った。

「購買方、作るぞ」

 ヨイチが笑う。

「また人が足りなくなりますね」

「それもまた採用や」

「また三割辞めますよ」

「残ったやつを使う」

 お花が微笑む。

「忙しくなりますね」

「忙しい方が、銭は回る」

 博之はそう言って、また麦茶を注がせた。

 松坂本店の奥で、飯屋の旦那はごろごろしながら、伊勢と松坂を結ぶ新しい銭の流れを描いていた。

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