8話 先駆者 JAZZとの出会い
ここは、病院というレイド型ダンジョン。
毎日このダンジョンで大量のプレイヤーを相手にしている、本物の高レベルキャラクターなのだ。
その時。
石橋さんの視線が僕を捉えた。
眼鏡の奥で、ほんの少しだけ笑った気がした。
「――さて」
彼は老人たちへ向き直る。
そして静かに告げた。
「順番ですのでね。皆さんも、ご自身の番号が呼ばれるまで座ってお待ちください」
その瞬間だった。
まるでレイドボスが全体沈黙魔法を発動したみたいに、老人たちが一斉に静かになる。
「はいはい」
「そうだったねぇ」
「呼ばれたら行くよ」
「先生も忙しいからね」
わらわらと散っていく古参プレイヤーたち。
(これはワイプ(全滅)だよな?)
数秒前までのボス戦の混沌が嘘みたいだった。
僕はただ呆然とその光景を見送る。
そして思った。
(この人……思ったよりずっとヤバい人だったんだな……)
「それで灰実くん」
(ボスのタゲがきた!)
老人たちが去った後、石橋さんは何事もなかったように僕へ視線を戻した。
「指の調子はどうです?」
「なんでしょうかね?」
僕は反射的に包帯を巻いた左手を隠した。
なぜだろう。
妹に見つかった時とも、病院の先生に見られた時とも違う。
公園で知り合っただけのはずなのに。
ゲームの話も、ギターの話も、路地裏の黒歴史も。
全部見られていたような気がして、少しだけ居心地が悪かった。
翌日の夜。
いつもの公園のベンチには、深い疲労感と共に夜風に吹かれるぼくの姿があった。
左手には真新しい包帯。
昨日の大病院での理不尽なクエストの連続は、ぼくのゲーマーとしての自尊心と体力を徹底的にすり減らしていた。
効率化、最短ルート、最適解。
ぼくが信じて疑わなかったそれらの現代的な戦術は、あの巨大でアナログなシステムの前では何の意味も持たなかった。
ただの無力な村人Aとして、言われるがままに右へ左へと歩かされた敗北感だけが残っている。
カツ カツ カツ
そんなぼんやりとした思考の海を、見慣れた足音が引き裂いた。
「こんばんは、灰実くん。昨日は……随分と大変な目に遭っていたようですね」
顔を上げると、そこには石橋さんが立っていた。
白衣ではなく、いつもの落ち着いた私服姿。
しかし、今日は一つだけ決定的に違うところがあった。
彼の手には、今まで一度も見たことのない、黒くて重厚なハードケースが握られていたのだ。
「……石橋、さん。そのケースは?」
ぼくの問いかけに、石橋さんはふっと柔らかく笑い、ベンチの隣に腰を下ろした。
「ええ。君の怪我に感化されましてね。私も少し、古い相棒を引っ張り出してきたんですよ」
カチャリ、と静かな夜の公園に、金属の留め具を外す音が響く。
蓋が開かれたケースの中には、街灯の光を反射して鈍く、そして妖しく輝く黄金色の金属の塊――アルトサックスが眠っていた。
カチャリ、と金属のキーが鳴る。
石橋さんが黄金色のサックスを構え、静かに息を吹き込んだ。
――放たれたその『音』に、ぼくは息を呑んだ。
正確無比でありながら、圧倒的な『本物の質感』がそこにあった。
デジタルで作られた人工的なコーラスやディレイではない、まるで蚊の羽音のような、細かく生々しい揺らぎ(ビブラート)。
その空気を伝う物理的な振動が、ぼくの心臓を直接鷲掴みにし、激しく揺さぶってきた。
圧倒されているぼくを見て、石橋さんは詠唱具から口を離し、穏やかに笑った。
「どうですか、野良猫くん」
野良猫。
その突然の呼び名に反発する余裕すら、今のぼくにはなかった。
「面白いでしょう。……でも、派手さはない」
石橋さんの言う通りだ。
ぼくが普段やっているような、派手さは、この単音にはない。
しかし、そのたった一つの音が持つ『情報量』と『説得力』は、ぼくの構築してきたデジタル要塞を容易く貫通してしまった。
「……なぜ、変えないんですか」
僕は思わず訊いた。
「もっと派手にできますよね」
石橋は少し考えた。
「そうですね」
否定しない。
それが逆に意外だった。
「実際、音楽の世界もずっと新しいものが生まれています」
「じゃあ」
「ですが」
石橋はサックスを見た。
「病院も同じですよ」
「病院?」
意外な単語だった。
「昨日の、大病院は理不尽だと言っていましたね」
「言いました、今も思ってます」
即答だった。
石橋は苦笑する。
「私も思いますよ」
「え?」
「もっと効率化できる部分はあります」
「ほら」
「ですが」
石橋は指を一本立てた。
「百年前の医者も同じことを考えました」
「……」
「十年前の医者も考えました」
夜風が吹く。
「その結果、生き残った仕組みだけが今残っています」
僕は黙る。
「音楽も同じです」
石橋は静かに続けた。
「クラシックもジャズも、当時は最新でした」
「最新?」
「ええ」
少し想像できなかった。
ベートーベンもモーツァルトも。
僕にとっては歴史資料だ。
「ですが何万曲もあった中で、今でも演奏されている曲だけが残った」
サックスを軽く叩く。
「この楽器もそうです」
「……」
「古いから残ったのではありません」
カチャリ。
キーが鳴る。
「残るだけの理由があったから残ったんです」
その言葉は妙に重く響きわたり、僕はギターケースを見る。
昨日まで。
古いゲーム機、古いギター古い音楽。
そんなものは全部アップデート前の旧装備だと思っていた。
「野良猫くん」
石橋が言う。
「新しいものは面白いですよ」
「はい」
「私も好きです」
少し意外だった。
「ですが」
石橋は微笑む。
「長く残ったものには、それとは別の面白さがあります」
そしてサックスを吹く。
今度は短いフレーズだった。
派手さはない。
速弾きもない。
技巧の誇示もない。
それなのに。
なぜか耳が離れなかった。
「……なんなんですか、それ」
僕は思わず訊く。
石橋は答える。
「二百年以上前の曲です」
灰実は絶句する。
二百年。
PS3どころか。
ファミコンどころか。
インターネットすら存在しない時代。
それでも残っている。
その事実だけが、
今まで聞いたどんな説明よりも説得力を持っていた。




